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2021/08/05

譚海 卷之四 同年信州淺間山火出て燒る事

 

○同年六月廿九日より、信州淺間山、震動して、沙石(させき)をふらし、晝夜、闇の如く、雷電、甚し。

 七月八日に及(およん)で、震動、しばらく、しづまりたるやうに覺えて、諸人、安堵の思ひをなし、男女(なんによ)、家業をはじめ、機(はた)など織(をり)かゝりたるに、翌九日巳の時に至り、俄(にはか)に山つなみ起りて、泥を卷來(まききた)る事、十丈ばかりにて、信州・上州、人家・田畑、赤地(あかじ)に成(なり)たる所、凡(およそ)橫八里に竪十八里ほどに及べりとぞ。

 八月中、御見分の御役人、被ㇾ越候節(こされさふらふせつ)のものがたりなり。

 此(この)泥津浪(どろつなみ)は、淺間より、七、八里、辰巳(たつみ)にあたりて「あづま山」といふ有(あり)、其(その)山、絕頂、燒出(やけいだ)し、半腹よりは、泥湯・硫黃の火炎を吹出(ふきいだ)して、かくの如く成(なる)わざはひに及(および)たる也。

 其(その)吹出したる泥土、東の方、上州に、一つの山となれり。あづま山の東の根に流るゝ川を「あづま川」といふ。卽(すなはち)、武州刀禰川(とねがは)の川上にて群馬郡(ぐんまのこほり)なり。その川を隔てて、南杢村・北杢村・川島村とて、三箇所の村、殘らず、おしながされ、南に「杢の番所」といふ、川より六丈程高き所にあるを、番所の役人ともに、をしながし、鳥有(ういう)に成たり。此番所は越前三國の海道也。橋も、はしくひ、なく、左右より、もちあはせて、懸(かけ)たる橋なり。はしより、水面までは、二丈ばかりもありとぞ。其(その)川下、つなみの及ぶ所、人家、損亡して、人の死骸、手足、きれぎれになり、流れて、刀根川(とねがは)の川上を埋(うづ)め、かちわたりと成(なり)たり。硫黃(いわう)の氣に、川水、濁り變じて、川の魚、悉く死し、川水、外にあふれて、いく筋となく、えだ川、出來、又、そのながれに損ずる所の田畑、勝(かつ)て計(はかり)がたし。

 其硫黃の川水、中川より行德(ぎやうとく)へ押出(おしいだ)し、伊豆の海邊まで、ことごとく、濁り變じ、七月十八日、大南風(だいなんぷう)吹(ふき)たるとき、さし汐(しほ)にて、右のにごり、水を江戶へ吹(ふき)よせ、海の色、變じたるゆゑ、芝浦・築地・鍛炮洲邊にては、

「つなみ、おこる。」

とて、大(おほい)に騷動し、佃島の男女、殘らず、雜具をはこび、陸地に移り居る事、二日に及(および)て、はじめて、しづまりたり。

 信州・上州にて暴死のもの、凡(およそ)三、四千人、死骸、とね川をながれくだりて、房總・行德、所々のうらうらへよりたるを、其所(そこ)にて葬(はうふり)たる事、また數をしらず。

 同時(おなじとき)、淺間のふもとに何村とかやありしを、二里に三里の地、土中(どちゆう)へ落入(おちいり)、一村、殘らず、人馬、死(しに)うせたり。是(ここ)は朝士、番町の住(ぢゆう)、伊丹兵庫介殿知行所也。

 上州高崎城下は、泥の雨、降(ふり)て、人家をおしつぶし、松平右京太夫殿領所、殘らず、不毛の地と成(なり)たり。

 江戶より信州・上州邊に知音(ちいん)有(ある)もの、そのかた、とぶらひに行(ゆき)たれども、高崎の川、晝夜、いわうの火焰ながれ、雷電、止(やま)ざるゆへ、おそろしく、みなみな、高崎限(かぎり)にて江戶ヘ歸りたり。

 信州[やぶちゃん注:「上州」の誤り。]安中驛、のこらず、泥沙にてうづみ、一驛(ひとえき)、破滅に及び、木曾道中、往來、止(やみ)たる事、十日餘(あまり)に及び、江戶より行人(ゆくひと)は、深谷の宿に逗留せり。

