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2021/08/21

芥川龍之介書簡抄127 / 大正一四(一九二四)年(八) 軽井沢より三通

 

大正一四(一九二四)年八月二十五日・軽井沢発信・東京市小石川區丸山町三十小石川アパアトメント 小穴隆一樣・二十五日 かるゐざはつるやうち 芥川龍之介

 

御手紙拜見仕り候。改造の廣告に君の名前出て居らず、不愉快に存候。それから高橋文子女史より來翰、(田端へ)その中に西田さんの手紙も同封しあり。西田さんの手紙には「眞に人物がまじめにて將來發展の天分がたしかならば、今の所少し苦しくとも面白いとも思ひますが」云々の語有之候。いづれ歸京後は君も小生と共に得能さんに會ふ事と相成る可く、その段御覺悟ありて然る可く候。輕井澤はすでに人稀に、秋凉の氣動き旅情を催さしむる事多く候。室生も今日歸る筈、片山女史も二三日中に歸る筈。二三日前、室生と碓氷峠へ上り候所、室生、妙義山を眺めて感歎して曰、「あの山はシヤウガのやうだね。」小生も九月の始めにかへる筈、その頃七十五円を利用し、ちよつと一度御來遊ありては如何(七十五円とはケチ也 百圓くれるかと思つてゐた)但し前にて申上げ候如く既に避暑地情調は無之ものと御覺悟なさるべく候 頓首

    八月二十五日     龍 之 介

   隆 一 樣

 

[やぶちゃん注:冒頭部は、芥川龍之介と小穴隆一の二人句集(各五十句で計百句)の「鄰の笛」の予告広告(公開は大正一四(一九二五)年九月一日発行の雑誌『改造』)への不快感の表明である。同句集は新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、前月の七月二十七日に編集を開始し、八月十二日頃に編集を終えたとある。恐らく脱稿も、その直後であろう。なお、当該の合同句集については、ブログで『鄰の笛 (芥川龍之介・小穴隆一二人句集推定復元版)』として公開してある。芥川龍之介はその後、八月二十日夕刻に軽井沢へ発ち、翌二十一日に到着し、前年に避暑したのと同じ鶴屋旅館に、翌九月七日まで滞在した。おかしいとは思わないか? 書面を見ても判る通り、軽井沢は秋の様相を呈しており、避暑するには遅過ぎ、十日もしない間に、友人の室生犀星も、片山廣子・總子母娘も帰京してしまっている(室生は八月二十五日に帰っているから五日だけ、片山母娘は推定で八月二十七日か二十八日の帰京(採用しなかった後の九月一日の軽井沢からの芥川龍之介の室生犀星宛書簡に『片山さんも二十七日か八日にかへつた』とあるのである。これ、帰った日を覚えていないのではなく、犀星に自分の内心が焦がれる如くに穏やかでないことを悟られないためのポーズと言えるのではなかろうか?)で八日ほど一緒だっただけである。これは実は、強い恋情を持ち続けている片山廣子との接触を、龍之介が意図的に避けるための苦渋の決断であったのである。それほど、龍之介の廣子への愁心は、自分で抑制しなくてはならぬほどに、反対に燃え上がっていたのである。

 なお、私はサイトの「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」でも「■書簡13 旧全集一三五八書簡 大正14(1925)年8月25日」として本書簡を電子化注している。そちらも見られたい。そこにも書いたが、この八月二十六日から二十七日の間で(新全集年譜に推定)、龍之介は堀辰雄と片山廣子・總子と追分にドライヴに行っており(運転は恐らく鶴屋主人佐藤不二男)、後に堀辰雄はこの時の経験を、多分、ほぼそっくり、「ルウベンスの僞𤲿」(昭和二(一九二七)年二月号『山繭』初出)に利用している。リンク先に該当箇所を引用してあるので読まれたい。

 そうして、一般の研究者の資料では、これが最後の軽井沢となった、とされるのである。

――しかし、私は実はその後

――自死の年の五月二十四日或いは二十五日から五月二十七日或いは二十八日の三日間若しくは五日間

――芥川龍之介は軽井沢にいた

と考えている。そうして

――彼は片山廣子と逢っていた

と思っているのである。それを元に、私は『片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』を書いてサイトで公開している。是非、読まれたい。

