曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 武州多摩郡貝取村にて古牌を掘出せし話
○武州多摩郡貝取村にて古牌を掘出せし話
好 問 堂 記
予が友なる沙門春登、ある時、訪ひ來りて、ものかたらふことの次に、いへるは、「去りし文政六年癸未三月、餘が隣村多摩郡貝取村[やぶちゃん注:現在の東京都多摩市貝取(かいどり)地区。この中央附近。多摩川右岸。]の百姓、雨後に家居のうしろなる山に登りて、薪を採らんとする處に、いかゞはしけん、片あし、土中におち入ること、その深さ、二、三尺ばかりなりければ、いとあやしみて、其所を穿ちくだること、大よそ、五、六尺ほどにして一大穴あり。空洞、縱橫二間[やぶちゃん注:約三・六四メートル。]餘もあらんとおぼしく、その傍に小穴あり。亦、六、七尺ばかり、めぐりに、小溝をかまへて、漏水を通はす備とせり。その遺棄する埋樋、みな、石塔婆をもて、つくりまうけ、長、三、四間[やぶちゃん注:約四メートル半から七・二七メートル。]、その數、凡、四、五十基。みな、ほり出でたり。年歷を檢するに、弘安元年[やぶちゃん注:一二七八年。]より文明九年[やぶちゃん注:一四七七年。]に至る。今を距る[やぶちゃん注:「へだてる」。]こと、五百三十有餘年、しかれども、金字の梵箔、猶、存せり。惜らくは缺損の者、半に過ぎ、且、文字、磨滅、多くは、よむべからず。その中、全形のもの二基を摺打して、かへる。實に當時の質朴を見るに足るものなり。思ふに、當時、足利持氏、成氏等の爭、戰、止む時なき比なれば、此邊上州北越の官道にて、民家その亂妨をおそれ、資財雜具などをかくしゝ所ならんといへり。
春登は、和學を好み、「萬葉用字格」をあらはしたり。
[やぶちゃん注:「春登」(しゅんとう 安永二(一七七三)年~天保七(一八三六)年)は時宗の僧で国学者・万葉学者。俗姓は山本、諱は輪丈(倫丈)。甲府勤番支配山口直郷の子として甲府城下に生まれ、七歳の時、甲斐吉田の西念寺にて出家し、十二歳まで同寺で修行したが、この間、本居宣長門人の小佐野和泉に国学を学んでいる。その後、藤沢の総本山遊行寺に移り、諦如上人に師事した。二十二歳の時、西念寺に戻り、住職となったが、三十二歳の時、三年間、江戸に遊学し、村田春海・狩谷棭斎・山崎美成らと交流した。以降、武蔵関戸の延命寺(ここ。本文に出る貝取の北直近である)の住職、京都二条の聞名寺の住職、京都七条の時宗学寮の学寮主、総本山遊行寺の役寮等を歴任した。晩年から示寂までの十年間は、吉田に帰って隠居し、著述に専念した。主な著作として、本草書などをもとに「万葉集」に出る動植物の同定(名物学)を論じた「万葉集名物考」や、万葉仮名の分類を論じた「万葉用字格」などがある(以上は当該ウィキに拠った)。
「摺打」「すりうち」か。落ちたその時であるから、薪用の鉈で叩き割ったことかと思ったが、彼の事蹟を見るに、常時、矢立とメモをとるための紙を持っていた可能性が高いから、拓本として摺り採ったことを意味しているものととる。]