 此(この)時節、江戶にても、六月晦日(みそか)比(ごろ)より、震動の樣(やう)に、時々、鳴(なり)ひゞき、七月八日は、戶障子へ、ひびく程に鳴たり。八日夜に入(いり)て、其音、聞えず、尤(もつとも)右兩日は、朝より、雲のいろ、赤くくもりて、日の光、うすく、北風にて、白き砂を吹(ふき)こし、軒端より、屋上にふり積る事、灰をちらしたる如し。晝過(ひるすぎ)より、南風に吹(ふき)かはりて、灰もふりこず、晚方は快晴に成たり。淺間の砂、關東に降(ふり)たる事、淺間より東は、おほかた、のこる所なく、海邊まで、みな、然り。奥道中は宇都宮邊に及ぶ。所によりて、厚薄(こうはく)あり、草賀(さうか)[やぶちゃん注:草加。]・越谷(こしがや)宿等は、一、二寸、下總小金邊は、三、四寸、上州御領所は、土砂、ならし、壹坪、三斗五升ほどありし、といへり。

 上州、所々、破滅せし故、かひこの種、うしなひたれば、來年は絹の類、貴(たか)かるべし、といへり。綿・麻等も、おびたゞしく損ぜしゆゑ、一倍の價(あたひ)に成たり。

 今年、江戶の米、金壹兩に、四斗二升までを商賣する事に成たり。

 全體、春二月より雨天つゞき、八月九日まで、くもりがちにて、關東の作、凶年に至り、別(べつし)て奥州、仙臺・南部・津輕は、地をはらひて、不作なるよし。奥道中、所々に、盜賊、橫行し、晝(ひる)、中(なか)の刻(こく)よりは、往還、なし。

 江戶にても、窮民、道路に立(たち)て食を乞ひ、人家に入(いり)て、飢(うゑ)を愁(うれ)ふるもの、白晝に絕(たえ)ず。往々、行(ゆき)たふれ、死(しし)たるものありて、官に訴へ、御檢使を願ひ、町の物入(ものいり)に成たる事なり。

 冬に至り、町奉行御役所にて、大坂御買米(おかひまい)有(あり)、町々へ、七斗の相場にて分(わか)ち下され、夫より、少々づつ、米價も廉(れん)に成たる也。

 

[やぶちゃん注:前の「天明三年奥州飢饉、南部餓死物語の事」に引き続いて、同時期の㐧天災であった「浅間山天明の大噴火」の記事であり、長いものでもあるので、同じように段落を成形し、句読点・記号も変更・追加した。まず、ウィキの「浅間山」より、当該部を引く。浅間山の大噴火は天明三年七月八日(一七八三年八月五日)に発生した。同年旧暦(以下同じ)四月九日に『活動を再開した浅間山は』、五月二十六日・六月二十七日と、一ヶ月『ごとに噴火と』、『小康状態を繰り返しながら』、『活動を続けていた』が、六月二十七日のそれより、『噴火や爆発を毎日繰り返すようになっていた。日を追うごとに間隔が短くなると共に激しさも増した』。七月六日から三日間に亙った『噴火で大災害を引き起こした。最初に北東および北西方向(浅間山から北方向に向かってV字型)に吾妻火砕流が発生(この火砕流は、いずれも群馬県側に流下した)。続いて、約』三ヶ月『続いた活動によって山腹に堆積していた大量の噴出物が、爆発・噴火の震動に耐えきれずに崩壊』し、『これらが大規模な土石雪崩となって北側へ高速で押し寄せた。なお』、『爆発音は京都から四国付近、そして極めて疑わしいが』、『九州地方まで聞こえたとも言われる。高速化した巨大な流れは、山麓の大地をえぐり取りながら流下。鎌原村』(かんばらむら)『(現・嬬恋村大字鎌原地域)』ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ。浅間山はこの地区の南端にある)『と長野原町の一部を壊滅させ、さらに吾妻川に流れ込んで天然ダムを形成して河道閉塞を生じた。天然ダムは直ぐに決壊して泥流となり』、『大洪水を引き起こして、吾妻川沿いの村々を飲み込みながら本流となる利根川へと入り込み、現在の前橋市から玉村町あたりまで被害は及んだ。増水した利根川は押し流したもの全てを下流に運び、当時の利根川の本流であった江戸川にも泥流が流入して、多くの遺体が利根川の下流域と江戸川に打ち上げられた。この時の犠牲者は』千六百二十四『人(うち上野国一帯だけで『千四百』人以上)、流失家屋』千百五十一『戸、焼失家屋』五十一『戸、倒壊家屋』百三十『戸余りであった』。『最後に「鬼押出し溶岩」が北側に流下して、天明』三『年の浅間山大噴火は収束に向かったとされている』。『長らく溶岩流や火砕流が土砂移動の原因と考えられてきたが、低温の乾燥粉体流が災害の主要因であった』。『最も被害が大きかった鎌原村の地質調査をしたところ、天明』三『年の噴出物は全体の』五『%ほどしかないことが判明』し、また、昭和五四(一九七九)年から『嬬恋村によって行われた発掘調査では』、三『軒の民家を確認できたが、出土品に焦げたり燃えたりしたものが極めて少ないことから、常温の土石が主成分であることがわかっている。また、一部は溶岩が火口付近に堆積し』、『溶結し』て『再流動して流下した火砕成溶岩の一部であると考えられている』。二〇〇〇『年代の発掘では、火山灰は遠く栃木県の鬼怒川から茨城県霞ヶ浦、埼玉県北部にまで降下していることが確認され』ており、『また、大量に堆積した火山灰は利根川本川に大量の土砂を流出させ、天明』三『年の水害、天明』六『年の水害などの二次災害被害を引き起こし』ていたことが判っている。『この時の噴火が天明の大飢饉の原因となり、東北地方で約』十『万人の死者を出したと』、『長らく認識されていたが、東北地方の気候不順による不作は既に』一七七〇『年代から起きていることから』、『直接的な原因とは言い切れない。一方で』、『同じ年には、東北地方北部にある岩木山が噴火』(天明三年三月十二日(グレゴリオ暦四月十三日))した『ばかりか、アイスランドのラキ火山(Lakagígar)の巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火』・グレゴリオ暦六月八日)『とグリムスヴォトン火山(Grímsvötn)の長期噴火が起き、桁違いに大きい膨大な量の火山ガスは成層圏まで上昇』し、『噴火に因る塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させたことから』、『北半球に低温化・冷害をもたらした。このため』、『既に深刻になっていた飢饉に拍車をかけ』、『事態を悪化させた面がある』とある。最後の部分は異論もある。「天明三年奥州飢饉、南部餓死物語の事」の引用を参照されたい。標題の下方の「火出て燒る事」は「ひ、いでて、やくること」である。

