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2021/08/26

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (13) 「摸稜案」に書かれた女性の犯罪心理 一

 

      「摸稜案」に書かれた女性の犯罪心理

 

         

 摸稜案の中には、三つの中篇小說があつて、そのうちの一つは、前囘に紹介した『縣井司三郞』の事件であるが、その他の二つは、いづれも女性の犯罪心理をうかゞふに足る物語であるから、左にその梗槪を紹介して、併せて作者馬琴の女性觀に就て述べて見たいと思ふ。[やぶちゃん注:底本では、次の段落は頭が二字下げになっており、以下、長い梗概部分全体が全部一字下げになっている。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本原本はここから。読みはそれに概ね従った。「池子」は現在は「いけご」であるが、原本に従った(現在は池子は逗子市であるが、鎌倉時代は御府内であった)。「しちりのはま」「はまぐりのかひ」等も同じである。]

 先づ『牽牛星(ひこぼし)茂曾七《もそしち》殺害事件』から始める。相模國鎌倉郡池子《いけこ》村に、牽牛星茂曾といふ農夫があつた。牽牛星といふのは綽名であるが、何故さういふ綽名をつけられたかといふに、家に牡と牝の上疋の牛を飼つて居たのと、妻り專女(おさめ)[やぶちゃん注:原本では「をさめ」。歴史的仮名遣では「を」が正しい。]が、年若い美人で機をよく織つたので、里人にねたまれたがためである。さほど富んでは居ないけれど、少しばかりの田畑があつて、近頃までは弟の曾茂八《そもはち》が同居して居たが、嫂のことで、兄と仲が惡くなり、腰越村の式四郞《しきしらう》といふ知己の家に身を寄せることゝなつた。

 妻の專女は、やはり近村の生れてあつたが、僅かの間に四人ほど亭主を持つて死に別れたので、その村では誰も彼女を貰ふものがなかつたのに、茂曾七は色ごのみの男であつたから、一目見て彼女を戀し、十五六も年下の女を妻として呼び迎へたのである。これを見た弟の曾茂八は至つて正直な性質てあつたから、世間で爪はじきされて居る女を貰ふことに極力反對したのであるが、兄は弟の諫言に耳を傾けずして專女を娶り、結婚後間もなく彼は、妻の讒言によつて、弟の曾茂八を體よく追ひ出したのである。

 曾茂八が身を寄せた式四郞は小動《こゆるぎ》[やぶちゃん注:腰越の七里ヶ浜と腰越漁港の間にある岬が「小動の鼻」であるのに掛けた名前。]といふ一人娘と暮して居たが、老年にもなつたことではあるし、曾茂八が實直に働くのを見て、聟にしたいと思ひ、その旨を曾茂八に告げると、喜んて承諾をしたので、一家はその後圓滿な日送りをすることが出來た。

 一方、池子村の茂曾七は前に述べたごとく年來、二疋の牛を持つ居て、そのうちの一つは黃牛(あめうし)で牡、今一つは靑牛(さめうし)[やぶちゃん注:「白毛の牛」或いは「両眼の縁の白い牛」或いは「虹彩の白い牛」を指す。]で牝だつたから、黃牛を弟に牽かせ、自分は靑牛を牽いて、田を耕やし、時には江の島詣での旅客を乘せて、駄賃を取つて居たが、弟曾茂八が居なくなつたので、黃牛を賣るのも惜しく、村はづれに字平《あざへい》といふ二十八歲の獨身の男があつたのを幸ひに、專女と相談して、雇ひ入れることにしたのである。字平は牛を牽くことが極めて上手で、頗る忠實に働いたので、大に主人夫婦の氣に入つた。

 さて、その年も暮れて春も彌生の末となつたある日、曾茂七は、靑牛を牽いて七里濱《しちりのはま》に赴き、江の島詣での客を乘せようと思つて、朝から晚まて海濱を徘徊したが、生憎その日は一人の客をも乘せ得なかつたので、非常に落膽して步いて來ると、忽ちうしろから『その牛に乘らう』と呼ぶ者があつた。茂曾七が振ろ向くと、それは若宮巷路《わかみやこうぢ》の賣卜者《うらやさん》『貝《かひ》の翁《おきな》』と呼ばれる人で、もとは鶴岡若宮の禰宜をして居たが、年老いたので賣卜を事とし、春になると貝を拾つて來ては、都人の土產に資’り、今日も、貝拾ひに來て、あまりに多く取つたので、牛を雇はうとしたのである。

