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2021/08/04

只野真葛 むかしばなし (32)

 

○父樣、御名のひろまりしは、廿四、五よりのことなり。三十にならせらるゝ頃は、はや、長崎・松前など、遠國より、高名をしたひて、「御弟子に」と、心ざして入來りし。

 吉雄幸作といひしヲランダ通詞、父樣、御懇意なりしが、其弟子のうち、三人まで、來りし人、有し。はじめは「幸てき」といひし外家、俗の時は「丹治」といひしが、外療は上手なりし。

 道樂ものにて、身の廻り、埒《らち》もなきてい、供袴などは、膝より下《しも》、なくなりたるなどを着て供(とも)せしに、大名の女隱居【小家なるべし。】[やぶちゃん注:原割註。]、癰《よう》などや、いでしなるべし、父樣、療治、御たのまれ被ㇾ成しが、外療下手と御覽有て、

「私、めしつれし供若黨、實は長崎より、このほど、參りし外家なり。巧者《かうしや》に候間、くるしからずば、御やう子、うかゞわせ、御りやうじ、仰付らるべくや。」

と仰上られしに、

「しからば。」

とて、急に、めされしとぞ。

 人がら・男ぶりなどは、よきものなりしが、袴をおろしてみた所が、貧乏神のごとくなり。

 赤面しながら出(いで)しに、

「兩側に、女中達、ならび居て、大迷惑仕(つかまつり)たり。」

と、かたりしを、おぼへたり。外りやうのこと、御おしみ被ㇾ成しに、不埒にて、身を持(もち)かね、御出入も、せざりし。

 次に來りしは樋口司馬なり。はじめは「のぼり」といひし。此人の事は、博多沖にて古今まれなる難風に逢(あひ)て、外家道具は申(まうす)におよばず、身のまわり、殘らず、海にはめて、命ばかりを、たすかり來りしなり。幸作より、こなたへ送りし『ドニネウスコロイトフウク』といふヲランダ本草、せううつしの繪入、厚四寸ばかりなる書と、「このものたのむ」という、そへ手紙をうけ取(とり)て來りしが、それも海に入(いり)て有しを、公儀御用物も、皆、海に入し故、浪、しづまりて後、さぐりものを、おろして、尋ねられしに、かゝりたる物は、みな、御取揚(おとりあげ)となる格なりとぞ。されど、たまたま、其書かゝりて上りしに、上表紙裏に、「工藤周庵樣吉雄幸作」といふ狀のうわ書、左字に、しみ付(つき)て有しを證據に、「のぼり」が手に入(いれ)しとなり。それを力に、袖ごひ同然のていにて、築地家敷まで、つきたりは、哀(あはれ)に珍らしきことなりし。鬼のやうなる男なれども、其頃は、海のあれしはなしをしては、淚、こぼして有し。

「船頭といふものは、殊の外、おごるものにて、舟のかゝり所へつけば、女郞など揚(あげ)て、金銀、をしまぬも、ことはり、まかりちがへば、命すてる覺悟なればなり。さて、西も東も北も南も、國も山も見へぬ所へ漕出(こぎいだ)しては、ちからのなきもの。」

といひし。

 博多浦(はかたのうら)にかゝりて、

「入日(いりひ)の樣子、あしき。」

とて、少しさわぎたりしが、朝、「にぢ」[やぶちゃん注:虹。]とか何とかを見て、いづれも覺悟したりとぞ。

 扨、だんだん、浪、あれて、船の中にたまられぬほどに成(なり)て、素人は、小舟にてのがれし、とぞ。船頭と名の付(つき)ては、舟を明(あく)ることは、ならぬものなり、とぞ。陸《くが》に上(あが)りて、沖をみやれば、大山のごとくなる浪のうへに、舟、上りて、一寸ばかりの人の、はたらく影、みゆるとおもへば、浪の下に入るさま、おそろしといふばかりもなし。覺悟といへば、皆、髮をみだす、とぞ。髮の結(ゆひ)ふしに物のかゝれば、それにて、命、うしなこと有(ある)故なり。

