曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 禁裏萬歲之御式
○禁裏萬歲之御式 好 問 堂 錄
[やぶちゃん注:以下、「小泉豐後」署名まで底本では全体が二字下げ。]
此時、所司代より警固出役等もなし。又、諸人拜見もならざりし故、彼地においても誰も存じ申すもの覺なし。此に記すも亦、その大槪のみ。
萬歲 小 泉 豐 後
每年正月四日、紫宸殿の御庭にて舞ふ。
[やぶちゃん注:以下、「始には、」まで底本では全体が二字下げ。]
裝束は三位烏帽子【此烏帽子は、古へより給はりしよし申し傳ふ。】、大紋着【但し、下は半袴のごとく裾短し。】、脇は紅の兩面の小袖【尤、無紋。】、下に白無垢を着、小さ刀を帶す。舞ふ時は、兩人ともに脫劔なり。歲若(サイワカ)は、萬歲烏帽子、素襖を着【但、下は半袴の如く、裾、短し。】、縬(シヾラ)熨斗目【紋は丸の内に笹龍膽、則、小泉の家の紋なりとぞ。】を着、刀・脇差を帶す。扠[やぶちゃん注:「さて」。「扨」に同じ。]鞨鼓・中啓を持。【但、豐後は翔鼓を持ちて、手ににてこれを打つ。歲若はいづれも持たずして舞地なり。】唄ひものは、委敷[やぶちゃん注:「くはしく」。]はしれず。大かた三番叟の舞に似よりしか。始には、
「トウ、トウ、タラリ、タラリ、ラフ
[やぶちゃん注:鍵括弧の閉じはない。「〽」と同じ記法であろう。以下、「申し終りて、」まで底本では全体が二字下げ。]
其次に、一本の柱より十二のはしらと申す神々の御名を申し終りて、
德若に『御代萬歲』と、『枝も榮え益します』、愛敬ありける。『あら玉の年立ちかへる日の朝日より、水も若やぎ、木の芽咲き榮えけるは、誠に目出たう候ける。』。
[やぶちゃん注:以下、「【附たり、小さ刀を帶び、牀几を用ふ。】、」まで底本では全体が二字下げ。]
北面の武士、大紋長袴にて、御階の左にありて【附たり、小さ刀を帶び、牀几を用ふ。】、
『勇みませい』と大音にて申す。
[やぶちゃん注:以下、「御階の上にて、」まで底本では全体が二字下げ。]
其後、うたひ候は、空穗の猿の錄にうたひ申す唱に似より候樣に見ゆ。又、太子御誕生の事あり。
そのあとは、年々承り候[やぶちゃん注:底本には編者によるものと思われる『(本のまゝ)』とある。]事に承りし。
五位殿上人、中啓を持參候て、御階六段目【御階十二段あり。】にて北面へ御渡し、北面より豐後ヘ披下候。弓場殿【此所、土間ゆゑ、薦をしく。】にて休息仕、御料理御酒、御鏡餠頂戴仕。勘解由使、靑銅拾貳貫文、米一石持參にて、中啓と取替に相成るなり。
中宮樣へ參り候とき、御庭にて女嬬と見えて、由小袖に袴を着、檜扇にて顏をかくし御階の上にて、
『いさみませい』と大音にて申すと、
[やぶちゃん注:以下、最後まで、底本では全体が二字下げ。]
御翠簾の内、大勢の女中の聲にて笑ひ候事、御庭まで聞え、女嬬も、はやく、かけごゑ申すあり。頂戴ものは御翠簾の内より、段々紙に鳥目、其外、色々、ものを、なげ出だされ、頂戴仕候。その内に金壱分五つ、五色の糸にて、よくからみたる一つ、御座候。是は中宮樣より賜候歟。其外、院の御所がた、右之通りなり。宮方・公家方へは、御召御座候得共、御問これなきときは。まゐり不申候といへり。【附たり、素あしにて草履をはけり。】
右者、ある人の覺えし趣き書き付け侍りしとて、おこせたるをこゝにしるす。
右一條、これを友人の筆記中に得たり。
文政乙酉上元前一日 山崎美成錄
