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2021/08/05

譚海 卷之四 天明三年奥州飢饉、南部餓死物語の事

 

○天明三年秋、北國飢饉にて、南部・仙臺・津輕餓死に及べり。

 その秋、南部より、山ごしに、羽州秋田へ來れる同國の行者(ぎやうじや)、物がたりけるは、

『南部領を過(すぎ)し時、いづかたにも、白く、小山のごとく、積置(つみおき)たるもの、多し。

「何ぞ。」

と、みれば、みな、餓死人の死骸、二十、三十、集め置(おき)たるなり。扨(さて)、山中かゝり、日暮(ひくれ)ぬれば、大(おほい)なる家あるゆゑ、

「宿をからん。」

とて、入(いり)て見るに、ゐろりのそばに、老人一人、たふれふして有(あり)、其(その)外は、人氣なし。

「宿を、かしてたべ。」

と、いひければ、老人、

「安き事に侍れども、何もまいらすものとては、米一粒だに、なし。」

と云(いふ)。修行者、

「それは心づかひに及ばず、囘國(くわいこく)の事なれば、米は、たくはひ、もちたり、ただ、宿をかして玉(たまは)らば、うれしかるべし。」

といへば、老人、

「それならば、入てとまり玉へ、夜着・ふとんも、澤山にもちて侍る。」

とて、いりてかたるに、老人云(いはく)、

「われら、家内四十餘人侍(はべり)しが、今年、きゝんに、段々、死(しに)うせて、今日(こんにち)に至りては、我ら、一人、命、つれなく殘り、かく、孫子(まごこ)どもにおくれ、『哀(あはれ)、一日も早く死なばや。』と願ひ侍れど、いかなる惡業にひかれてや、猶、生(いき)とまり侍るが、うたてき事。」

と、かきくどき、かたりければ、修行者も哀(あはれ)を催して、

「敷日(すじつ)、もの、まいらであるは、不便(ふびん)なる事也、こゝに、少し、たくはひもちたる米も侍れば、今宵は此(これ)を參るべし、我等も、報謝のこころにて、まいらせ度(たし)。」

といへば、老人、

「かく、生殘(いきのこ)りたるが、つらし、とさへ思ひ侍るに、何によりてか、又、ものをくひて、一日(ひとひ)も生ながらへ、うきめを見侍るべき、しかじ。只、ものくはで、はやく、うえ死に成(なり)なん事を願ひ侍るのみ。」

とて、一向(いつかう)に、うけつく氣色(けしき)あらねば、修行者、

「さらば。力、なし。」

とて、自身の飯を、かしぎ焚(たか)んとて、井に行(ゆき)て、つるべをさげ、くむに、すべて、水なし。

 歸りて、老人に、とふ、

「又、こゝの外(ほか)に井は侍るや。」

と、いへば、

「少し遠けれども、そこにも有(あり)。」

と敎へければ、行(ゆき)て汲(くむ)に、さきの如く、すべて、水、なし。

 井に、何やらん、もののあたりて覺えければ、ともし火をもちて、井をてらしみるに、餓死に及(および)て、身をなげし人のかばねにや、かさなりて、有(あり)。

 はじめの井も、又、如ㇾ此(かくのごとく)、死人、みちて、水色も、わかず。

 せんすべなくて、田ある方(かた)に行(ゆき)て、やうやう、水口(みなぐち)より、わかるゝ水を、くみもちきて、飯をたきて、くひけり。

 夜ふけて、老人、いひけるは、

「我は、あすの命も計難(はかりがた)し。我等、家もまづしからず、金子も、おほくたくはへてあり、そこそこにあり。何とぞ、もちておはして、此(この)なきもの・我等がために、ぼたいにならん事をして、後世(ごぜ)をすくはせ給へ。」

と、いひければ、

「夫(それ)は、たふとき事なれども、加樣(かやう)に囘國する身にては、金など、もちありきては、かへりて、行脚の妨(さまたげ)になり侍れば、おもひもよらぬ事也。さほどにおぼさば、その金子(きんす)をもちて、われらと、いづくもおはして、米ある所に住(すみ)つきて、せめて、いきのび給へ。」

とすゝめけれど、老人、さらにうけひかず、

「われらは、かくて死(しな)ん事を願ふ外は、望み、侍らず。」

とて、聞(きき)いれず。

 しひて、老人、すゝめければ、鳥目(てうもく)壹貫文、もらひて、きぬる。』

とぞ。

『老人、

「是(これ)まで、段々、死(しに)うせ侍るものは、是(ここ)に、侍る。」

とて、一間(ひとま)を明(あけ)て見せければ、さながら、死人、一座敷(ひとざしき)に重りみちて、目もあてられず、くさき事、云(いふ)ばかりなし。

 夜あけて、こゝを立(たち)いでなんとする時、老人、あへなく、息絕(いきたえ)て、うせにし。』

とぞ。

『哀れなる事共を見つる。』

と、かたりけるとぞ。

 

[やぶちゃん注:特異的に(今までは殆んど読みを加えるだけで、底本をいじっていいない)段落を成形し、句読点や記号なども変更・追加して、凄惨な臨場感を再現することに努めた。また、一部、不審な箇所を「国文学研究資料館」の「オープンデータセット」の写本の当該部(リンク先は開始頁)で確認し、修正した。具体には、「一向(いつかう)に、うけつく氣色(けしき)あらねば、」の箇所で、底本は「一向にうけひく氣色あらねば、」である。ここの右頁三行目下部が相当する。