 荷、うち仕舞(しまひ)てのち、舟は、山の上へ上りたるやうに、たかく浪の成たる時、水に飛入(とびいる)とぞ。引(ひく)なみに入(いり)て、もしや、岡《をか[やぶちゃん注:ママ。]》に打上らるゝかと願(ねがふ)故なり。其(その)山のごとくなる浪、うちあぐる事、つねに水なき所一里ばかりへ、一息にくる時、仕合(しあはせ)よければ、木草のたぐひにとり付(つき)て、岡にとゞまりてたすかるとぞ。

 名なり「のぽり」は、高き所に上りて始終見たりしに、

「常に顏見あわす人々の、浪に打上られ、物に取付(とりつき)かねて、又、引(ひつ)たてられなどして、くるしむていを見れば、心もきえぎえと成て有し。」

と語(かたり)し。

「二度、打上(うちあげ)られて、物に取付かねて引(ひか)れ行(ゆき)し人、是(これ)かぎりならんとおもひしを、三度目に、からく、とゞまりて有し人も有(あり)、一度(ひとたび)打上られて引れ行てより、あがらぬも有(ある)などして、水練上手も下手もいらず、たゞ運次第のこと。」

ゝいひし。

「船中には、諸國の諸神諸佛をいはひ納(をさめ)てあれども、のがれぬ場にいたりては、せんかたなし。」

と、いひし。

 

[やぶちゃん注:この後半の樋口司(初名「のぽり」)の海難譚は、彼の直接話法をふんだんに加えて、実際の海嘯の恐るべき実写映像が髣髴して、すこぶる優れている。真葛の怪奇談好きの真骨頂と言える。

「父樣、御名のひろまりしは、廿四、五よりのことなり」工藤平助は享保一九(一七三四)年であるから、宝暦九、十年(一七五九年~一七六一年)頃。将軍は徳川家重。

「三十にならせらるゝ頃」宝暦一三(一七六三~一六七四)年。将軍は徳川家治。

「吉雄幸作」江戸中期のオランダ語通詞(幕府の公式通訳)で蘭方医であった吉雄耕牛(よしおこうぎゅう 享保九(一七二四)年~寛政一二(一八〇〇)年)。諱は永章、通称は定次郎、後に幸左衛門。幸作とも称した。耕牛は号。他に養浩斎など。吉雄家は、代々、オランダ通詞を務めた。長崎生まれ。幼い頃からオランダ語を学び、元文二(一七三七)年十四で稽古通詞となり、寛保二(一七四二)年に通詞、寛延元(一七四八)年には二十五歳で大通詞となった。年番通詞・江戸番通詞(毎年のカピタン(オランダ商館長)の江戸参府に随行)をたびたび務めた。通詞の仕事の傍ら、商館付きの医師やオランダ語訳の外科書から外科医術を学んだ。特に外科医であったバウエル(G.R.Bauer)や、ツンベリー(C.P.Thunberg:スウェーデン人でリンネの高弟)とは親交を結び、当時、日本で流行していた梅毒の治療法として水銀水療法を伝授され、実際の診療に応用した。オランダ語・医術の他に、天文学・地理学・本草学なども修め、また、蘭学を志す者に、それを教授した。家塾である成秀館には、全国からの入門者が相い次ぎ、彼が創始した「吉雄流紅毛外科」は楢林鎮山の楢林流と双璧をなす「紅毛外科」(西洋医学)として広まった。吉雄邸の二階にはオランダから輸入された家具が配され、「阿蘭陀坐敷」などと呼ばれたという。庭園にもオランダ渡りの動植物が溢れ、長崎の名所となった。同邸では西洋暦の正月に行われる、いわゆる「オランダ正月」の宴も催された。吉雄邸を訪れ、或いは成秀館に学んだ蘭学者・医師は数多く、青木昆陽・大槻玄沢・三浦梅園・平賀源内・林子平・司馬江漢といった当時の一流の蘭学者は軒並み、耕牛と交わり、多くの知識を学んでいる。大槻玄沢によれば、門人は六百余名を数えたという。中でも前野良沢・杉田玄白らとの交流は深く、二人が携わった「解体新書」に耕牛は序文を寄せ、両者の功労を賞賛している。また、江戸に戻った玄沢は、自らの私塾「芝蘭堂」で江戸オランダ正月を開催した。若くして優れた才覚を発揮していたため、上記に示した人物などには、彼より年上の弟子が何人も存在する。寛政二(一七九〇)年に、樟脳の輸出に関わる誤訳事件に連座し、蘭語通詞目付の役職を召し上げられ、五年間の蟄居処分を申し渡されたものの、復帰後は同八年には「蛮学指南役」を命ぜられている。享年七十七で、平戸町(現在の長崎市江戸町の一部)の自邸で病没した。訳書に「和蘭(紅毛)流膏藥方」・「正骨要訣」・「布斂吉黴瘡篇」・「因液發備」(耕牛の口述を没後に刊行したもの)など。通訳・医術の分野でともに優れた耕牛であったが、子息のうち医術は永久が、通詞は権之助(六二郎)がそれぞれ受け継いだ。権之助の門人にはかの高野長英がいる(以上は当該ウィキに拠った)。日本庶民生活史料集成の中山栄子氏の補註によれば、『工藤家と交際があり、弟子達を江戸まで遣わして工藤平助に弟子入りを頼んでいる』とある。綜合蘭学の研究ではなく、外科医としての実務修得を主とする希望で入門する者も多かったであろう吉雄にとっては、こうした関係は膨れ上がる弟子を整理するのには是が非でも必要であったに違いない。さればこそ、必ずしも技量全般に優れ、人品も保証出来るというわけにはゆかないことが、真葛の記載から窺える。