 また、芥川龍之介には、この書信を書いた前日八月二十四日(この日に萩原朔太郎が妹のユキとアイを連れて室生犀星を訪ねて来たので、堀辰雄も交えて談話しており、このメモはその直後に書かれたものと推察される)の日録メモが実は存在する。私のサイト版の「芥川龍之介輕井澤日録二種」の「大正14(1925)年8月24日(月)芥川龍之介輕井澤日録〔やぶちゃん仮題〕」を見られたい。但し、これは、岩波版旧全集第十二巻の「雜纂」パートに「〔輕井澤日記〕」という編者の仮題のもとに納められているもので、その後記によると、元版全集では「手帳十二」として納められていたものを、公開を意図したものではない私的日録類として独立させたものである。人物は謎めいて殆んどがイニシャルにしてあるが、一人を除いて完全に実在する人名に還元出来る(その私が作成したリストも載せてある)。そこで「K」とあるのが、片山廣子である。

「高橋文子」筑摩全集類聚版脚注にも、更には、新全集の「人名解説索引」にも載らないが、新全集の翌大正十五年四月一日の条に、『西田外彦』(哲学者西田幾多郎の息子)夫妻と『高橋民子が来訪する。昨年から続いていた小穴隆一と高橋文子(幾多郎の姪)の縁談の件と思われるが、話がうまく進まずに苦慮する』とあるので、判明。正確には、高橋ふみ(明治三四(一九〇一)年~昭和二〇(一九四五)年)である。西田幾多郎記念哲学館の企画展「未完の女性哲学者―西田幾多郎の姪、高橋ふみ―」(PDF・写真有り)によれば、現在の石川県かほく市木津出身で、『母は哲学者・西田幾多郎の妹(すみ)。石川県立第一高等女学校、東京女子大学哲学科を卒業後、東北帝国大学法文学科へ入学。石川県女性として初の学士となります。宮城県立女子師範学校、自由学園などで教師を務めたのち、ドイツへ留学。ベルリン大学在学時には時事通信特派員としてベルリン』・『オリンピックの取材も行いました。フライブルク大学ではハイデッガーの演習に参加。伯父・西田幾多郎の哲学論文を独訳するなどしますが、戦争と病のため』、『帰国。ふるさとで療養し』、『幾多郎の死の直後に』四十三『才の若さで亡くなりました』とある。

「西田さん」西田幾多郎(明治三(一八七〇)年~昭和二〇(一九四五)年)。

「得能さん」哲学者得能文(とくのう ぶん 慶応二(一八六六)年~昭和二〇(一九四五)年)。越中国生まれ。明治二五(一八九二)年、東京大学文科大学哲学科選科修了。第四高等学校(金沢大学の前身)・東洋大学・日本大学・東京帝国大学講師・東京高等師範学校教授を歴任した。四高嘱託教師時代に西田幾多郎の同僚で、学内の内紛で一緒に解雇されていることが、同じく西田幾多郎記念哲学館の企画展「西田幾多郎の就活」(PDF・解雇された際の送別会の二人の写真が有る)を見られたい。

『二三日前、室生と碓氷峠へ上り候所、室生、妙義山を眺めて感歎して曰、「あの山はシヤウガのやうだね。」』新全集年譜では八月二十三日頃と推定している。

「七十五円」『改造』の「鄰の笛」の小穴隆一分の稿料。]

 

 

大正一四(一九二四)年八月二十九日・輕井澤発信・塚本八洲宛

 

