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2021/08/04

芥川龍之介書簡抄113 / 大正一一(一九二二)年(四) 四通

 

大正一一(一九二二)年二月(年月推定)・田端発信(推定)・薄田泣菫宛(転載)

 

 怠けつつありと思ふな文債にこもれる我は安けからなく

 あからひく晝もこもりて文書けばさ庭の櫻ふふみそめけり

 去年の春見し長江の旅日記けふ書きしかばやがて送らむ

 旅日記とくかけと云ふ君の文見のつらければ二日見ずけり

 神經衰弱癒えずぬば玉の夢のみ見つつ安いせずわれは

二伸

マガジン・セクションヘはその中に何か書きます。何しろ方々の催促にやり切れぬ故、けふ鵠沼に踏晦[やぶちゃん注:ママ。]し、二三日靜養した上、紀行及びマガジン・セクシヨンヘ取りかかります。

              芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「文債」作家稼業上の負債。執筆契約をしていながら、それに応じていないこと。

「マガジン・セクション」『毎日新聞』の文芸誌批評欄か。

「踏晦」「韜晦」(たうくわい(とうかい))の誤記であろう。身を隠すこと。姿をくらますこと。]

 

 

大正一一(一九二二)年三月十九日・田端発信・齋藤貞吉宛

 

お前は筆不精だと云ふがね僕は東京にゐると家に居る時間の大部分原稿紙に何か書かされるのだその外に筆を持つ苦しさは到底お前の想像するやうなものぢやない僕は漢口の人に二十圓、福田君に三圓借りてゐるし、島津君村田君にも何一つ御禮をしずにある甚良心に咎めるのだが病つゞきと多忙のため果さない[やぶちゃん注:ママ。]よろしく察して吳れ本もその内送る諸方の義理もその内すませる、それからブロオカア宮崎氏は何と云ふ名だね? 名なしの宮崎ぢあ本も送れない今日から長江游記を書き出した第一囘は西村貞吉と云ふ題だからそのつもりでゐろ東京は春暖梅白去つて桃紅來つてゐる又支那へ行きたくなつたが金がないこれだけ書くのでも大變なのだ僕はお前のレタア・ライテイングのキアパシテイには驚いてゐるレタア・ライテイングの本ばかり出す出版やへ紹介してやらうか僕は返事をかかされるのが嫌だからこの頃は來る手紙の封も切らないさういふ手紙が木鉢に一ぱいあるのだ但しお前の手紙はちあんと[やぶちゃん注:ママ。]拜見してゐる感心だらう返事をかくのは面倒だがお前の手紙を見るのは愉快なのだ又一月程たつたら手紙を出す頓首           芥川龍之介

   齋藤貞吉樣

二伸 年賀狀は僕は出さない方針なのだよ來年はもつと積極的に「私は年賀狀を出しませんあなたもおよしなさい」と云ふのを出す氣だ

Last but not least(コレハ西村流ナリ)お前の不幸をいたむ但しあんな手紙は貰ひたくない暗澹たる氣が傳染していかん下の句あの手紙を見た時作つたのだ

     悼亡

   靜かさに堪へず散りけり夏椿

  夏椿は沙羅の異名と知るべし

 

[やぶちゃん注:「齋藤貞吉」既出既注

「漢口の人」「漢口」は中国語音写は「ハァンコォゥ」(Hànkǒu)。中国湖北省にあった都市で、現在の武漢市の一部に当たる。明末以降、長江中流域の物流の中心として栄えた商業都市で、一八五八年、天津条約により開港後、上海のようにイギリス・ドイツ・フランス・ロシア・日本の五ヶ国の租界が置かれ、「東方のシカゴ」の異名を持った。芥川は廬山を見た後、五月二十六日に漢口に着き、三十日まで滞在した。後の「雜信一束」の冒頭で、

   *

       一 歐羅巴的漢口

 この水たまりに映つてゐる英吉利の國旗の鮮さ、――おつと、車子(チエエズ)にぶつかるところだつた。

       二 支那的漢口

 彩票や麻雀戲(マアジヤン)の道具の間に西日の赤あかとさした砂利道。

 其處をひとり歩きながら、ふとヘルメツト帽の庇の下に漢口の夏を感じたのは、――

   ひと籠の暑さ照りけり巴旦杏(はたんきやう)

   *

と綴るのみである(語注等は「雜信一束」の私の注を参照されたい)。「漢口の人」は未詳。

「福田君」「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈」の「九二二」の大正一〇(一九二一)年七月十一日附の『北京崇文門内八寶胡同大阪每日通信部内 鈴木鎗吉樣』宛『七月十一日朝 蠻市瘴煙深處 芥川龍之介』という書簡を参照。そこで私はこの「福田」なる人物を『大阪毎日新聞社の上海通信部の社員か。芥川が支払うべきであった何ものか(恐らく後に続く文から見て接待関連の遊興費用に関わるものであろうと推測する)を立て替えていたのであろう』と注した事実と符合する。

「島津君」島津四十起(しまづよそき 明治四(一八七一)年~昭和二三(一九四八)年)は出版人で俳人・歌人。明治三三(一九〇〇)年から上海に住み、金風社という出版社を経営、大正二(一九一四)年には「上海案内」「支那在留邦人々名録」等を刊行する傍ら、自由律俳誌『華彫』の編集人を務めたりした(戦後は故郷の兵庫に戻った)。龍之介の中国特派の際には上海到着時から協力し、「上海游記」「江南游記」を読むと、龍之介の各地の案内役をも買って出ている。思うに、次の村田孜郎とともに、中国で最も世話になった人物と言ってよい。

