芥川龍之介書簡抄120 / 大正一四(一九二四)年(一) 三通 「また立ちかへる水無月の」の初出
大正一四(一九二四)年二月五日・田端発信・香取先生 侍史・龍之介
鴨ヲ難有ウ存ジマス
たてまつる蕪の鮓は日をへなばあぶらやうかむただに食したまヘ
二月五日 龍 之 介
香 取 先 生 侍史
[やぶちゃん注:この年で芥川龍之介は満三十三歳になった。]
大正一一四(一九二四)年二月十四日・田端発信・與謝野晶子宛
冠省先達は御本をありがたうございました。病中床の上でゆつくり拜見しました。あの連作のお歌は地震のならば地震の、溫泉のならば溫泉のと言ふやうに別丁を一頁づつ入れて頂くと讀む方で大へん助かりますが如何ですか。それから假名づかひ改定案につき、小生も改造に(三月の)惡口を書きました。但し小生のは要するに啖呵を切つたやうなものですが。この手紙と同封して旋頭歌を少々御覽に入れます。御採用下さるのならば明星におのせ下さい。落第ならば御返送下さつても結構です。小生自身には大抵落第してゐる歌ですから。右とりあへず當用のみ 頓首
二月十四日 芥川龍之介
與謝野晶子樣
[やぶちゃん注:「御本」この年の一月十日にアルスから発行された與謝野晶子の第二十歌集「瑠璃光」。
「小生も改造に(三月の)惡口を書きました」芥川龍之介の「文部省の假名遣改定案について」この翌月の三月一日発行の雑誌『改造』に発表された。私は彼の義憤に完全に賛同するものである。私はサイト版で、この「文部省の假名遣改定案について」の初出形を公開しているので、是非、読まれたい。
「旋頭歌」五・七・七・五・七・七の六句形式の歌で、「片歌」を繰り返した形である。上代に多く、記紀歌謡に見られ、「万葉集」にも六十二首があるが、平安になって殆んど姿を消し。「古今和歌集」「千載和歌集」などに数首あるに過ぎない。「旋頭」とは「頭句に還る」の意で,五・七・七の三句を繰り返す詩形の意であろうとされる。この時に晶子に送ったその旋頭歌群は採用され、同じく三月一日発行の『明星』で公開された。それこそが芥川龍之介が片山廣子に向けて捧げた恋歌「越びと 旋頭歌二十五首」であったのである(リンク先は私のサイトの古い電子版であるため、漢字の正字化が不全であるが、許されたい。縦書もある)。なお、芥川龍之介の秘密の片山廣子のラヴァー・ネームについては、誰も確証を感じさせる答えを出していない。私は全くオリジナルに考えたものがある。興味のある方は、『やぶちゃんの片山廣子の「越し人」考』を読まれたい。]
大正一一四(一九二四)年四月十七日修善寺から室生犀星宛
澗聲の中に起伏いたし居候。ここに來ても電報ぜめにて閉口なり。三階の一室に孤影蕭然として暮らし居り、女中以外にはまだ誰とも口をきかず、君に見せれば存外交際家でないと褒められる事うけ合なり。又詩の如きものを二三篇作り候間お目にかけ候。よければ遠慮なくおほめ下され度候。原稿はそちらに置いて頂きいづれ歸京の上頂戴する事といたし度。
散きはよしやつきずとも
君につたへむすべもがな。
越のやまかぜふき晴るる
あまつそらには雲もなし。
また立ちかへる水無月の
歎きをたれにかたるべき
沙羅のみづ枝に花さけば、
かなしき人の目ぞ見ゆる。
但し誰にも見せぬやうに願上候(きまり惡ければ)尤も君の奧さんにだけはちよつと見てもらひたい氣もあり。感心しさうだつたら御見せ下され度候。末筆ながらはるかに朝子孃の健康を祈り奉り候この間君の奥さんの抱いてゐるのを見たら椿貞雄の畫のとよく似た毛糸の帽子か何かかぶつてゐた。以上
十七日朝 澄 江 生
魚 眠 老 人 梧下
二伸 例の文藝讀本の件につき萩原君から手紙を貰つた。東京へ婦つたら是非あひたい。御次手の節によろしくと言つてくれ給へ。それから僕の小說を萩原君にも讀んで貰らひ、出來るだけ啓發をうけたい。何だか田端が賑になつたやうで甚だ愉快だ。僕は月末か來月の初旬にはかへるから、さうしたら萩原君の所へつれていつてくれ給へ。僕はちよつと大がかりなものを計畫してゐる。但し例によつて未完成に終るかも知れない。
[やぶちゃん注:以上の二首の内、後ろのそれは、恐らく芥川龍之介の定型詩の中で最も人口に膾炙した決定稿で、後に「マチネ・ポエティク」の連中が近代定型詩中希有の珠玉の一篇と持ち上げた、
*
相聞