その後體は日にまし好い事と思ひます。こちらもお客はもう大抵かへり、宿もがらんとしてしまひました。餘り颱風が來たり何かする故、わたしも碓氷あたりで生埋めにならぬうちに歸ることにしようかと思つてゐます。二三日前文子より手紙參り、オバルチンを送つて頂いた事を知りました。どうも難有う。文子の手紙に曰「自分が病氣にかかつてゐる爲でせう私の事まで氣を揉むで居ると見えます。何となくやしまがかわい(=ノ「ワ」ノ字原文ドホリ)さうになつてしまひました。」文子の爲にも勉强して早く丈夫におなりなさい。目下同宿中の醫學博士が一人ゐますが、この人も胸を惡くしてゐたさうです。勿論いまはぴんぴんしてゐます。この人、こい間「馬をさへながむる雪のあしたかな」と云ふ芭蕉の句碑を見て(この句碑は輕井澤の宿(シユク)はづれに立つてゐます)「馬をさへ」とは「馬を抑へることですか?」と言つてゐました。氣樂ですね。しかし中々品の好い紳士です。それからここに別莊を持つてゐる人に赤坂邊の齒醫者がゐます。この人も惡人ではありませんが、精力過剰らしい顏をした、ブルドツグに近い豪傑です。これが大の輕井澤通(ツウ)で、頻りに僕に秋までゐて月を見て行けと勸誘します。その揚句に曰、「どうでせう、芥川さん、山の月は陰氣で海の月は陽氣ぢやないでせうか?」僕曰、「さあ、陰氣な山の月は陰氣で陽氣な山の月は陽氣でせう。」齒醫者曰「海もさうですか?」僕曰「さう思ひますがね。」かう言ふ話ばかりしてゐれば長生をする事は受合ひです。この人の堂々たる體格はその賜物かも知れません。僕はこの間この人に「あなたは煙草をやめて何をしても到底肥られる體ぢやありませんな。まあ精々お吸ひなさい」とつまらん煽動を受けました。けふは幸ひ晴天です。しかし雨がふると、セルに袷羽織を重ねなければなりません。桔梗が咲きつくつく法師がなき、あたりの風光はもう殆ど秋です。九月にはひればわたしの外に滯在客は一人もゐなくなるかも知れません。右いろいろ暇つぶしまでに。

               芥川龍之介

   八 洲 樣

 

[やぶちゃん注:既に述べた通り、妻文の弟は結核を患っており、この年の五月と六月には芥川龍之介が彼を転地療養させようと、転地先を自ら探して出向いて調べたりしていた。

「オバルチン」Ovaltine。当該ウィキ(日本版の他、英語版も参照した)によれば、スイスの製薬会社ノバルティス(Novartis International AG)の関連会社ワンダー・アーゲー(Wander AG)が開発・製造する粉末麦芽飲料のブランド。現在、Ovaltineの商標権はイギリスにある多国籍企業アソシエイテッド・ブリティッシュ・フーズ(Associated British Foods plc)が所有している。スイスの化学者で薬剤師のアルベルト・ワンダー博士(Albert Wander 一八六七年~一九五〇年:これはドイツ語版の本人のページを参照した)が配合を考え、一九〇四年に「オボマルチン(Ovomaltine)」の商標で発売された。ラテン語で卵を意味する「Ovum」と英語で麦芽を意味する「malt」を入れ込んだ造語で、元々の主要成分を表わしている。スイス・フランス・ポルトガルなど、国によっては現在も「オボマルチン」の商標が使われているが、成分は麦芽・ココア・砂糖などに変わっている。調整ココアとは異なり、冷たい牛乳にも溶けやすい工夫がされている。一九〇九年にイギリスで製造発売するに当たって、英語として言いやすい「オバルチン」の商標が使われた。アメリカ合衆国では一九一五年に製造が始まり、本邦では昭和一一(一九三六)年頃の雑誌に広告が掲載されており(この部分は不審)、また、カルピス食品工業(現在のカルピス)が販売権を取得し、一九七〇年代から一九八〇年代に販売したが、現在、日本では、一部輸入品を除いて、販売されていない、とある。

「馬をさへながむる雪のあしたかな」松尾芭蕉の最初の紀行文「野ざらし紀行」(「甲子吟行」とも呼ぶ。貞享元(一六八四)年八月、門人苗村千里を伴って、深川の芭蕉庵を出立し、東海道を上って伊勢・伊賀・大和を経て、以後は単独で吉野へ行き、九月下旬に美濃大垣から桑名・熱田・名古屋を経て後、伊賀上野に帰郷して越年し、翌春の大和路を辿って京へ出、近江路から江戸への帰るという凡そ八ヶ月に亙る紀行を題材とした句文集。刊本は元禄一一(一六九八)年の芭蕉撰・風国編「泊船集」に所収されたが最初。掲句は、名句「狂句木枯の身は竹齋に似たる哉」に始まる「名護屋に入(いる)道の程(ほど)、風吟ス。」という前書の四句目に、