 小学館「日本大百科全書」の「天明の飢饉」を引く(一部に語注を挿入しておいた)。「享保の飢饉」・「天保の飢饉」と並ぶ江戸時代の三大飢饉の一つ。天明年間(一七八一年~一七八九年)には連年に亙って飢饉が発生し、とくにここで語られる天明三(一七八三)年と、天明六年は惨状が甚だしかった。西日本、特に九州は天明二年に飢饉にみまわれたが、西日本の場合は、天明年間前半には収束していた。飢饉は、むしろ、東日本、特に東北地方太平洋側(陸奥国)・北関東一帯で猛威を振るった。津軽地方では、早くも安永年間(一七七二年~一七八一年)末期にも凶作の兆しがあったが、八戸地方では、天明三年の夏に「やませ」が吹いて、冷害となり、稲が立ち枯れ、東北飢饉の前触れとなった。そこへ、同年七月の上州浅間山の大噴火が重なり、噴火による降灰の被害は関東・信州一円に及び、その被害の甚だしかった北関東(上野・下野・信濃)では、凶作から、飢饉となった。かくて陸奥では「神武以来の大凶作」といわれた「卯歳(うどし)の飢饉」(天明三年は癸卯(みずのとう)年)となった。これは、霖雨(りんう)・低温・霜害・冷害などの自然的悪条件だけでなく、過酷な封建的搾取や分裂割拠の支配体制による津留(つどめ:荷留(にどめ)。領主が米穀その他の物資の他領との移出入を制限・停止したこと。呼称は多くが津(港)で行なわれたことによる。室町時代からあったが、江戸時代には商品の移出入統制が物価調節・自領内産業の保護等、経済的な理由による場合が多くなり、自領と他領を連絡する水陸交通の要路には口留番所などを置いて、人や物資の自由な領外移出入を取り締まった)・穀留(こくどめ:同前の他領への米穀類流出を制限・停止をしたこと。同じく要所に穀留番所が置かれた)政策の犠牲という政治的・社会的原因が、飢饉の惨状を極度に悪化させた。このために津軽藩では天明三年九月から翌年の六月の十一ヶ月(天明四年は閏一月がある)、領内の人口のうち、八万一千百人余の飢餓・病気による死亡、八戸藩では六万五千人のうち、餓病死者三万人余と記録されており、また、陸奥辺境部各地では、人肉相い食(は)む凄惨な話が伝えられている。この飢饉の主因は天明二(一七八二)年から天明七(一七八七)年まで顕著に連続的に発生した気象異変であった。浅間山の噴火が原因とされているが、すでに天明二年から異常が現れているところから、噴火の影響があるとすれば、浅間山噴火以前の、例えば安永八(一七七九)年以来続いた桜島の大噴火などが関与しているものと思われ、さらに一七八三年(天明三年)は、世界的に見ても、著しい異常低温の夏であったが、欧州の場合はアイスランドにおける噴火が大きく影響していたが(ここまでが前記引用の主文)、近年の研究ではこのアイスランドの噴火も本邦の異常気象の要因であったとされている。また、当該ウィキによれば、『異常気象の原因は諸説あり、完全に解明されていない。有力な説は火山噴出物による日傘効果で』、一七八三年六月三日に発生した『アイスランドのラキ火山(Lakagígar)の巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火)と』、『同じくアイスランドの』、一七八三年から一七八五年にかけてのグリムスヴォトン火山(Grímsvötn)の噴火である。これらの噴火は』一『回の噴出量が桁違いに大きく、膨大な量の火山ガスが放出された。成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ、北半球に低温化・冷害を招いた。天明の飢饉のほか』、『フランス革命の遠因と』も『なったという。また』、天明三年三月十二日(一七八三年四月十三日)には岩木山が噴火』、八月五日には『浅間山の天明の大噴火が始まった。降灰は関東平野や東北地方で始まっていた飢饉を悪化させた』。『なお、ピナツボ火山噴火の経験から、巨大火山噴火の影響は』十『年程度』は『続いたと考えられる』。但し、『異常気象による不作は』天明三(一七八二)年から続いており、翌年の『浅間山とラキの噴火だけでは』天明四(一七八三)年までの『飢饉の原因を説明』することは『できない』とある。また、しばしば語られる人肉食は、事実、発生しており、『被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約』二『万人)が餓死したと杉田玄白は』「後見草」(のちみぐさ:事件や天災などを語った警世の書で、天明七(一七八七)年成立。上・中・下の三巻から成る)で『伝えているが、死んだ人間の肉を食い、人肉に草木の葉を混ぜ』、『犬肉と騙して売るほどの惨状で、ある藩の記録には「在町浦々、道路死人山のごとく、目も当てられない風情にて」と記されている』(太字は私が附した)。『しかし、諸藩は失政の咎(改易など)を恐れ、被害の深刻さを表沙汰にさせないようにしたため、実数はそれ以上とみられる。被害は特に陸奥でひどく、弘前藩の例を取れば』、『死者』は実に十『数万人に達したとも伝えられており』、『逃散した者も含めると』、『藩の人口の半数近くを失う状況になった。飢餓とともに疫病も流行し、全国的には』安永九年から天明六年(一七八〇年~一七八六年)の間に実に九十二『万人余りの人口減を招いたとされる』とある。]

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