「村田君」村田孜郎(むらたしろう ?~昭和二〇(一九四五)年)。大阪毎日新聞社記者で、当時は上海支局長。中国滞在中の芥川の世話役であった。烏江と号し、演劇関係に造詣が深く、大正八(一九一九)年刊の「支那劇と梅蘭芳」や「宋美齢」などの著作がある。後に東京日日新聞東亜課長・読売新聞東亜部長を歴任した(上海で客死)。「上海游記」江南游記」を読めばわかる通り、やはり案内人となり、龍之介とよく同行している。また、上海での京劇観賞や役者との面会などは、殆んど彼の知識と人脈に拠ったものであった。

「ブロオカア宮崎氏」ブローカーは商取引の中継ぎ業者だが、「宮崎氏」は不詳。

「今日から長江游記を書き出した第一囘は西村貞吉と云ふ題だからそのつもりでゐろ」既に述べたが、「長江游記」(サイト一括版)は全一括で、この手紙から実に二年後の大正一三(一九二四)年九月一日発行の雑誌『女性』に「長江」の題で発表された。貞吉もえらく待たされたもんだ。「前置き」を挟んで、本文の「一 蕪湖」(ブログ分割版)という題だが、しかし、その冒頭は、『私は西村貞吉(にしむらていきち)と一しよに蕪湖(ウウフウ)の往來を歩いてゐた』という一文で始まるから、まず、嘘ではなく、貞吉も度肝を抜かれたことであろう(西村は旧姓)。

「レタア・ライテイング」letter writing。手紙筆記術。

「キアパシテイ」capacity。ここは「能力」の意。

「Last but not least」「大事なことを、一つ、言い残したのだが」。

「お前の不幸」不詳。

「暗澹」

「夏椿は沙羅の異名」「沙羅」(木(ぼく))はツバキ目ツバキ科ナツツバキ Stewartia pseudocamelli の別名。既出既注。]

 

 

大正一一(一九二二)年三月三十一日・田端発信・塚本八洲宛

 

拜啓 その後皆樣御變りもありませんかお祖母樣の御病氣は如何ですか今度ちと御祖母樣に伺ひたい事があるのにつき、參上する心算でゐましたが、何か[やぶちゃん注:「何かと」の意。]忙しい爲上れさうもありません故この手紙を書く事にしましたどうか下の三項につき御祖母樣に伺つた上二三日中に御返事をして下さい

㈠明治元年五月十四日(上野戰爭の前日)はやはり雨天だつたでせうか

㈡雨天でないにしてもあの時分は雨降りつづきだつたやうに書いてありますが、上野界隈の町人たちが田舍の方ヘ落ちるのにはどう云ふ服裝をしてゐたでせう? 殊に私の知りたいのは足拵へです足駄、草鞋、結ひ付け草履、裸足、等の中どれが一番多かつたでせう?

㈢上野界隈、今日で云へば伊藤松坂あたりから三橋へかけた町家の人々は遲くも戰爭の前日には避難した事と思ひますがこれは間違ひありますまいか? 念の爲に伺ひたいのです皆面倒な質問ですがどうかよろしく御返事下さい

かう云ふ點が判然しないと來月の小說にとりかゝれないのです 頓首

    三月三十一日     芥川龍之介

   塚本八洲樣

 

[やぶちゃん注:これは「お富の貞操」(初出は大正一一(一九二二)年五月九日発行の『改造』)の場面描写のために、妻文の弟八洲に、当時の江戸の惨劇前後を体験している塚本の祖母に訊ねているものである。

「上野戰爭」慶応四年(一八六八)五月一五日、江戸上野東叡山寛永寺に立てこもる彰義隊を薩長を中心とする征討新政府軍(長州藩大村益次郎指揮)が攻撃、壊滅させた戦い。詳しくは当該ウィキを読まれたい。なお、明治への改元は慶応四年九月八日(グレゴリオ暦一八六八年十月二十三日)であった。

「結ひ付け草履」筑摩全集類聚版脚注に、『ぞうりのはな緒にひもをつけて、かかとおよび甲に固定すること』とある。

「伊藤松坂」同前で、『松坂屋呉服店。現在の松坂屋デパート、上野広小路にある』とある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「三橋」現在の上野広小路から上野公園の不忍池東角の上野公園南口の間の旧称。中央の現在の上野四町目交差点の附近に江戸時代は不忍池から川が流れ出て、「三橋」という橋が架かっていた(「古地図 with MapFanがいい)。]

 

 

大正一一(一九二二)年四月(推定)・恆藤恭宛(名刺に通信文)

 

Meisinosyokan

 

啓 僕今度飛脚の旅行なり

明朝奈良へ参る筈 唯今木屋

町四條下ル富士亭にあり

    芥 川 龍 之 介

但し 今月末小生もう一度 京都へ

参る筈 その節 ゆつくり 御目にかゝ

りたし筍難有う  うららかな

たかんなの皮の流るる 東京市外田端四三五

 

[やぶちゃん注:底本にある画像をトリミングし、本文も活字化されたものではなく、示した名刺画像をもとに、電子化した。名刺の印刷部分は太字とした。既に述べた通り、四月一日に養母儔・伯母フキを連れての京都・奈良方面旅行の際のもの(四月八日帰宅)。思うに、二人への感謝の旅であるからして、恒藤には逢わなかったものと思われ、名刺に通信文という異例な書簡であるが、恐らくは、龍之介が宿で書き、裏に恒藤の住所或いは地図を書いて、宿の者に直接、家に届けて欲しいと頼んだものではないかと推察する。なお、やはり既に述べた通り(同前)、この四月二十八日には長崎へ行く途中で京都に滞在し、恒藤と逢っている。]

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