芥川龍之介書簡抄130 / 大正一五・昭和元(一九二六)年二月(全) 二十一通
大正一五(一九二六)年二月二日・消印三日・湯河原発信・東京市小石川區丸山町三〇小石川アツパアトメント内 小穴隆一樣・二月二日 相州湯河原中西内 芥川龍之介
冠省。御手紙拜見仕り候。西田さんから、どう言ふ意見を求められる乎わからぬ故、何とも唯今は申上げ兼ね候ヘども小生の所存だけは勿論申しのべるつもりなり。君の手紙と一しよに高橋文子女史からいつかへるかと言ふ手紙が來た故 十五日―二十日間にかへるつもりのよし返事をさし上げ候。僕はそんなことなら、この間ちよつと歸つた時、君に會へばよかつたと思つて後悔してゐる。文子女史の手紙はいつものやうだが、君の手紙には 興奮を感ずる故、どうも多少氣がかりだ。僕の神經衰弱、胃腸病共に依然たるものあり。欝々として消光罷在候。
二月二日 芥川龍之介
小穴隆一樣
二伸 月末のお金御不足ならば御遠慮なく文藝春秋出版部からとつてくれ給へ。僕の印税からでも何でも繰り合せはつくから。
[やぶちゃん注:前月分の一月二十一日附小穴隆一宛の私の注で完全に注は不要と思う。相変わらず、ぐだぐだして二人の縁談は一向に進展しないのである。]
大正一五(一九二六)年二月五日・湯河原発信・齋藤茂吉宛
冠省、御手紙拜見仕り候。いろいろ御親切に預り、難有く存候。煙草は早速節すべく候。それから神保さんは診察料、處方料ともとつて下さらず、困り居り候間、御次手の節御宿所お知らせ下され候はば幸甚に存候(コレハ本當ニ御次手ノ節ニテヨロシク候)なほ又神保さんのお名前も伺ひたく存候。土屋君と當地へお出でのよし承り居り候へども、その後如何に相成り居り候や。小生は十五日より二十日までの間に歸京仕らん乎と存じ居り候。書きたきものも病弱の爲書けず、苦しきことは病弱の爲一層苦しみ多し、御憫笑下さるべく候。頓首
二月五日 芥川龍之介
齋 藤 茂 吉 樣
[やぶちゃん注:「神保さん」内科専攻の医学博士神保孝太郎(明治一七(一八八四)年~昭和一三(一九三八)年)。d.omura氏編集になるサイト「歴史が眠る多磨霊園」のこちらに、『山形県出身。東京帝国大学医学部卒業。医学博士。同郷のアララギの歌人で精神科医の斎藤茂吉と友人』。大正二(一九一三)年に『東洋毛様線虫』線形動物門双腺綱円虫目毛様線虫科トウヨウモウヨウセンチュウ(東洋毛様線虫:「様」を付けない表記も見かける)トリコストロンギルス属 Trichostrongylus orientalis はヒトの小腸上部に寄生し、毛状で♂の体長は四~六ミリメートル、♀は五~七ミリメートル。主として経口的にヒトに感染する。多数の寄生が起これば、腹痛・下痢・全身倦怠などを引き起こす。日本(嘗ては東北・北陸地方で多く確認された)・中国・朝鮮半島・台湾などに分布する]『を発見発表した。東京大学内科教室においてアンチホノレミンとエーテルを用いる独自の集卵法により入院患者、病院使役人および院外者』百四十六『名を調べて、十二指腸虫卵と誤られつつある』一『種の寄生虫卵を』四十九名(検査全体人数の三十三・六%)から『検出して、その形状を記載した。引き続き』十三遺体の『主として十二指腸内容物を調べ』十九対(保持検体の十六名は女性)の『成虫を採集し』、『その形態を詳細に観察。人間への寄生虫である東洋毛様線虫として発表した』。『芥川龍之介著の『病中雑記』によると、芥川龍之介の神経衰弱から来る不眠症を対応していた齋藤茂吉の紹介で、神保孝太郎は芥川龍之介の診察をした。診察内容は神経衰弱、胃酸過多症、胃アトニー』(胃下垂に同じ)『等の診断を下し、「この分にては四十以上になると、とりかへしのつかぬ大病になるよし」と申し渡したそうだ』。『斎藤茂吉著の『島木赤彦臨終記』によると神保孝太郎は胃腸病院の内科医として、斎藤茂吉の診察をしたとされる』とある。因みに、引用しておいて何なんだが、芥川龍之介の『病中雜記――「侏儒の言葉」の代りに――』(まさにこの大正十五年二月及び三月発行の『文藝春秋』初出。