曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 於竹大日如來緣起の辯・勘解由に見あらはされ
○於竹大日如來緣起の辯 好問堂稿
安永六年丁酉[やぶちゃん注:一七七七年。]七月、江戶にて於竹大日如來の開帳あり【此より先にも開帳ありや、しらず。】その緣起に云ふ。
[やぶちゃん注:以下は底本では、「玄良坊」の署名まで全体が一字下げ。]
抑、當山の靈像於竹大日如來の權輿を尋ぬるに、文祿年中[やぶちゃん注:一五九三年~一五九六年。豊臣政権による最初の改元。]の頃、武江佐久間何某召し仕ふところの婢女に、「たけ」といふあり。深く三寶に皈依[やぶちゃん注:「歸依」に同じ。]し、雜染浮花[やぶちゃん注:「ざふせんふくわ」。一切の煩悩を増長するところの、上辺は華やかであるが、実質の乏しい現世の対象物。]世間の樂しみを、よしと、願はず。たゞ白淨信心にして、常に愼むところを見るに、日々三時、おのが喫歿する分量の喫食(シヨク)をとゞめて、困餓窮飢の者に施し、朝暮烹炊につき、自ら流れすたる所の粒飯(メシツブ)をおそれうやまひ、厨下流盤(ダイドコロナガシ)のすゑに茶袋を羅布(アミシキ)て、是に止まる淡薄の麁食[やぶちゃん注:「そしよく」。]を嘗めて、自活の料とし、專ら卑下柔順にして、慈悲、曾て怠ること、なし。その頃、同國比企郡に、湯殿嶺上、戒行堅固の聖あり。正身の大日如來を拜せんことを願ひ、此山にあゆみをはこぶこと、年、あり。ある夜の夢に、「汝、生身の如來を拜せんとならば、武江佐久間氏何某の下女を拜せよ。」とて、夢、覺めぬ。斯[やぶちゃん注:「かく」。]の如きの異夢、二度に及びければ、疑ふことなく、武城都下に尋ね來り、夢の告なるよしを語り、佐久間主人に物して、ひそかに竹女が面容を拜すれば、光明輝然として、十方をてらし、尊貌、紫磨[やぶちゃん注:「紫磨金(しまごん)」。紫色を帯びた純粋真正の黄金。]の全身なりければ、主客ともに驚嘆不思議の感淚に咽び、禮拜恭敬して、大悲難思[やぶちゃん注:「だいひなんじ」。大いなる無限の大日如来の慈悲が人間には論理的には理解出来ない不可思議なるものであることを言う。]の應用、末世の奇瑞、心肝に徹して、ふかく渴仰の思をなせり。不思議なるかな。如來は隨處應度[やぶちゃん注:仏が人の心や性格や素質などの違いを超えてそれぞれに応じて説法・教化を施す意。「隨類應同」が一般的。]の悲願に酬いて、難化利益[やぶちゃん注:「なんけりやく」。「け」「やく」はともに呉音。困難な、衆生を教えて善い方向に教化することを、仏があざやかに成就して与えること。]の機關を上人及び勘解由[やぶちゃん注:佐久間主人を指すのであろうが、不審。これは江戸時代は勘定方の異称であるからである。後に附された文を参照。]に見あらはされてや。咫尺の間[やぶちゃん注:「しせき」。ごく近くで。]、竹女が容、消然として[やぶちゃん注:ふっと消えてしまって。]、去るところをしらず。人々、驚愕し、悲慕搜索すれども、跡を認むべきなし。常に起臥せし小房をひらき見れば、只、靈香、馥郁[やぶちゃん注:「ふくいく」。]と薰じ、光明、まさに、眼裏にあるごときのみ。宜哉[やぶちゃん注:「よろしきかな」。]。擧家[やぶちゃん注:「きよか」「いへをあげて」。]、只、聚頭傷々とし[やぶちゃん注:皆々、悲しみ。]、如來お竹、年ごろ、馴親し[やぶちゃん注:「じゆんしんし」と音読みしているか。「なれしたしみ」。]、離情の切なるに、叫び、佛陀善巧の恩德に、なくのみなり。此に於て、勘解由、若干の負財を擲ち、ありし面貌を尊像に彫刻し、羽州湯、月、羽黑三山靈場の麓に奉納し、永く靈像の檀那となり、黃金堂に安置し奉る所なり。星霜いまだ遠からず。此こと、人口に膾炙して、世人、おのづから「お竹大日如來」と稱しならはせり。【下略。】
出羽國羽黑山麓別當 玄良坊
世にありとある神社・佛利[やぶちゃん注:「佛舍利」のことか。]の緣起といふものに、妄誕ならざるは、いと稀なり。此に載する緣起を、かゝるを、實にありと思ひて、疑はざるものあらんは、愚に近し、とこそいはめ。されど、あながちに無しとせんも、又、誣ゆる[やぶちゃん注:「しゆる」ハ行上二段活用の「しふ」が室町頃に転じたもの。事実を曲げて言う。作りごとを言う。欺く。]に似たり。こゝに於て、今、この緣起を左に辯ぜん。