 茂曾七は喜んで翁を乘せ、やがて若宮巷路へ來ると、翁は錢を與へて、ふと茂曾七の顏を眺め、『其許のたすけで、澤山の貝をうちへ持つて來ることが出來たから、その御禮に一寸話して置かう。其許の顏色を見ると、遠からず橫死する相がある。だから今のうちにその禍を除かねばならない』と告げた。茂曾七は大に驚いて、『その禍を除くにはどうしたら宜しいでせうか』といふと、翁は『外に術はない、たゞ、さめを捨てたらよい。』

と答へたまゝ、疲勞のためにその場で寢入つてしまつた。

 茂曾七はなほよく事情をきゝたいと思つたが、翁は熟睡したので、そのまゝ歸路についた。これ迄翁の言ふことはよく適中するといふ評判元なので、『さめを捨よ』といふ言葉をいろいろ考へた結果、さめとはこの靑牛のことであろうと考へ、然し捨てるのも惜しいから、誰かに賣らうと決心して延明寺《えんみやうじ》[やぶちゃん注:こんな寺は昔も今も鎌倉には存在しない。若宮大路下馬四つ角近くの延命寺のズラしであろう。]の辻のところへ來ると、思ひがけなくも、久し振りに、弟の曾茂八に出逢つた。

 兄弟同士のことゝて、二人はたちまち、親密に話し合つたが、やがて弟は、家の牛が病死したので、今日戶塚の牛市へ出かけ力が、思はしいのがなかつたと告げた。これをきいた兄は大に喜んで理由あつてこの靑牛を賣りたいからこれ牽いて行かないかといふと、弟も非常に嬉しく思ひ、その價を問ふと、まあいゝから牽いて行き、序の時に錢を屆けてくれと言つて、その儘靑牛を渡してやつた。

 茂曾七は心にかゝる靑牛を弟に渡して、ホツとしながら家に歸り、事の一次第を專女と字平につげると、二人は口を揃へてあざ笑ひ、ことに、專女は、弟曾茂八に賣つたことを難じて、恐らく、牛の代金は吳れまいから、明日は取りかへしに行つて來なさい、と勸めた。然し茂曾七は易者の言が氣になるので、たとひ弟から代金を屆けなくても[やぶちゃん注:ママ。]、身の禍さへのがれゝばそれでよいと言つて肯《き》かず、黃牛一つになつたから、明日から字平には暇を出さうと言ひ出した。これをきいた專女は大に驚いて、字平を解雇することに極力反對したが、茂曾七は一旦言ひ出したからには後へ引かずニケ月分の給金を與へて、たうとう字平をかへしてしまつた。

 とろこが、專女の豫言が當つたのか、十日あまりを經ても、曾茂八の方から何のたよもなかつたので、ある日茂曾七は牛の代金を受取り、かたがた弟の家をたづねようと思ひ、この旨を妻に話し、酒一瓢《ひとひさご》と、乾魚《ほしうを》一籠とを黃牛の背につけて、午の貝吹く頃、わが家を立ち出でたのである。

 丁度その同じ日、貝の翁は、いつものやうに海濱に赴きあちらこちらを徘徊して居ると、はるか彼方の浪打ち際に溺死人が浮き沈みして居るので、驚いて駈け寄り、渚に引き揚げて、用意の定心丹《ぢやうしんたん》[やぶちゃん注:原本にあるが、不詳の漢方薬。]を口中に塗りつけ、頻りに呼び活《いか》したけれども、多量の水を飮んで居るらしいので、何とかして先づ水を吐かせようと思ふと、突然彼方から一疋の主なき牛が來たので、大に歡び『死骸を牛の背中に、うつむきに橫はらせたなら、水を吐くだらう』と思ひ、牛を巡れて來て死人を抱き上げ、よく見ると、その人もその牛も、先日、自分のところへ來たものたちであつたから、自分の豫言の當つたことを不憫に思ひ、息を吹き返したら手當をしてやらうと覺悟して、再たび貝を拾ぴにかゝつたが程なく頭をあげて見ると、牛の姿が見えなかつたので、はつと思つて由比が濱の方へたづねに走つたけれども、もはや、何處にも見つからりず、そのまゝ、若宮巷路の我家に歸つた。