リンク先は私の詳細注附きサイト版)には、上記引用にあるようなことは書かれていない。或いは、誰かが私の以上のリンク先の冒頭注で、『この頃、不眠と痔に悩まされ、1月15日から2月19日まで湯河原中西屋旅館で湯治。更に、齋藤茂吉の紹介で内科医神保孝太郎の診断を受けたところ、神経衰弱、胃酸過多症、胃アトニー等の診断を下され、「この分にては四十以上になると、とりかへしのつかぬ大病になるよし」を申し渡された(同年2月8日付片山廣子宛旧全集一四四四書簡)。なお、小穴隆一によれば、この年の4月15日に芥川は自裁の決意を彼に伝えたとする』と記してあるのを見て、ちゃんと本文を読まず、安易に芥川龍之介の「病中雜記」に書かれいる、などといい加減なことを書いた誰彼の記事を見て誤られたものかと存ずる。
さて。それにしても、この書簡、どうも気になる。「神保さんは診察料、處方料ともとつて下さらず、困り居り候間、御次手の節御宿所お知らせ下され候はば幸甚に存候」の部分である。今現在、芥川龍之介は湯河原中西屋旅館にいるのである。新全集の宮坂覺氏の年譜でも、突然、二月五日頃として『神保孝太郎(内科医)の診察を受ける。神経衰弱、胃酸過多症、胃アトニーと診断され』、『「この儘齡四十になると潰瘍か癌になる事うけ合ひ」などと言われた』(後出の二月二十日附佐藤春夫書簡の引用)。『この診断にはこたえたらしく、しばしば』書簡で『言及している』(後の書簡参照)とあるのだが、どこで診察を受けたのだろう? しかも薬の処方まで受けている。繰り返す。彼は湯河原の温泉にいるのである。「先月末の一月二十八日に一時帰宅しているから、その時、東京近辺のどこかの病院で診察して貰ったのでは?」という意見には、全く従えない。彼は「診察料、處方料とも」受け取っていないと言っており、更に龍之介はそれではあまりに悪いのでお返しをしたく思い友人である茂吉に「御宿所お知らせ下さ」いと言っている。正規の病院で診察を受けたのなら、「診察料、處方料とも」に受け取らないといのはあり得ないことである。しかも、手紙を送りたいのなら、細かな住所など書かずに、その病院気付で手紙を出せば済むことである。さて、そこで私は、以下のように考える。この時、たまたま湯河原に神保医師は滞在していたのではないか? 茂吉の友人でもあり(或いは前の茂吉の書簡で「丁度、今、神保君は湯河原に行っているとはずから、探して相談してみてはどうか」というような書面があったのかも知れない)親しくなり、自身の病状を語ったところ、以上の病名を確定的に告げ、電話で自身の勤める病院、或いは、町の病院、或いは、薬局に出向いて自身の身分を示し、処方を受け取り、龍之介に渡し、その直後に湯河原を発ってしまったという可能性である。有り得ぬことではない。
「土屋君」土屋文明。]
大正一五(一九二六)年二月八日・湯河原発信・片山廣子宛
冠省、唯今宅より手紙參り、御見舞のお菓子を頂いたよし、難有く存じます。この前のはがきにはこちらの宿所を書かなかつたものと見えます。さもなければ、こちらへ頂戴いたし、この手紙をしたゝめる頃には賞玩してゐたらうと思ひますから。僕は神經衰弱の上に胃酸過多症とアトニイと兩方起つてゐるよし、又この分にては四十以上になると、とりかへしのつかぬ大病になるよし、實に厄介に存じてゐます。何を書く氣も何を讀む氣もせず、唯德冨蘇峰の織田時代史や豐臣時代史を讀んで人工的に勇氣を振ひ起してゐる次第、何とぞこのリディキユラスな所をお笑ひ下さい。(但し僕自身は大眞面目なのです。)湯河原の風物も病人の目にはどうも頗る憂鬱です。唯この間山の奧の隱居梅園と申す所へ行き、修竹梅花の中の茅屋に澁茶を飮ませて貰つた時は、僕もかう言ふ所へ遁世したらと思ひました。が、梅園のお婆さん(なもと言ふ岐阜辯を使ひます。)と話して見ると、この梅園を讓り受けるとして、地價一萬二三千圓、家屋新築費一萬圓、溫泉を掘る費用一萬圓、合計少くとも三萬二三千圓の遁世費を要するのを發見しました。その上何もせずに衣食する爲に信託財產七八萬圓を計上すると、どうしても十萬圓位入用です。西行芭蕉の昔は知らず遁世も當節では容易ぢやありません。さう考へたら、隱居梅園も甚だ憂鬱になつてしまひました。いづれ一度お目にかかり、ゆつくり肉體的並びに精神的病狀を申し上げます。
