曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 草加屋安兵衞娘之事 / 第四集~了
[やぶちゃん注:以下は文宝堂発表。目録には、「駒込富士來歷【一錢職分由緖附草加屋安兵衞娘之事】」とある。「一錢職分由緖」は前に分離して出した。短歌は底本では三字下げであるが、引き上げた。]
○兩國藥硏堀うなぎや草加屋安兵衞は、紀名虎が末流のよし、娘は松平越中守殿につかへけるが、あるとしの冬の夜、此娘、御側に侍りける時、折ふし、あられ、降り來りければ、守の殿、此音を聞き給ひて、「かゝるさむけき夜も、今、泰平の御代に生れあひぬれば、寒き事も、おぼえず。かく、ゆたかにあるこそ、實に有りがたき事なれ。」と仰せられて、
こての上にふりし世しらであつぶすまかさねて夜の霰をぞきく
と詠み給ひて、「其方も、紀氏の末流なれば、卽詠せよ。」と仰せありける時、此むすめ、
あつぶすまかさねても猶さむき夜に道ゆく人の聲ぞきこゆる
後に此娘、御いとま給はりて、牛込御納戶町近江屋半三郞といふ者のかたへ嫁すべき時に、殿の御歌、
一かたに心さだめよ小夜ちどりいづくの浦に浪風はなき
といへる御歌を給はりき、となん。此安兵衞の遠祖は、駿河大納言につかへ奉りて、其比、堀田三郞兵衞といひしよし。君、御生害の後、武州草加に、ゆかり、もとめて、百姓となり居たりしかば、今の安兵衞より三代まへの事なりと、いへり。
[やぶちゃん注:以下は底本では最後まで全体が三字下げ。]
右白川侯の御歌は、鎌倉の右府實朝公の御歌に、
武士の矢並つくろふこての上に霰たばしる那須のしの原
「續後拾遺集」に見えたり。此歌を思し召し合せ給ひて、よみたまひしなるべし。
先祖堀田三郞兵衞、大納言の君、御生害の後、追腹もきらず、のらりくらりと百姓になり、今の安兵衞に至りて「うなぎや」となりしは、先祖が腹をきらぬかはりに、今、うなぎの脊をさくも、をかし。
[やぶちゃん注:「兩國藥硏堀」小学館「日本国語大辞典」によれば、『江戸時代、現在の東京都中央区東日本橋二丁目の両国橋西詰の付近にあった堀。日本橋付近の米・竹・材木などの蔵に物資を運送する水路として利用されたが、御米蔵の築地移転後に一部を残して埋め立てられ、その一帯の地名として残った。踊子と呼ばれた女芸者が多く住んでいた。また、付近には堕胎専門の中条流の女医者も多かった』とある。切絵図を見ると、現在の中央区立日本橋中学校敷地内の同地区と接する部分に「薬研堀」の名残が認められるから、この中央(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の東北から南西にかけての位置が狭義の薬研堀のように思われる。
「紀名虎」紀名虎(きのなとら ?~承和一四(八四七)年)は平安前期の官吏。娘の種子(たねこ)を仁明天皇の。静子を文徳天皇の更衣とし、惟喬親王を始め、多くの皇子・皇女の外祖父となり、承和十年は正四位下に進み、中務大輔(なかつかさのたいふ)を経て、翌年には刑部卿となったが、藤原氏との勢力争いに敗れ、要職には就かずに終った(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。系図を見ると、かの紀貫之の曽祖父の弟である。
「松平越中守」松平定信(宝暦八(一七五九)年~文政一二(一八二九)年)。
「こての上にふりし世しらであつぶすまかさねて夜の霰をぞきく」整序すると、
籠手の上に降りし世知らで厚衾重ねて夜の霰をぞ聽く
か。「籠手」手首の保護に当てる武装具。
「牛込御納戶町」現在の新宿区納戸町。
「駿河大納言」徳川忠長(慶長一一(一六〇六)年~寛永一〇(一六三四)年)は駿河国駿府藩藩主。徳川第二代将軍秀忠の三男。第三代将軍家光の弟。母は秀忠の正室崇源院(於江与)。秀忠夫妻が才智に恵まれた忠長を寵愛したため、次期将軍になるという風評があり、危機感を抱いた家光の乳母春日局が、駿府の家康に嘆願し、家康の指示で、家光が世子と決定した(家康は元和二年没で、世子決定は元和年間とされるので、元和元年からそれまでの閉区間となる)。元和四(一六一八)年、甲斐国を領地として与えられ、同六年に元服、従四位下・参議に叙任された。寛永元(一六二四)年、駿府藩主となり、駿河・遠江両国五十五万石を領した。同三年八月には従二位権大納言に叙任されたので、世に「駿河大納言」と称された。同五年頃から、忠長の行動が荒れ、同八年に入ると、家臣を手討ちにしたり、仕えていた少女を殺害して唐犬に食わせたりという異常な行動が目立ち始め、江戸で頻発していた辻斬りも忠長の仕業であると噂された。同年八月末、付家老の朝倉宣正の切腹を上訴したことから、秀忠は忠長を付家老鳥居忠房の領地甲斐谷村に蟄居させた。同十年九月、前年の一月の秀忠の死後、親政を行っていた家光が重病に陥ると、世間では「忠長与党の大名が反乱を起こそうとしている」という噂が飛び交った。そのため、危機感を抱いた家光は、病気回復後、忠長を安藤重長の領地上野高崎に移し、阿部重次を派遣し、自害を命じた。自害の場所は高崎の大進寺であった(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「武士の矢並つくろふこての上に霰たばしる那須のしの原」「金槐和歌集」の「卷之上 冬部」の一首(三四八番)、
霰
もののふの矢並繕ふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原
この「矢並」(やなみ)は矢を収納する胡簶(やなぐい)・箙(えびら)の中の矢並びを実戦に備えて整えること。
「續後拾遺集」「續(しよく)後拾遺和歌集」は後醍醐天皇の命になる勅撰和歌集。全二十巻。二条為藤・二条為定(為藤の甥で彼の死後を引き受けた)撰。正中三(一三二六)年撰進。十三代集の第八番。]
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