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2021/08/29

芥川龍之介書簡抄131 / 大正一五・昭和元(一九二六)年三月(全) 二通

 

大正一五(一九二六)年三月五日・田端発信・室賀文武宛

 

冠省。聖書けふ頂きました。難有く存じます。今山上の垂訓の所を讓みました。何度も今までに讀んだ所ですが、今までに氣づかなかつた意味を感じました。右とりあへず御禮まで。

    三月五日       芥川龍之介

   室 賀 文 武 樣

 

[やぶちゃん注:底本の旧全集には、この二通しかない(新全集には最低でも四通あるようである)。新全集の宮坂覺氏の年譜に、この二日前の三月三日の条に、『古本屋で祈禱書を買い求め、感心しながら読む。室賀文武が来訪し』たので、『知人に貸して手元にないので聖書を送ってもらえるよう』室賀に『依頼した』とある。

「室賀文武」(むろがふみたけ 明治元或いは二(一八六九)年~昭和二四(一九四九)年)は、芥川龍之介の幼少期からの年上(二十三歳以上)の知人。後に俳人として号を春城と称した。山口県生まれ。芥川の実父敏三を頼って政治家になることを夢見て上京、彼の牧場耕牧舎で搾乳や配達をして働き、芥川龍之介が三歳になる頃まで子守りなどをして親しんだ。しかし、明治二八(一八九五)年頃には現実の政界の腐敗に失望、耕牧舎を辞去して行商の生活などをしつつ、世俗への夢を捨て去り、内村鑑三に出逢って師事し、無教会系のキリスト教に入信した。生涯独身で、信仰生活を続けた。一高時代の芥川と再会して後、俳句やキリスト教のよき話し相手となった。芥川龍之介は自死の直前にも彼と逢っている。俳句は三十代から始めたもので、彼の句集「春城句集」(大正一〇(一九二一)年十一月十三日警醒社書店刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇が読める)に芥川龍之介は序(クレジットは先立つ四年も前の大正六年十月二十一日であるが、これは室賀が出版社と揉めたためである。なお、その「序」でも芥川龍之介は彼の職業を『行商』と記している)も書いている。晩年の鬼気迫る「歯車」の(リンク先は私の古い電子テクスト注)「五 赤光」に出る「或老人」は彼がモデルであり、晩年の芥川にはキリスト教への入信を強く勧めていた。新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、翌年の自死の年の一月には、芥川龍之介は執筆用に帝国ホテルに部屋を借りてそちらに泊まるこことがあったが、その折りには、『しばしば歩いて銀座の米国聖書協会に住み込んでいた室賀文武を訪ね、キリスト教や俳句などについて、長時間熱心に議論した』とある。私は不思議なことに、この時、室賀を訪ねた龍之介のシークエンスを、実際に見たことがある錯覚を持っている。

「山上の垂訓」「マタイによる福音書」の第五章三節から第七章二十七節までに記されているイエスの説教。「山」に登り、そこから語りかけるという設定であるため、この名称が生まれた。「ルカによる福音書」第六章十七~四十九節にも、これとよく似たイエスの説教があるが、語られた場所は「平地」となっている(二つの福音書に見られるこのような変化は、おのおのの福音書記者が共通の資料を用いながら、自らの考えに基づいて編集を行ったことを示すものである)。「山上の垂訓」は、「平地の垂訓」よりも遙かに長く、「マタイによる福音書」全体の構成に於いても重要な位置を占め、説教の内容は、「地の塩・世の光」「主の祈り」「空の鳥・野の花」「豚に真珠」「求めよ、さらば与えられん」「狭き門」など、一般によく知られた主題や句を含んでおり、、後代の文化の諸領域に大きな影響を与えてきた。そこではユダヤ教の倫理が批判されているが、最終的には、それは決して廃棄されるのではなく、寧ろ、徹底化されている。イエスの意図は、人間が道徳的理想を達成し得るかのように考える楽観主義を超越し、神の要求の徹底的性格を明らかにすることにあった。ここまでは小学館「日本大百科全書」の解説に基づくが、以下、「ブリタニカ国際大百科事典」を部分引用すると、この「山上の垂訓」は、まさに『イエスの説教の集』大『成』というべきもので、『旧約聖書の律法や預言を廃するためではなく』、『成就するために来たものとしてイエスが説いた中心テーマは』、『神の国の義についてであった。ここでイエスはまず』、『祝福の辞を与え』、『次いで「地の塩」「世の光」としての弟子の道を説き』、『彼らの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるべきであるとして』、『旧約聖書の』六『つの戒めに再解釈を施し』、『それを徹底化し』、『真の義』、『真の敬虔について教えている』。衣・食・財・『健康などについての一切の人間的な思いわずらいを捨て』、『「まず神の国と神の義とを求めなさい」とすすめるイエスの言葉は』、『「狭い門からはいれ」との言葉どおり』、『きわめて厳格な要求であった。この説教をイエスの福音との関係においてどう解釈するかは』、『キリスト教各派ないし時代によって相違があり』、『神学上の問題となっている』とある。マタイの方のWikisourceにある「明治元訳新約聖書」(大正四(一九一五年版文語訳)の第五章をリンクさせておく。]