道ばたの墓なつかしや冬の梅
二月八日 芥川龍之介
片山廣子樣粧次
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。数少ない旧全集元版時に廣子から提供された一通(提供書簡はたった四通)である。「この前のはがきにはこちらの宿所を書かなかつたものと見えます」とあるから、湯河原へ行く直前か、湯河原からの発信があったのであるが、それは提供されていない。私は既に「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」の「■書簡15」で本書簡を電子化注済みであるが、今回、零から電子化した。以下の注は、そこでやった注の表記を少し変えて示した。
「德冨蘇峰の織田時代史や豐臣時代史」前月分で注済み。
「リディキユラスな所」ridiculous。「おかしな・馬鹿げた・途方もない・嘲笑に値する」の意の英語。
「山の奥の隱居梅園と申す所」現在、湯河原の知られた梅園幕山公園の梅林は、非常に新しく、これではない。同定不能。郷土史研究家の御教授を是非とも乞いたい。
「修竹」長く伸びた竹の意。
「十萬圓」この書簡の六年前の大正九(一九二〇)年のデータで恐縮だが、内閣総理大臣の月給は一千円、国会議員月給二百五十円、公立小学校教員初任給五十円である。昭和元年とあるデータでは、白米十キログラムの値段が三円二十銭から二円五十二銭であるから、十万円というのは、これ、途方もない巨額である。この叙述――その不可能なこと――即ち、廣子と一緒になること――を暗に示す叙述のようにも読めるが……豈図らんや、廣子がその気なら――彼女にはその気は十分にあったと私は思っているが――それを叶えるだけの財力も決心も覚悟も――彼女には――あった――と、私は思っている――。]
大正一五(一九二六)年二月九日・湯河原発信(推定)・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣(絵葉書)
固形スウプありがたう。はたきを送つた後で落手。頂戴ばかりして汗顏の至りなり。久米をピカ一と言ふ、按ずるに合評會のくづれに花をひきしならん。(サイコアナリシスの手腕驚くべし。)大橋さんへは月末參上仕るべし。どうもまだ僕の神經は弱つてゐる。夜など時々思ひ出していかん。頓首
九日 龍 之 介
奧さんによろしく。
[やぶちゃん注:「はたき」湯河原の土産物屋で買い送ったそれか。私も佐渡で買った藁製の机上叩きを人に贈ったことがある。
「くづれ」久米正雄が自らを「ピカ一」と自慢する不審な手紙をよこしたが、これは恐らくは文芸合評会がそのままただの歓談酒宴となり、さらに「花」(花札)賭博となって、久米が大勝ちをしたことを謂っているのだろう、と龍之介が推理しているのであろう。
「サイコアナリシス」psychoanalysis。精神分析学。ここは花札賭博での他の連中の意識を巧みに察知分析して勝ったという意であろう。
「大橋さん」前月分で既注の、夫が「變死」した、佐佐木模索の妻の姉で養母の大橋繁のこと。]
大正一五(一九二六)年二月九日・湯河原発信・蒲原春夫宛(絵葉書)
御手紙拜見。いろいろ御苦勞さま。三人となると、三人だけのこすのは殘念な心もちもする。乙字は碧童さんにこちらから問ひ合せよう。美妙、篁村、わかる方法なきや。それから加能君から借りた本、訂正をすませたら、加能君へ返却してくれ給へ。大阪よりまだ返事なきや。右こちらも要件だけ。
九日 龍
[やぶちゃん注:結局、芥川龍之介は最も厭な仕事を書生の蒲原春夫に殆どやらせていることが判る。ちょっと厭な感じだ。
「乙字」俳人大須賀乙字。大正九年に没している。例の「近代日本文藝讀本」に所収した彼の著作権料を払うべき遺族・著作権継承者が判らないのであろう同「讀本」第四集には彼の俳句「春月や」其の他が収録されてある。