文祿年中の比、武江佐久間何某召ふ[やぶちゃん注:「めしつかふ」。]ところの婢女に「竹」といふあり。
「玉滴隱見」に云、『江戶大傳馬町の名主の佐久間善八といひける者の召仕なる「竹」と云ひける下女、去年三月廿一日に死したり。此「竹」こと、主の善八は問屋にて有りければ、大勢の者の食餌にかゝづらひけれども、聊も穀三寶を麁抹にせずして非人を憐み、其雜火[やぶちゃん注:「ざふくわ」で余り物の謂いか。]の餘を以て、牛馬を飼ひ抔して、一生を送りしが、死して其儘、羽州湯殿山麓に金色[やぶちゃん注:「こんじき」。]の光り、一度の内にあらはして、「竹」は中尊裟婆[やぶちゃん注:「そは」でここでは大日如来のこと。胎蔵界大日如来に祈る際の真言は「阿毘羅吽欠裟婆呵」(あびうんけんそわか)であり、「阿毘羅吽欠」は「宇宙一切の生成要素たる地・水・火・風・空」を表わして大日如来の内証を表わす。但し、「裟婆呵」自体は呪言の結句に過ぎず、広義の「成就吉祥」の意である。]にて、主なりし佐久間夫婦は兩脇立と成りて今に有りと云々。此こと、彼御山の佐藤宮内と云ふ神人[やぶちゃん注:「じにん」。下級の神官。]語ㇾ之。また、淺草新寺町獅子吼山善德寺に、如意輪觀音の石塔あり。性岸妙智信女、延寶八庚申[やぶちゃん注:一六八七年。]天五月十九日と彫刻したり。是、「お竹が墓なり」と云ふ。此二條を倂せ案ずるに、「玉滴隱見」、何れの年、誰の撰と云ふこと詳ならねど、その書を閱するに、寬文ごろ[やぶちゃん注:一六六一年~一六七三年。]の事、いと多く見えたれば、そのころのものと、しらる。扨、墓碑の延寶とあるに合へり。されど、その月日の違へるを思ふに、墓碑の正しきは論ずべくもあらず、書に記したるは、遠く出羽の人の傳聞なれば、もとより聊の違ひは、あるべきことなり。されば元祿[やぶちゃん注:一六八八年~一七〇四年。]としもいはんは、さることなれども、文祿とするは、いと謬なり。再びおもふに、かゝること、いと近き世のことは、憚りなきにあらず。その比、忌むところありて、しか記したるも、しるべからざれば、强ひて咎むべきにあらずかし。【此墓碑の事、「溫故名蹟志」・「淺草志」等には漏らしたりき。】
湯殿嶺上、戒行堅固の聖あり。正身の大日如來を拜せんことを願ひ云々。
此一條は、書寫上人の、生身の普賢を見奉るべきよしを祈請し給ひ、夢の告ありて、神崎の遊女を尋ね給ひし事【詳見二古事談僧行篇一。[やぶちゃん注:詳らかには、「古事談」の「僧行篇」を見よ。]】を附會したるものと思はる【「書寫上人」とのみにては詳ならず。「書寫山の性空」とあるべし。こは童蒙にいふのみ。】[やぶちゃん注:頭書。]
[やぶちゃん注:ウィキの「於竹大日如来」によれば、於竹大日如来(元和九(一六二三)年~延宝八(一六八〇)年)は『江戸時代の女性。名を竹(以降「お竹」)といい』、『周囲からは大日如来の化身とされ、尊崇を集めた』。現在の東京都北区赤羽西にある浄土宗獅子吼山専稱院善徳寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)『境内にある墓石の脇には、高さ』五十センチメートル『ほどの石碑があり、以下の文言が刻まれている』。
お竹大日如來尊影
延宝八年五月十九日 上天せらる
『ただし、お竹の生没に関しては異説が存在する』。『お竹は現在の山形県庄内地方に生まれ』寛永一七(一六四〇)年、十八歳の『ときに郷里を離れ』、『江戸大伝馬町一丁目に居を構えていた伝馬役で名主の佐久間家に奉公に出た』。『お竹は、佐久間家が廃絶して役を返上するに伴い』、『佐久間家と姻戚関係にあり、同じく伝馬役年寄を務めていた大伝馬町二丁目の名主の馬込家に、他の奉公人とともに移ったものと推測されるが、小津清左衛門長弘(後述)が佐久間家から独立開業したのは』、承応二(一六五三)年と、お竹が三十歳に『なった』時『より』も『後のことである』。