また立ちかへる水無月の
歎きを誰にかたるべき。
沙羅のみづ枝に花さけば、
かなしき人の目ぞ見ゆる。
*
の、現存する中で最も最初の形である。公開の最初は大正一四(一九二五)年四月発行の『文藝日本』に掲載された歌謡六篇・短歌三首・俳句一句の計十作からなる「澄江堂雜詠」で、 その二ヶ月後の六月発行の『新潮』に掲載された同名異作の「澄江堂雜詠」にも含まれており、芥川龍之介が強い自信とともに、強い癒し難い恋情を以って公開していることが判る。無論、ここ「かなしき人」(愛しき人)とは、片山廣子その人以外の誰でもないのである。龍之介が、この一篇を犀星に最初に見せたことからも、それは判るのである。なお、この一篇については、私の『やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成 Ⅰ ■1 旧全集「詩歌二」の内の十二篇』で詳しく遷移を考察しているので、是非、読まれたい。なお、この書簡は「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」の「■書簡11」で既に電子化してあるが、片山廣子との関係で、非常に重要な書簡であることから、改めて零から電子化し、注も新たに附した。
「澗聲」谷川の流れる音。芥川龍之介はこの四月十日に病気療養(二月中旬に流行性感冒で臥せった予後、ずるずると病気がちであった。但し、それには精神的な負担も加わっていた。二月十八日に、以前に述べたが、仲人をした友人岡栄一郎夫妻が不仲になって、離婚話が持ち上がって(姑と妻の確執に基づくもので、結局、離婚した)、岡がやり場のない鬱憤を媒酌人の龍之介に向けたことや、同日夜に文の弟塚本八洲が三度目の喀血を起こし、以後、その見舞いなどで忙殺されたこと、幼馴染みの友人清水昌彦が結核で倒れたことを知ったりといったことが彼の神経をさらに擦り減らしたのであった)のために修善寺温泉の新井旅館で翌五月三日まで湯治していた。
「奥さん」とみ子。結婚は大正七(一九一八)年二月。
「朝子孃」犀星の長女。
「椿貞雄」(明治二九(一八九六)年~昭和三二(一九五七)年)は洋画家。
「文藝讀本」興文社から依頼を受けて芥川龍之介が編集した明治・大正の作家の作品を収録したアンソロジー集「近代日本文藝讀本」(全五巻)。関東大震災当日の午前中に同社から依頼を受け、この年の十一月八日に全巻を同時刊行した。今、そのライン・ナップを見ると、非常に優れた作品選びが行われているのであるが、刊行直後から、無断収録や印税分配問題が勃発し、龍之介個人への根拠のない誹謗なども発生し、そのトラブルのために永く悩まされることになった。
「萩原君」萩原朔太郎(明治一九(一九四二)年~昭和一七(一九四二)年:龍之介より六つ年上)。朔太郎は、この四月上旬に大井町(同年二月に前橋から上京していた)から田端に転居しており(同年十一月には鎌倉に転居)、既に彼と旧知の仲となっていた犀星を介して、恐らくはこの言い方からみて、この書簡以降に朔太郎と逢い、親交を結ぶことになったものと思われる。
「ちよつと大がかりなものを計畫してゐる」これ以降で、めぼしい中編作となると、「湖南の扇」(大正一五(一九二六)年一月発行の『中央公論』初出。リンク先は私のサイト版)だが、後過ぎる。思うに、これは実は、この年の一月一日発行の雑誌『中央公論』には初回を発表した、「大導寺信輔の半生 ――或精神的風景畫―― 」の続行を意味しているのではないかと私には思われる。同作は結局、単発で終わったのだが、その末尾には、
*
附記 この小說もうこの三四倍續けるつもりである。今度掲げるだけに「大導寺信輔の半生」と言ふ題は相當しないのに違ひないが、他に替る題もない爲にやむを得ず用ひることにした。「大導寺信輔の半生」の第一篇と思つて頂けば幸甚である。大正十三年十二月九日、作者記。
*
と明記しているからである。これは続けられたとすれば、「或阿呆の一生」の如き、万華鏡みたようなモザイク画の朦朧としたトリッキーな半生の擬似告白ではなく、相当に気骨に富んだものとなったであろうに。非常に惜しい気が私はしている。]
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