「碧童」小澤碧童。既出既注の芥川龍之介の最も年齢の上の友人で俳人。因みに、彼の作品も第一集に「冴え返る」其の他が収録されてある。
「美妙」小説家山田美妙。明治四三(一九一〇)年没。同第一集に「嗚呼廣丙號」が収録されている。
「篁村」小説家饗庭篁村(こうそん)。同書第四集に「與太郞料理」が所収。
「加能君」小説家(評論・翻訳もこなした)加能作次郎(明治一八(一八八五)年~昭和一六(一九四一)年)。石川県羽咋郡西海村風戸(現在の志賀町西海(さいかい)風戸(ふと)出身。苦難の少年期を過ごし、早大在学中の明治四四(一九一一)年四月に「厄年」を『ホトトギス』に発表して作家デビューし、大正七(一九一八)年十月に『読売新聞』紙上で連載を開始した「世の中へ」によって作家としての地位を確立、自然主義の流れを汲む、人情味豊かな私小説に独自の境地を拓いたが、昭和に入ってからは低迷した(当該ウィキに拠る)。同第三集に小説「祖母」が所収されており、これは金星堂から大正一一(一九二二)年に刊行されているので、或いは、所収分のそれに誤植があったのを、当人から借りた原本で訂正作業をしていたものかとも思われる。
「大阪よりまだ返事なきや」不詳。『大阪毎日新聞』には一月三十一日附で「虎の話」を発表している。それに関わる何かかも知れぬし、新たな原稿依頼への体調不良を理由とした断りへのそれかも知れぬ。判らぬ。なお、この後の三月八日には同誌の系列紙『東京日日新聞』に『「輪𢌞」讀後』を発表してはいる。]
大正一五(一九二六)年二月九日・湯河原発信・谷口喜作宛
冠省、今日お菓子澤山頂き、難有く存候。小生は目下神經衰弱の外にも胃酸過多症とアトニイとを倂發致し居り候へば少々づつ食後に頂戴仕る可く候。當地の風物、孟宗は黃に梅花は白く既に春意を帶び居り候へども病人の目には憂鬱に相見え、快々と日を暮らし居り候右とりあへず御禮のみ 頓首
二月九日 芥川龍之介
谷口喜作樣
大正一五(一九二六)年二月九日・湯河原発信・土屋文明宛(絵葉書)
山襞の雪消えにけりいたづらにきのふもけふも君を待ちつつ
モウ一二首速成シヨウト思ウタガ面倒故ヤメニスル。コノ頃沈丁花ノ莟大イナリ。來レバイイニ。僕ハマダ不眠ダ。
九日 中西うち 龍之介
大正一五(一九二六)年二月九日・消印十日・湯河原発信(推定)・東京市小石川區丸山町三〇小石川アツパアトメント 小穴隆一樣
冠省、その後御變りなく御淸光の事と存候。この間遠藤光子孃來られたれど、不幸にもまはり合せ惡く 一度も拜顏の機を得ず大いに殘念に存候。それからけふは兎屋居士よりお菓子を澤山頂き、大いに恐縮に存候。どちらも御次手の節よろしく申上げてくだされたし。又小峯よりも手紙參り、裝幀出來のよし伺り[やぶちゃん注:ママ。] 難有く存候。小峯へは既に當方より手紙を遣し居り候間お小遣ひ御入用の節は御遠慮なく御徴發下され度候。伯母は十二三日頃に來るよし さすれば小生も二十日前には歸らるるや否やわからず、しかしなる可く二十日までには歸らんと存居り候。この頃も不相變不眠にて弱り居り候。但しアダリンを用ひぬだけ幾分快方に迎ひしならん乎。數日前佐佐木茂索遊びに參り、二泊して歸り候。滯在中大いに小生の不養生を苦諫致しくれ、澄江堂主人一言も無之仕義に立ち至り候 實はかかる駄弁を弄しながら高橋さんの一件氣がかりなり。尤もこれは神經の弱り居る爲かも知れず、遠藤君の手紙によれば、每日元氣に御制作中のよし、そんな事を考へて多少の安心を强ひ居り候。匆々
二月九日 龍 之 介
隆 一 樣
[やぶちゃん注:「遠藤光子」不詳。筑摩全集類聚版脚注も新全集の「人名解説索引」も同じで、後者には、新全集でも、この書簡にしかこの姓名は載らない旨の記載がある。しかし、小穴宛にこう書いていることから、小穴がよく知っている人物であることが判るから、或いは小穴が、一度、龍之介に逢わせた知人の女流画家なのかも知れない。
「アダリン」既出既注。
「遠藤君」俳人で蒔絵師の遠藤古原草。既出既注。]
大正一五(一九二六)年二月十二日・湯河原発信・里見弴宛