歴史学者『幸田成友によると、佐久間家と馬込家の姻戚関係は』『馬込家』三『代目当主の喜與(大給松平家よりの婿養子)が、妻・香の死去』(慶安四(一六五一)年)『後に、佐久間善八の娘を後妻に迎えたことに始まる』。「於竹大日如来井戸跡」の碑文によれば』、『「その行いは何事にも誠実親切で、一粒の米、一きれの野菜も決して粗末にせず貧困者に施した。そのため』、『於竹さんのいる勝手元からは』、『いつも後光がさしていたという。出羽の国の行者乗蓮と玄良坊が馬込家をおとづれ』、『「於竹さんは羽黒山のおつげによると大日如来の化身である」とつげた。主人は驚き』、『勝手仕事をやめさせ、持仏堂を造り、その後』、『念仏三昧の道に入る。これが江戸市中に拡がり、於竹さんを拝まうと来る人数知れずと言う」、暮らしぶりであった』。先立つ寛永二〇(一六四三)年三月、『後の小津清左衛門長弘は、佐久間家に奉公に出る』。『このとき、長弘は』十九歳、お竹は二十一歳であった。『現在の小津商店の礎を築いた創業者の長弘とお竹は、同じ佐久間家の奉公人として』十『年ほどの時を過ごしている』。承応二(一六五三)年、『小津長弘は佐久間家に隣接する紙商・井上仁左衛門の商売を受け継ぎ』、二十九『歳にして独立開業してほどなく多額の借財も返済し、現在の小津商店の礎を築いた』。『小津長弘は、佐久間家に奉公する以前に一度、呉服商での奉公のため江戸に出ているが、三年後に一旦帰郷しており、翌年には、佐久間家での奉公に出ている。長弘にとって、お竹との交流が如何なるものであったか、想像の域を出ないものの、何かしら特別な想いがあったとしても、不思議ではなかろう』。『お竹は』延宝八年五月十九日(一六八〇年六月十五日)に『逝去した』。『お竹の死後、小津家では、関東大震災で焼失するまで、高さ約』三『尺の於竹大日如来の木像を祀り、毎月』十九『日を命日として同像を開帳していた』とある』。現在は港区東麻布にある浄土宗心光院の『寺伝によると、江戸幕府』五『代将軍・徳川綱吉の生母である桂昌院は、増上寺内の心光院に堂宇を創らせ、お竹大日如来像と、お竹が使用したという流し板を寄進・奉納した。しかし、心光院は』昭和二〇(一九四五)年の戦災によって、『山門と本尊頭部を残して』、『すべてが焼失した。現在の『お竹堂』ほかは、戦後に再建されたものである』とある。なお、サイト「猫の足あと」の心光院の解説の中で、「麻布區史」を引いて、『當寺には節婦竹女(お竹大日如來)の遺物が藏されてゐる』とある。次の附録を参照。
「玉滴隱見」作者不詳。天正(一五七三年~一五九二年)の頃から延宝八(一六八〇)年に至るまでの種々の雑説を年代順に記したもの。 斎藤道三が土岐家を逐う出世話・「本能寺の変」・「関ヶ原の戦い」・「大坂の陣」・「島原の乱」・「慶安事件」・「伊達騒動」・密貿易事件、武将の逸話・幕臣や大名に係わる風聞、江戸を中心とした世上の事件・落書・落首までも収めている。]
○勘解由に見あらはされ
佐久間氏は勘解由にあらず。「玉滴隱見」に、善八と見えたり。
[やぶちゃん注:以下の段落は底本では全体が一字下げ。]
「事跡合考」を案ずるに、佐久間平八といふものは元祿後、斷絕とぞ。『菩提所增上寺中心光院佐久間下女の「ながし板」あり』と見ゆ。佐久間氏の名、孰れか是なるを、しらず。けだし「合考」の方、實に近からん。
しかはあれど、「勘解由」と記したるは、「新著聞集」に、『佐久間勘解由』と誤りしによりしものなるべし。
竹女が容消然として去るところをしらず。
是また、妄誕なること、辯をまたずしてしるものから、佛家にはかゝる奇瑞をいふこと、常なり。愚俗は、あざむくべし[やぶちゃん注:ママ。受身の誤りであろう。]。敢て識者を誣ゆべけんや。已にしるしたるがごとく、今、墓碑、現に存せり。且、「玉滴隱見」に、死をしるし、「新著聞集」に、『精進にして大往生をとげし』と見えたるを、倂せおもふべし。
勘解由、若干の貲財を抛ち、ありし面貌を尊像に彫刻し、羽州湯、月、羽黑三山雲場の麓に奉納し、
「玉滴隱見」に、湯殿山麓に金色の光を顯したるよし、見え、「新著聞集」に、『近所のもの、湯殿山に詣うで竹にあひたりといへるを謬り傳へしものならんか。』。於竹がこと、右二書より外に、詳に、且、誕[やぶちゃん注:底本の吉川弘文館随筆大成版は、この字の右に編者によるママ注記を打っている。]ずべきものなし。されば、これをおきて、もとづくべきなく、その他は、みな、妄誕なること、論をまたず。