   *

  旅人をみる

馬(うま)をさへながむる雪の朝(あした)哉

   *

と出るのが初出。熱田での吟である(熱田の閑水邸で熱田連衆とともに巻かれた四吟歌仙の発句)。屋内から街道筋を眺めた体(てい)で、雪中を馬に乗って行き過ぎる旅人の旅愁から、眼目は小さくなってゆく馬の姿へと凝集し、自らが孤独で苦しい馬となっている。名句である。この医学博士は語るに落ちた大阿呆である。病気の八洲を慮って悪口を言っていないが、龍之介はこの医者を心底、軽蔑し、甚だ不快に感じていた。その証拠を示そう。芥川龍之介の例の片山廣子への恋歌「越びと 旋頭歌二十五首」の「二」にある、

   *

腹立たし身と語れる醫者の笑顏(ゑがほ)は。

馬じもの嘶(いば)ひわらへる醫者の齒ぐきは。

   *

の「醫者」がこいつなのだ。こいつが、鶴屋旅館で廣子と一緒にいるところに割り込んでくるのを、龍之介は激しく憎んでいたのだ。私の記事『無知も甚だしいエッセイ池内紀「作家の生きかた」への義憤が芥川龍之介の真理を導くというパラドクス』がよかろう(あの池内のトンデモ誤謬本はまだ売られているらしいなあ。げっそりだぜぃ!)

 

 

大正一四(一九二四)年八月三十一日・軽井澤発信・芥川比呂志宛(絵葉書)

 

コレハアタゴヤマトイフ山デス。アタゴヤマニハセイヤウジンノベツサウガタクサンアリマス。ソレカラ多加志ニヤツタノハウスヒタウゲノトンネルデス。イマハキクワンシヤハツカズ、デンキキクワンシヤガキシヤヲヒイテヰマス

 

[やぶちゃん注:「多加志ニヤツタノ」私が所持している二〇〇九年二玄社刊の日本近代文学館・石割透編「芥川龍之介の書画」には、それが表裏ともに写真版で載っている(岩波旧全集に所収いないのは、そもそも書信がないからである)。それは、表書は、上面に(印刷で上部に右から左で「郵便はがき」、「壹錢五厘」切手(消印同月同日)の下に左上を上にして小振りで「UNION POSTALE UNIVERSELLE」、その下に有意に大きく、「CARTE POSTLE」(洒落てるね、フランス語だぞ)と印刷してあるある。

東京市外

田端四三五

 芥川夛加志樣

とあるだけで、下方の罫線下の書信パートは空白である。

Usuibasi

裏は写真絵葉書で、右上の空の部分に右から左で「碓氷トンネル碓氷橋」とあり、その直下に「The Usui Tanal Usuibashi.」と印刷されてあり、下方からのアオリの写真で、トンネル入り口の一部が左の方に見え、三連アーチの大きな橋が架かっている。その橋上に、芥川龍之介が、トンネルから出てきた蒸気機関車が煙を靡かせて客車を四両引いている絵を描き添えているのである(但し、比呂志宛にある通り、当該路線は既に電化されていた)。微笑ましい仕儀であるが、しかし、多加志は大正九(一九二〇)年十一月八日生まれであるから、もう満四歳と九ヶ月であったから、「何か書いてやればいいのに」とも思わぬでもない。ところで、私が現物画像に当たって正確に示した以上の裏(碓氷トンネル碓氷橋の写真)の写真が、岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)に画素が甚だ粗いが、掲載されていることに気づいた。こちらには、五月蠅い複写禁止の注意書きはない。というより、何度も言っている通り、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解であるので、せめても、龍之介が多加志のために描き添えた機関車のタッチだけでも味わって戴こうと、上に掲げておいた。]

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