冠省、高著緣談窶[やぶちゃん注:「えんだんやつれ」。]を頂き、難有く存じます。東京から𢌞送して二三日前に落手しました。早速拜見するつもりです。なほこの頃滿潮を拜見しましたが、作者の滿潮を好まれないのは部分的の出來不出來を誇張して考へられるからではないでせうか?「惡き讀者」僕はやはり中々感心しました。右とりあへず御禮まで 頓首
二月十二日 芥川龍之介
里 見 弴 樣
[やぶちゃん注:「緣談窶」大正十四年十二月改造社刊の短編集(十一篇)。
「滿潮」里見の小説。筑摩全集類聚版脚注によれば、『大正十二年八』月から『十二月作』とある。里見自身は失敗作と公言していたのであろう割には、調べると、大正十四年に新潮社から単行本で出している。]
大正一五(一九二六)年二月十四日・湯河原発信・芥川比呂志宛(絵葉書)
コレハダルマダキトイフタキデス。コノタキハオトウサンノヰルトコロノスグソバニアリマス。
ヲバサンモ、オトウサンモ二十三チ[やぶちゃん注:ママ。]ゴロカヘリマス。タカシトケンカヲシナイヤウニ、オトナシクオアソビナサイ。
二月十四日 龍
[やぶちゃん注:「ダルマダキ」「だるま滝」はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「ペンションはな」公式サイト内のこちらに解説と写真がある。]
大正一五(一九二六)年二月十五日・湯河原発信・蒲原春夫宛(葉書)
御手紙拜見いろいろ御手數をかけ多謝。水滸傳所々拜見。思つたよりも上出來なり。裝幀もそんなに惡くないぢやないか? 近世日本史もう皆讀んでしまつた。頭の具合惡く當分仕事は出來さうもない。
湯河原中西 芥川龍之介
[やぶちゃん注:「水滸傳」調べてみると、蒲原春夫現代語全訳として、興文社(例の「近代日本文藝讀本」の出版社である)から前編がこの大正十五年に刊行されている(後編はネット上では確認出来ない)。
「近世日本史」既出既注の「德冨蘇峰の織田時代史や豐臣時代史」のこと。]
大正一五(一九二六)年二月十五日・湯河原発信・東京市外田端自笑軒前 下島勳樣(絵葉書)
この頃叔母東京より參り、一しよに暮らし居り候。胃腸の具合も神經衰弱も同じやうにて閉口致し居り候。
二月十五日 龍 之 介
[やぶちゃん注:新全集年譜によれば、フキの来訪は二月十三日土曜日頃とする。
「叔母」芥川フキ。通常、龍之介は「伯母」と書くが、「叔母」でも誤りではない。実母フクから見れば「伯母」、であるが、養父道章から見れば「叔母」だからである。]
大正一五(一九二六)年二月十六日・湯河原発信・室生犀星宛(絵葉書)
その後御淸適なるべしこの間こちらへ來る途中、ちよつと萩原君を見舞つた。熱を出してゐた、この頃伯母東京より參り、一しよに入湯中、胃に未だ鈍痛あり春光太だ[やぶちゃん注:「はなはだ」。]晴やかならず。頓首
二月十六日 龍 之 介
[やぶちゃん注:前月分の最後の、一月二十八日附湯河原発信の菅虎雄宛書簡の私の注を参照されたい。「この間こちらへ來る途中、ちよつと萩原君を見舞つた」とあるが、この当時、萩原朔太郎は実は、田端にはもういなかった。妻稲子の健康が優れなかったため、田端への転居から七ヶ月ほど後の、大正十四年十一月下旬に鎌倉町材木座芝原四八一番地(現在の鎌倉市材木座五丁目十一番)に移っていたのである(所持する筑摩書房刊「萩原朔太郎全集」の、昭和五三(一九七八)年刊の初版第十五巻にある詳細年譜で確認した)。ここは菅虎雄の家とは、滑川を挟んで、丁度、対称位置にある。そうして、そこを正三角形の一辺とすれば、三つ目の頂点部分がズバり小町園のある場所なのである。されば、龍之介は先に朔太郎を訪ねて、午後四時に菅邸へ行ったと考えるが普通であろう(夕刻以降に萩原朔太郎を訪ねるのは少し失敬だと私は考えるからである)。さすれば、この言を素直に真に受けるならば、龍之介は菅から漱石の短冊の箱を受け取ったその足で、日暮れ時以降に湯河原へ帰ったことになる(江ノ電で藤沢に出る方法もあるが、藤沢までの時間がかかるから、横須賀線で大船で東海道本線下りに乗り換えて行く方法を採ったと思われる。