[やぶちゃん注:以下、最後まで底本では全体が一字下げ。]
此會、かねて、けふをしも、「おのれが宅に。」と約したるに、「上巳[やぶちゃん注:上巳(じやうし/じやうみ)は旧暦の五節句の一つ。三月三日。「桃の節句」。]のまへは、ことしげゝれば。」とて、「節過ぎて後こそ、よからめ。」と、かたりあひしに、思はずも、曲亭子に促され、著作堂に集ふことになりければ、『何をか、しるさん。』と枕をわるの思ひなりしが、過し比、小梅村の南無佛庵をとぶらひける道のほどにて、この「お竹」がことをかたり出でたるに、「來れる月の『兎園會』にものせよ。」とありけるを、思ひ出でゝ、そのよしを記して、小說の料に充つと云ふ。
文政八年乙酉春三月朔
[やぶちゃん注:「事跡合考」江戸中期の国学者柏崎具元(とももと ?~安永元(一七七二:本姓は北畠。名は要・具慶。永以などを号した。持明院基輔門人)が江戸開城の様子を述べた書。開幕の諸相を懐古の対象としながら、客観的な叙述に徹しており、大田南畝や山東京伝など、後々の考証家の間で広く読まれた。
「新著聞集」寛延二(一七四九)年刊の説話集。各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めている。 八冊十八篇三百七十七話。永く著者不詳とされてきたが、森銑三の指摘により、紀州藩士で学者の神谷(かみや)養勇軒が、藩主の命によって著したことが定説となっている。但し、厳密には俳諧師椋梨一雪の説話集「続著聞集」を再編集したもので、神谷は編者に過ぎないと考えられている。実際、他の説話集や怪奇談集からの丸ごと写しただけのものも有意に多い(私は怪奇談集で、先行する他者の作品に酷似した箇所を幾つも発見している。ここで挙げた当該条は、「往生篇 第十三」の以下(吉川弘文館随筆大成版を礼の仕儀で正字化した。一部に推定で歴史的仮名遣で読みを入れた)。
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○佐久間の竹黃金宮に生ず
江戸大傳馬町、佐久間勘解由召つかひの下女竹は、天性仁慈の志ふかくて、朝夕の飯、我分は乞丐人(こつがいにん)[やぶちゃん注:乞食。]にほどこし、その身は、あがり膳のくひ殘し、又は、流しの隅に網をあて置(おき)、そのたまりし物を食し、つねに、口にまかせて、稱名してけり。ある時、頓死せしに、身も溫(あたたか)なりしかば、「若(もし)やは。」と、人々、守り居たるに、遂に蘇生したり。「いかに。冥途の事は。」と問ば、「されば、いづくともなく廣野を往(ゆき)しに、黃金(わうごん)の宮殿あり。佛、ましまして、『これは、汝が來(きた)る臺(うてな)なり。』と、しめしたまへり。」となり。扨、そのゝち、念佛、いよいよ、精進にして、大往生をとげし。近所のもの、湯殿山に詣(まうで)て、竹に逢(あひ)たり。竹が曰(いはく)、「我は安養世界に住(すみ)侍りし。おのおのも、かならず、念佛したまへ。又、他をめぐむ心あらせよ。」と云(いひ)て、うせしとかや。竹、つねに網をあてし「流し」は、今、增上寺念佛堂心光院の門の天井に、かけ有りけり。
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この話では「念佛」と言っており、心光院は浄土宗であるから、そこで唱え、彼女を救ったのも、大日如来ではなく、阿弥陀如来ということになる。
「小梅村」「今昔マップ」で調べたところ、現在の東京スカイツリー周辺であることが判った。
「南無佛庵」書家中村仏庵(宝暦元(一七五一)年~天保五(一八三四)年)。名は蓮・連。「南無佛庵」は号。身分は町人であったが、旗本格の待遇を受け、昌平坂学問所で学んだ。書に堪能で、特に梵字に才能を発揮し、仏教学の見識が広いことで知られていた。当代一流の文人たちとも交流があった。著書もある。]
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