 

 

大正一五(一九二六)年三月十一日・田端発信・杉本わか宛

 

拜啓、わざわざ御見舞を頂き難有く存じます。蔓性[やぶちゃん注:ママ。]の神經衰弱故徐ろに快復を待つ外はありません。別封の品は御返しまでに差上げます。お氣に入らぬかも知れませんがどうか御落手下さい。頓首

    三月十一日      芥川龍之介

   杉 本 わ か 樣

二伸 けふ午後永見君が來ることになつてゐます。逢つて又氣の毒な思をすることを考へるといやになります。

 

[やぶちゃん注:「杉本わか」名は「ワカ」のカナ書きが一般的。長崎の丸山遊廓の芸妓「照菊(てるきく)」の本名。大正一一(一九二二)年五月の長崎再訪の際、五月十八日に渡邊庫輔・蒲原春夫と丸山の待合「たつみ」で初めて呼んで出逢った。サイト「ナガジン!」の「コラム:長崎が舞台の小説を読んでみた」によれば(龍之介の河童図では最大の力作として知られる、この照菊に描き与えた河童銀屏風「水虎晩歸圖」と呼ばれている「萱草も咲いたばつてん別れかな」彼女への餞別句を添書(「萱草」は「くわんざう(かんぞう)」。現在は長崎歴史文化博物館所蔵。)の写真や彼女の写真も有り、必見要保存)、『芥川は、「堂々としていて立派」「東京に出て来ても恥ずかしくない女」と照菊のことを大変気入り、滞在中の宴席にたびたび呼んでいます。照菊の願いに応じて、二枚折の銀屏風に河童の絵を描き与えました。照菊(本名 杉本ワカ)は芸妓の籍を抜いた後、昭和』八(一九三三)年に、『本古川町に「料亭菊本」を開業し、女将を務めました』とある。

「永見君」既注であるが再掲すると、長崎の名家の当主で実業家にして文化人(南蛮美術の収集・研究や写真史研究で知られる)であった永見徳太郎(明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)。芥川龍之介は二度の長崎行で非常に世話になっている。一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム記事によれば、永見は、この『大正一五年』に『上京し、戯曲集や南蛮研究書を出』したとあり、龍之介の「逢つて又氣の毒な思をすることを考へるといやになります」というのは、それらの出版を永見が龍之介に頼った可能性、龍之介は或いはそれらの原稿の内容をてんで評価していなかった可能性などが想起される。なお、鷺氏の解説には、永見は『戦後に没落し、自殺した』とある。

 この月の書簡が少ないのには、以前として体調が優れなかったことの他に、友人としても親しくしていた芥川家主治医下島勳の養女が急逝したことが挙げられる。宮坂年譜によれば、三月十六日午後一時十五分、『下島勲の養女行枝(当時小学校六年)が肺炎のため死去。前日までは小学校に通っていたが、帰宅後、四二度の発熱をして肺炎に罹り、徹夜の看病もかなわなかった。行枝を大変可愛がっていた芥川は、知らせを受けて驚愕』し、『下島家には、芥川をはじめ、やはり下島と交わりのある『室生犀星、久保万太郎らが駆けつけた』とあり、翌十八日の午後十二時に行われた行枝の『葬儀に、菊池寛、室生犀星、久保田万太郎らとともに参列する。列席者は百数十名に及んだ』とある。翌月四月九日の佐佐木茂索宛書簡に出るが、その頃に下島に頼まれて、龍之介は、行枝への追悼句として、

   *

   悼亡

 更けまさる火かげやこよひ雛の顏

   *

の一句をものしている。また、月末の三月二十九日には、文と也寸志を連れて鵠沼に静養(恐らくは老舗東屋旅館であろう)に出かけている(鵠沼には当時、塚本八州の療養のために、塚本一家が移住して住んでいた)が、三十一日には龍之介自身の体調がよろしくなくなったために、急遽、『夜、鵠沼から田端の自宅に戻』っている。]

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