孰れにせよ、夜にはちょっと面倒だねぇ、湯河原に帰らねばならない理由がないとなら、私だったら、断然、小町園に泊まるね)。しかし、私の疑惑は、それでも、少しも晴れないのである。則ち、やはり、一月二十八日・二十九日・三十日にずっと田端の自宅にいたと断言出来ないことは変わりなく、一月二十八日に自宅へ戻るや、必要な口頭指示を家人らに伝え、最小限の必要な書物・物品を持って、すぐに自宅を出て、小町園に行き、泊まったとも考え得るからである。しかも、ここで犀星に朔太郎を見舞った事実以外は事実を語らなければならない理由はないわけだから、龍之介は菅邸から小町園に行って泊まり、三十一日と二月一日に湯河原の中西旅館にいたという確証も、同じように証明されないのである(なお、二月二日の午後に湯河原にいたという事実は先の小穴宛書簡で取り敢えずは真とし得る。但し、厳密には、その消印が湯河原管内であることを現認しないうちは私はそれも確実とはしないものであるが)。やはり小町園に五泊居続けしたかも知れないという私の疑惑は、そのままに残るのである。]
大正一五(一九二六)年二月十六日・湯河原発信・眞野友二郞宛
冠省。度々御手紙難有く存じます。小生は先月以來當溫泉に靜養して居ります。今月末には歸京致しますから、畫帖はその節必ず何か書きなぐります。(前に送つて頂いた畫帖もそのままに相成り居り、厚顏なる小生もさすがに恐縮に存じて居ります。)小生の病はアトニイと酸過多[やぶちゃん注:ママ。]と神經衰弱とのよし、日々藥を三つものまねばならず、不景氣な顏をして暮らして居ります。右とりあへず、(お手紙は東京から轉送して來る爲、大分遲れましたが)御返事までにこの手紙をしたためました。頓首
二月十六日 芥川龍之介
眞野友二郞樣
[やぶちゃん注:「眞野友二郞」既出既注であるが、再掲すると、新全集の「人名解説索引」でも『未詳』とするが、旧全集で宛名書簡は十三通を数え、他の通信文から見ても、芥川龍之介の熱心な読者で、龍之介も丁寧に書簡で応じていた人物であったと考えて問題はないと思われ、また、既に示した彼宛の書簡では、薬物を送って貰っていることから、本業は医師である可能性もあるように思われる。而して、ここまで来て、私は、この愛読者は、やはり医師ではないか? と疑り始めている。芥川龍之介は医師と親しくなることで、ともかくも、普通は手に入らない薬物(自殺するための劇薬に限るものではない。催淫剤などだってあり得る。実際に龍之介は、この後、小穴にその入手(但し、表向きはあくまで自殺するための劇薬として)を頼んでいるのである。既注)を入手する便宜を図ってもらおうとする傾向がかなり前からあったのではなかったか? と、疑り始めているのである。]
大正一五(一九二六)年二月十六日・消印十八日・東京市小石川區丸山町小石川アツパアトメント 小穴隆一樣(絵葉書)
一昨日小峯、拙著二種持參致候。裝幀澁くして上等なり。第一朱字のうまいのに驚嘆致し候。お禮はあの本より印税に致し度、爾今二分だけお納め申さす可く候。それからお尋ねの件、ポルトレエにてよろしく候。小生病狀依然。
十六日 龍
[やぶちゃん注:新全集宮坂年譜に、この二日前の二月十四日日曜日に『小峰八郎(文芸春秋社出版部部長)が湯河原を訪れ』、小穴隆一の装幀になる『再刊本『地獄変』『或日の大石内蔵之助』を見せられ』たとある。発行は二月八日であった。]
大正一五(一九二六)年二月十九日・湯河原発信・鹽田力藏宛(絵葉書)
御手紙ありがたく拜見仕り候、仰せの旨菊池へ申し遣り候間返事有之次第、高敎を仰ぐ事も御座侯べくその節は何分よろしく願上げ候右とりあへず御禮まで
十九日 相州湯河原 芥川龍之介
[やぶちゃん注:「鹽田力藏」(しおだりきぞう 元治元(一八六四)年~昭和二一(一九四六)年)は陶磁器研究家。陸奥国福島出身で、福島師範学校(現在の福島大学)卒。明治三一(一八九八)年に岡倉天心が日本美術院を創立した際に学術部に参加し、以後、日本及び中国の陶磁器の研究・啓蒙に尽した。著書に「陶磁器工業」「寂円叟―陶雅新註支那陶器精鑑」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。「菊池」は菊池寛であろうが、話の内容はよく判らない。]