[やぶちゃん注:正月の門付祝祭芸である「萬歳」(まんざい)が内裏に呼ばれて行われた際の様子を記したもの。「万歳」は「千秋(せんず)万歳」とも称し、知られた三河万歳の他、尾張・秋田・会津・越前・加賀・伊予・豊後(以上は一九八〇年代時点で現存)・大和・江戸・仙台・伊六(いろく:明治末期から大正初期にかけて流行したもの。初代伊六は愛知郡笈瀬村(現在の名古屋市中村区)の出身とされ、知多万才などに雑芸を取り入れて伊六万才を称した。現在、復元されて継承されている)・沖縄のチョンダラーなどがあった。各万歳とも演目・扮装・楽器・演技などに特徴的差がある。基本的には太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)の二人一組(才蔵は門付先による演目選択によって複数の場合もある)で、一般的に太夫は烏帽子に素袍(すおう)で扇を持ち、才蔵は門付には大黒頭巾に裁着袴(たっつけばかま)、座敷の場合は、格式を尊び、侍烏帽子などに素袍で鼓を持つ。二人の掛け合いで口調・身振りも軽快に、万歳独特の寿詞(ことほぎ)を唱え、後に余興としてくだけた万歳を演じる。第二次世界大戦以前まではよくみられたが、昭和四五(一九七〇)年頃には、殆んど見られなくなった。嘗ては農山村民の正月の副職能としてあったが、現在は民俗芸能として余命を保っているばかりである。万歳は、一説には、奈良時代の宮中正月節会の「万年阿良礼(まんねんあられ)」と囃した踏歌(とうか:男女が集団で足拍子を踏んで祝福した正月の晩の歌舞。本来は中国西域の灯飾りの風も入った隋・唐の都市の民間行事で「観灯会」と言ったものが、本邦に伝わったもの。「日本書紀」の持統天皇七(六九三)年正月十六日の条にその初見が見え、これ以後、次第に「踏歌節会」(とうかのせちえ)として宮廷の年中行事の一つとして定着したものらしい)を起源とするという。「万葉集」巻第十六の「乞食者詠歌(ほかひびとのうた)」は固有の寿詞の存在を示しているが、平安中末期には「源氏物語」などで見られるように、既にくだけた内容のものとなっており、平安期の猿楽でも「千秋万歳之酒祷(せんずまんざいのさかほかひ)」(「新猿楽記」)と、滑稽物真似が演じられていたことが判る。鎌倉時代には被差別民を集めた散所(さんじょ)の僧形神人(そうぎょうじにん)の職能であったが、宮中にまで参仕するまでになっていた(「明月記」)。これは、半ば恒例化して江戸幕末まで続き、「言立(ことだつ)」「枡舞(ますまい)」など、六演目の禁中千秋万歳が知られている。大和万歳の「柱立(はしらだて)」は「言立」の、チョンダラーの「御知行(うちじょう)」は「枡舞」の名残である(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「縬(シヾラ)熨斗目」縬織(しじらおり:経緯(たてよこ)糸の張り方の不均衡によって表面に凹凸を表した織物)の熨斗目(腰の部分だけに縞や格子模様を織り出した絹織物の小袖を熨斗目小袖或いは単に熨斗目という。これは元来、武士が大紋・素襖(すおう)・裃(かみしも)の下に着用した小袖で、室町時代に始まったものとされる。「文化遺産オンライン」の「縬熨斗目小袖」を見よ。
「中啓」扇子の一種。親骨が要よりも外側に反った形をしており、折り畳んだ際に銀杏の葉のように扇の上端が広がるもの。
「女嬬」(によじゆ/めのわらは)は後宮において内侍司(ないしのつかさ)に属し、掃除や照明を灯すなどの雑事に従事した下級女官。「女孺」とも書く。
「由小袖」不詳。]
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