「辰巳」南東。しかし、おかしい。次注参照。

「あづま山」これは当時の激甚被災地と距離から見て、群馬県吾妻郡嬬恋村田代にある四阿山(あづまやさん)か、群馬県吾妻郡中之条町山田にある吾妻渓谷直近の吾嬬山(かづまやま)の誤認ではないか。但し、前者は浅間山の北西、後者は北東であり、孰れも浅間山の噴火の際に同時に噴火した記録は全くない。津村の聴き書きの誤りであろう。津村は後で『あづま山の東の根に流るゝ川を「あづま川」といふ』と言っていることから、前者の「四阿山」を指してはいると思われる。この地図で、南東に吾妻川が確認出来る。

「東の方、上州に、一つの山となれり」浅間山の北北東の「鬼押出し」のことを言っていよう。

「刀禰川(とねがは)」利根川。以下の変字も同じ。

「南杢村・北杢村・川島村」孰れも確認出来ない。天明の大噴火で最大の被害を受けたのは、現在の鎌原地区の浅間山北麓の吾妻川右岸一帯であるが、鎌原・大前・大笹などの集落であったが、ここに書かれた村名に近いものは近代初期の地図(「今昔マップ」)を見ても見出せない。ウィキの「鎌原観音堂」(堂の場所はここ)によれば、この天明の大噴火で火口から北へ約十二キロメートルの位置にあった鎌原村は、『大規模な岩屑なだれ』『に襲われ』て『壊滅』した、この時、『鎌原村の村外にいた者や、土石流に気付いて階段を上り』、この『観音堂まで避難できた者、合計』九十三『名のみが助かった。この災害では、当時の村の人口』五百七十『名のうち』、四百七十七名もの『人命が失われた』。『現在、地上部分にある石段は』十五『段であるが、村の言い伝えでは』、『かつてはもっと長いものだったとされていた』。昭和五四(一九七九)年、『観音堂周辺の発掘調査がおこなわれた結果、石段は全体で』五十『段あったことが判明し、土石流は』三十五『段分もの高さ(約』六・五『メートル)に達する大規模なものであった事がわかった。また、埋没した石段の最下部で女性』二『名の遺体が発見された(遺体はほとんど白骨化していたが、髪の毛や一部の皮膚などが残っていて、一部はミイラ化していた)。若い女性が年配の女性を背負うような格好で見つかり、顔を復元したところ、良く似た顔立ちであることなどから、娘と母親、あるいは歳の離れた姉妹など、近親者であると考えられている。浅間山の噴火に気付いて、若い女性が年長者を背負って観音堂へ避難する際に、土石流に飲み込まれてしまったものと考えられ、噴火時の状況を克明に映している』(私はこの時の発掘の特番映像を見た記憶がある。教員になった年で、私はテレビを持っていなかったから、夏季休業中に親元へ帰った折りに見たのであろう)。『また、この『噴火で流出した土石流や火砕流は、鎌原村の北側を流れる吾妻川に流れ込み、吾妻川を一旦』、『堰き止めてから決壊』し、『大洪水を引き起こしながら、吾妻川沿いの村々を押し流し、被害は利根川沿いの村々にも及んだ。この一連の災害によって』、千四百九十『名の人命が奪われる大惨事に及んだ』。『また、当時鎌原村にあった「延命寺(えんめいじ)」の石標や、隣村(小宿村=現在の長野原町大字応桑字小宿)にあった「常林寺(じょうりんじ)」の梵鐘が、嬬恋村から約』二十キロメートル『下流の東吾妻町の吾妻川の河原から約』百二十『年後』(昭和初期)『に発見され』ている』。『大噴火によって甚大な被害を受けて不安な日々を過ごす住民は、江戸の東叡山寛永寺に救済を求めた。前年に東叡山寛永寺護国院の住職から、信州善光寺別当大勧進貫主に就任した等順が被災地に入り、炊き出しのための物資調達に奔走、被災者一人につき白米』五『合と銭』五十『文を』三千『人に施し、念仏供養を』三十『日間施行した』。『その様子は、「数多の僧侶を従えて ほどなく聖も着き給い 施餓鬼の段を設ければ のこりの人々集まりて みなもろともに合唱し 六字の名号唱うれば 聖は数珠を爪ぐりて 御経読誦を成し給う」と』、「浅間山噴火大和讃」『として伝承されてきた』とある。大体、この前の二つの村名、こういう次第で、読み方が判らない。「国文学研究資料館」の「オープンデータセット」の写本の当該部」(左頁後ろから三行目)を見ると、そこでは「南木工村・北木工村」と書いてあるように見える。孰れにせよ、可能性としては、これらは「もくむら」と読むように思われる。この二村は或いは林業に従事する者たちが居住していたのかも知れない。