大正一五(一九二六)年二月二十日・田端発信・佐藤春夫宛
冠省改造社の人に聞けば君のお父さまの御病氣の爲君も國へ行つたよし御容態如何かと思ひ、この手紙をしたゝめ候僕の病は君の奧さんの御料理の所爲ならば幸福だが酸過多とアトニイと神經性消化不良と併發しこの儘齡四十になると潰瘍か癌になる事うけ合ひと云ふのだから往生した目下詩も何も作る勇氣なし況や小說をや何だかお父樣の御病氣見舞の手紙に駄辯を弄して相すまぬがこの前の手紙に返事を書かなかつた故それを兼ねたものと勘辨してくれ給へ 草々
二月二十日 龍 之 介
春 夫 兄 侍史
二伸 僕の叔父腦溢血にて半身不隨になり、その爲に咋日湯河原から歸つた
[やぶちゃん注:この前日の二月十九日に亡き実父新原敏三の弟細木元三郎(ほそきもとさぶろう)万延元(一八六〇)年~昭和六(一九三一)年)が脳溢血で倒れたという急報が入ったため、龍之介は、急遽、フキとともに田端へ戻っている。予定では二十三日頃まで滞在する予定であった。ここで一言言っておくと、この細木元三郎は、無論、元新原姓であったのだが、彼は、実は、幕末の大通で俳人でもあった、
細木香以(ほそきこうい 文政五(一八二二)年~明治三(一八七〇)年)の孫娘(香以(本名は藤次郎)の実子桂次郎の一人娘)であった「ゑい」に婿養子として入って細木姓となった
である。則ち、
芥川龍之介の実母フク及び継母に当たるフクの妹フユの孰れもが、香以の直孫細木ゑいは義理の叔母に当たる
ことになるのである。しかし、
実はそれに留まらぬ細木香以との多重的関係が龍之介にはある
のである。それは、
養母の芥川儔(とも)の母親が――これまた――細木香以の妹――須賀である
という驚天動地の事実である。こうした系図関係は、所持する二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の「系図」に拠ったが、恐らくは現在でも、この系図が、容易に見られて、しかも、信頼度も高い芥川龍之介に纏わる系図の一つである。手軽に見られるものでは、少し古いようだが、より緻密な新原家関係の系図では、森本修氏の論文「『芥川龍之介伝記論考』補遺――新原家をめぐつて[やぶちゃん注:ママ。]――)」がPDFでダウン・ロード出来、そこに載る系図を見ても、新原家の方の関係は確認が出来る。則ち、しばしば見かける芥川龍之介の記載にあるところの「細木香以の姪がフク及びフユである」という謂いは(例えばウィキの「細木香以」には『芥川龍之介の母は、香以の姪にあたる』とある)、
新原家系図だけを見ていたのでは、全く判らず、芥川家の儔(とも)の系図を辿ってみて、初めて判ること
なのである。実は、この関係表記は、こうした二家の交差を理解せずに書いたために生じた誤りが、以前からしばしば見られ、例えば、私の「宇野浩二 芥川龍之介 十五~(1)」では、宇野は、
「芥川の実父の新原敏三の弟の元三郎(つまり、芥川の叔父)は、兄より前に上京して、芥川の養父(母方の伯父)の妻(儔〔とも〕)の大叔父、細木香以の姪のえいを嫁にもらっているのである。そうして、この元三郎は炭屋であつた。」
と述べており、細木香以の直系の「実の孫」である「えい」を「細木香以の姪」とするとんでもない誤りを犯してしまっているのである。これらの誤解や錯誤の淵源は恐らく、森鷗外の「細木香以」にあると考えてよい。但し、そこには芥川龍之介も関係しており、そこに文壇情報屋的な厭らしい小島政二郎も絡んでいる。それを話し出すとキリがないので、私の「芥川龍之介 孤獨地獄 正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附」を参照されたい。なお、そちらでは注がゴタゴタするのが厭だったので、新原家の方からの細木香以との縁戚関係は敢えて触れていないことを先に申し上げておく。また、興味を持たれた方は、「芥川龍之介 手帳補遺」も強力にお勧めである。是非、読まれたい。謂わば、「孤獨地獄」の創作メモを含むものである。]
