曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 染木正信
○染木正信
御天守番飯島平次郞話。「予が相番に、染木某が祖先は、韓人にして、李氏なり。豐太闇の時に、童にて、姊とゝもに、片桐市正にいけどられて、皇國に來れり。市正、此二人に唐山の童子の衣服をきせて、臺にのせ、天樹院君にまゐらせたり。姊は成長して『早尾』といふ。弟は老女『染木』が養子になりて、染木八右衞門正信といひて、兩人ともに、生涯、つかへ奉り、その子を利右衞門正美といひて、是も、おなじ君につかへて、添番をつとめたり。然るに、實子なくて、血脈は絕えたりとぞ。家の傳ふる所は、族稱・本氏ともに『染木』なり。」と、いヘり。
文政八三朔 輪 池
[やぶちゃん注:「染木正信」(そめきまさのぶ 生没年未詳)は織豊から江戸前期の武士。で朝鮮の人。豊臣秀吉の「朝鮮出兵」の際、片桐且元(かつもと 弘治二(一五五六)年~慶長二〇(一六一五)年:豊臣家直参の家臣で豊臣姓を許され、「関ヶ原の戦い」以降は家老として豊臣秀頼に仕えたが、「方広寺鐘銘事件」で大坂城を退出して徳川方に転じ、大和国竜田藩初代藩主となった。官位は従五位下・東市正(ひがしのいちのつかさ))に捕らえられ、姉とともに日本に連行された。豊臣秀頼の妻千姫(号・天樹院)の添番を、生涯、つとめた。本姓は李。通称は八右衛門(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
「御天守番」は元来は江戸城天守を守衛する職名。当該ウィキによれば、『その創置は寛永』一四(一六三七)『年以前であるということ以外わからない。江戸城五重の天守は』、明暦三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日から四日)に発生した「明暦の大火」で『焼け落ち、保科正之の意見によって再築は控えられた』ものの、『その職のみは存置された。人員は』四十『名、これを』四『組に分けた』。百『俵高』五『人扶持で躑躅間詰。天守下番』二十一『人とともに天守番頭』四『人が』、『それぞれ』一『組を支配した』とある。]
« 曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 山王靈聖 | トップページ | 小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (12) 「摸稜案」の最初の物語 »