「杢の番所」不詳。前に注した通り、「もくのばんしよ」と読んでおく。ウィキの「嬬恋村」によれば、『大笹には関所が置かれた』とあるのが、それであろう。大笹はここである。

「六丈」十八・一八メートル。

「はしくひ」橋杭。

「左右より、もちあはせて、懸(かけ)たる橋なり」猿橋のように、両岸に穴を開け、差込んだ「はね木」を重ねて橋を支えているものを指す。

「かちわたりと成たり」多量の土砂・崩落した建造物・死者の遺体で川が埋まり、徒歩渡(かちわた)りする状態になったというのである。

「中川」現在は利根川右岸を並走する細い中川があるが、それか。この川は現在は江戸川とは別に、海より少し手前で本流は荒川に合流し、残りが旧江戸川として東京湾に至っている。それが判る位置を示す

「行德」千葉県市川市行徳地区。利根川から分岐した江戸川河口附近の旧称。

「伊豆の海邊まで、ことごとく、濁り變じ」話の展開が急に長距離を駆け抜けて、ちょっと俄かには信じられない感じがするが、津村は、この当時、江戸に住んでいたはずだから、事実なのだろう。

「つなみ、おこる」「海の色」が「變じた」ことから、これが遠く浅間山の噴火によるものとは、誰も思わず、大津波の前兆と勘違いしたというのである。

「淺間のふもとに何村とかやありしを、二里に三里の地、土中(どちゆう)へ落入(おちいり)、一村、殘らず、人馬、死(しに)うせたり」先の鎌原地区のことであろう。

「朝士」旗本ことだろう。

「伊丹兵庫介殿」調べれば判るのだろうが、労多くして、益がなさそうなので、調べない。悪しからず。

「松平右京太夫殿」当時上野国高崎藩主であった松平輝規(てるのり 天和二(一六八二)年~宝暦六(一七五六)年)のことであろう。彼は従四位下右京大夫であった。

「信州安中驛」群馬県安中市中宿(なかじゅく)附近であろう。旧中山道が貫通している。

「深谷の宿」埼玉県深谷市深谷町のこの附近。実測で安中の手前三十六キロ以上手前である。

「草賀」草加のこと。埼玉県草加市

「越谷」草加の北の埼玉県越谷市

「下總小金」千葉県松戸市小金

「上州御領所」上野国の幕府領は多数あったので特定不能。

「土砂、ならし」降った土砂を綺麗に均(なら)しところ。

「晝、中の刻」所謂、朝でない午前八時・九時頃以降か。そもそも昔の旅人は未明のうちに出立し、午後遅くまで歩くことは稀れであった。

「往々、行(ゆき)たふれ、死(しし)たるものありて、官に訴へ、御檢使を願ひ、町の物入(ものいり)に成たる事なり」行路死亡人は知らん振りをしていると、罰せられたので、必ず、見かけ次第、奉行所に届けなければならなかった(所謂、事件性が認められるからである)が、検死にやってきた奉行の世話や接待にかかる費用や食事は、皆、当該の町村が全部を負担しなくてはならなかったのである。落語にもあったかと思うが、そうした行き倒れの死体を、隣りの町境まで運んで、向こうへ放り出したところ、向こうも同じようにもとの町の方へどける、というような、実は笑えないひどいこともあったようである。]

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