「供袴」不詳。平助の往診の際の付き添い医師としての供の際に穿く袴の意か。

「なくなりたる」擦り切れて、つんつるてんになって、脛が剝き出しになっているのであろう。

「癰《よう》」皮膚にある隣接した多くの毛嚢が化膿したもの。首筋や背部に多く発生し、硬く赤く腫れ上り、痛みが激しい。

「外療下手と御覽有て」入門以後の様子を窺っていると、どうも外科術は下手らしいと推察なされたによって、修業のために敢えて。

「袴をおろしてみた所が」貴人の女隠居の定期往診なれば、新しい袴を拵えて穿かせてみたところが。

「博多沖にて古今まれなる難風に逢(あひ)て……」考えてみれば、長崎から江戸に向かうのには、陸路でしかも煩瑣な関所や改め所を何度も通過せねばならぬのを思うと、公に認められた者であれば、船路で行く方が行程は楽である。無論、ここにあるように、天候さえよければの話である。

「ドニネウスコロイトフウク」オランダ(フランドル)の医師で植物学者のレンベルト・ドドエンス(Rembert Dodoens/ラテン語名:レンベルトゥス・ドドネウス Rembertus Dodonaeus 一五一七年~一五八五年)が一五五四年に刊行した本草譜「クリュード・ベック」(Cruyde-boeck :「植物誌」。綴りを見ると「コロイドブウク」と発音しそうだ)。早稲田文学図書館公式サイト内の「ドドネウス草木譜」によれば(石井当光らになる文政年間の訳書の画像有り)、ドドネウスの原著(オランダ語版)は一六一八年版・一六四四年版が日本に伝わり、長く用いられた。野呂元丈・平賀源内・吉雄耕牛らが翻訳を試みたが、何れも抄訳であった。これに対し、本篇より後になるが、松平定信が石井当光・吉田正恭らに全訳を命じ、文政六(一八二三)年頃、一旦、完成したが、江戸の大火で大部分が失なわれ,現存のものは十分の一の分量に過ぎないとされる。訳者石井当光(寛保三(一七四三)年~?)は長崎通詞出身で、後に松平定信に仕えた、とある。

「せううつし」「正寫し」。

「そへ手紙」底本は「すへ手紙」だが、日本庶民生活史料集成で訂した。

「さぐりもの」潜り者或いは底引き網。

「御取揚(おとりあげ)となる格なり」「福岡藩のお召し上げとなる部類であった。」。南蛮渡来で、一般人には禁書であったり、持っていてはいけない治療具や薬物であったりと、そうした禁制レベルの対象物(「格」)だったからである。 

「其書」「ドニネウスコロイトフウク」のこと。

「袖ごひ」乞食。

「舟を明(あく)ること」舟を捨てること。

「結(ゆひ)ふし」「結ひ節」。

『名なり「のぽり」』「のぼり」がひらがなで文を誤読し易いので、「彼の名であるところの」という意味で附したものか。]

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