曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 安宅丸御船修造之節の漆の事
○安宅丸御船修造之節の漆の事
武州草加宿百姓大岡八郞右衞門といふ者、町奉行所より御差紙にて、御呼出し有之候。其趣。
「むかし、『安宅丸』御船出來之節、右、大岡先祖、此御船を塗りたるよし。其節の漆調合之法、今、以、書留有之哉。」と御尋なり。然るに、今、八郞右衞門事、「今は百姓なれば、一向、右樣之書物など、有無とも辨へず。いづれ相尋候上にて、御請可申上。」とて、夫より、家内に昔より持ち傳へたる簞笥等、吟味したるに、其中より、右「安宅丸漆塗之法書」等、其外、右に付きたる書物共、出でたれば、大によろこび、早速、上へ差し出だしたり。右書物にて考ふれば、平日、家内にて遣ふ、給仕盆三枚、硯箱壱つ、硯ふた一面とも、昔の漆のあまりにて、ぬりたるものゝよし、則、此三品をも差し出だしたれば、給仕盆一枚、とめおかれ、「殘の品は、隨分、大切に所持いたし候樣に。」と、被仰渡て下しおかれしとなり。
此大岡氏は、本町藥店小西九郞兵衞の内緣あるものゝよし。
右、小西かたにつとめたるものゝ話にて、これも文化子年の事なり【文化は元年と十三年と子年ふたつあり。いづれの子年にか、たづぬべし。】[やぶちゃん注:頭書。]
文政八三月朔 文 寶 亭 誌
[やぶちゃん注:「安宅丸」(あたけまる)は冒頭の目録で注した。但し、これは安宅丸を修理するためではない。安宅丸は天和二(一六八二)年に幕府によって解体されているからである。では、何のためか? 或いは、安宅丸なき後、幕府が将軍の御座船として幕末まで保有し続けた関船(中型軍用船)「天地丸」(てんちまる:寛永七(一六三〇)年六月に時の将軍徳川家光により試乗が行われた)の修理に際して、特定の箇所の修繕の参考にする必要があったのではなかったろうか?
「草加宿」この中央附近(グーグル・マップ・データ)。
「本町」(ほんちやう)で旧日本橋本町か。現在の中央区日本橋本町附近。
「文化は元年と十三年と子年ふたつあり」文化元年甲子(一八〇四年)に始まるが、文化十五年戊寅(一八一八年)まであるので、文化十三年丙子(一八一六年)がある。]
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