大正一五(一九二六)年二月二十一日・年次推定・田端発信・與謝野寬宛
冠省御手紙ありがたく拜見仕り候但し小生は舊臘來體を損じ居り月々の仕事も出來ず、難澁致し居り候間まことに恐縮には候へども講演の儀は當分御免蒙り度願上候なほ又末筆ながらこの間は奧樣にラディオにて拙作を褒めて頂き候よし難有く御禮申上候右とりあへず御返事まで 頓首
二月念一日 龍 之 介
與 謝 野 樣
[やぶちゃん注:「舊臘來」「きうらうらい(きゅうりょうらい)」。昨年の十二月以来。
「奧樣にラディオにて拙作を褒めて頂き候よし」與謝野晶子がどの作品を褒めたのかは不詳。]
大正一五(一九二六)年二月二十三日・田端発信・竹中郁宛
冠省 黃蜂と花粉 を頂きありがたく存じますいつぞやお約束した「樹」はもう少々お待ち下さい右とりあへず御禮までにこの手紙をしたゝめました 頓首
二月念三日 芥川龍之介
竹 中 郁 樣
[やぶちゃん注:「竹中郁」(いく 明治三七(一九〇四)年~昭和五七(一九八二)年)は詩人。本名は育三郎。兵庫県神戸市兵庫区出身で、生家は裕福な問屋であったが、一歳の時に紡績用品商の竹中家へ養子に出された。兵庫県立第二神戸中学校、関西(かんせい)学院大学文学部英文学科卒。中学時代から北原白秋に傾倒し、『近代風景』・『詩と音楽』などの白秋主宰の雑誌で詩人としてスタートを切った。大正一三(一九二四)年の『日本詩人』(「新詩人號」)で詩壇に登場し、「海港詩人俱樂部」を結成、詩誌『羅針』を編集する一方、北川冬彦・安西冬衛らのグループ『亜』とも交流を持ち、モダニズムのスタイルの影響を受けている。この大正十五年に処女詩集「黄蜂と花粉」を発表した。昭和三(一九二八)年に渡欧し、二年間に及ぶパリ生活で、モダニズムの美と思想を満喫し、特にジャン・コクトーやマン・レイと芸術的交遊を結んだ。帰国後、『詩と詩論』にシネ・ポエムを発表し、衝撃を与え、昭和七(一九三二)年には、昭和詩史の詩的青春を飾るエスプリ・ヌーボーの記念碑的詩集「象牙海岸」を刊行した。『ドノゴトンカ』・『詩法』・『四季』に参加し、第二次世界大戦中は、「中等学生のための朗読詩集」(昭和七年・湯川弘文社)や「新詩叢書」(全十七巻・同社)を企画し、詩の危機を乗り越えた。戦後は、児童文学誌『きりん』を指導するなど、詩の社会化を志向した(以上は当該ウィキの頭と、小学館「日本大百科全書」をカップリングした)。]
大正一五(一九二六)年二月二十六日・田端発信・室生犀星宛
咋日は失禮仕り候石油ストオブこの手紙持參のものに御渡し下され度願上げ候なほ又女性六月號おかし下され候はば幸甚に御座候いつもいろいろ御厄介ばかり相かけ恐縮の外なし右あらあら當用のみ 頓首
二月念六日 澄
魚 先 生
[やぶちゃん注:「石油ストオブこの手紙持參のものに御渡し下され度願上げ候」芥川家の石油ストーブが壊れたか? 前に犀星が予備のストーブを持っていることを聴いていたのかも知れない。
「女性六月號」芥川龍之介は前年の六月一日発行の『女性』に「溫泉だより」を執筆している。同小説を芥川龍之介は自死の直前の最後の作品集となる「湖南の扇」に収録していいる。或いは、同誌や原稿を紛失したかして、後の作品集収録のために、筆写・修正するために借りたものかも知れない(当該作は原稿用紙十六枚半)。因みに、初出と作品集「湖南の扇」では四ヶ所の相違がある。]
大正一五(一九二六)年二月二十八日・田端発信・南條勝代宛
冠省、御手紙拜見仕り候。來月四日午後二時にお出で下され候はば幸甚に御座候。但しまだ健康恢復せず、元氣無之候間碌な事はしやべられぬものと御覺悟なされ度願上候。頓首
二月二十八日 芥川龍之介
南 條 勝 代 樣
二伸「お安じ」はいけません。「お案じ」です。
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