 話變つて、腰越村の曾茂八は、兄から讓つて貰うた靑牛を牽いて我家にかへり、養父式四郞と妻小動に事情を話すと、二人とも大に喜び、早速明日にても牛の代金を持つて行くがよいとすゝめたので、あくる日は朝から土產物などの用意をしたが、式四郞は曆を見て、來る二十八日は丑の日で『よろづよし』とあるから二十八日にせよといつたので、その言菜に從つたが、二十七日の夜に突然式四郞は卒中で半身不隨となり、そのため、思はず日數を過してしまつた。

 ところが、兄から讓り受けた靑牛は、どうかすると繩を脫け出して、東の演邊へ二三度も行ったが、その都度曾茂八は追ひ留めた。牛でさへ、故主の恩を慕つて歸らうとするに、自介が恩義を忘れては相すまぬと、心ははやつても病人を殘して出ることもならず、又兩三日を送ると、靑牛は再び繩を拔け出し、その一日に限つて病人の容態がわるかつたので、曾茂八夫婦は少しもそれに氣附かなかつたのである。

 夕方になって、雨が降り出したので小動が牛小屋へ見に行くと、牛の居らぬのに大に驚き、良人に事情を告げた。曾茂八は、直ちに簑笠とつて打かつぎ、濱邊を東に追つて行くと、向ふから主なき牛が一疋こちらへ步いて來た。さては靑牛かと喜んで近よつて見ると、意外にも見覺えのある黃牛て、鞍の前輪に、酒と乾魚とを附けて居た。よつて多分兄の茂曾七が後から來るにちがひないと、暫らく待つて居たけれども、その姿が見えぬので、一先づ黃牛を我家に牽いて來てつなぎ、小動に事情を話して、兄の來訪を待つのであつた。

 あくる日になつても何の音沙汰もないので、曾茂八は兄の家を訪ねようと思つたが、養父の病が、急に重つたので出拔け難く、雇ふべき人足もないので心配のうちに夜になつてしまつた。すると五更[やぶちゃん注:午前四時或いは午前五時前後。]のころ、捕手の兵士が五六人、字平を先に立たせて、曾茂八の家に窺ひより、彼の在宅を見つけ、門の戶を破つて亂れ入り『兄を殺して牛を奪つた曾茂八、索《なは》にかゝれ』と呼んで召し捕らうとした。曾茂八は大に驚き、少しも身に覺えのないことだと言ひ譯すると、捕手の兵士はこゝに證人があるといつて字平を指した。

 字平は進み出て、曾茂八に向つて言つた。            

『貴様は嫂に心をかけ、戀のかなはぬ意趣ばらしに、家の物をさらつて逐電し、式四郞の婿となつても、兄が物を返さず、剩へ、先日延明寺の辻で、兄をだまして靑牛を奪ひ、兄がそれを取り返すつもりで黃牛に酒肴を負はせて、この家へ來ると、一層の惡念を起して兄を殺し、死骸を靑牛に負はして、海底に沈めるつもりだつたらうが、天網はのがれ難く、靑牛は主の屍を負つて池子村へ歸つて來たのだ。そこで俺は、貴樣の所爲《しわざ》だらうと思つて、昨夜ひそかにこゝへ來て牛小屋の中をうかゞふと果して黃牛が居るではないか。だから俺は、汝の所爲だと思ひ、雇はれた恩義に報いるために、專女後家を助けて事の趣をおかみに訴へたのだ。』

 曾茂八は兄の橫死をきいて胸が塞がり、その上寃罪に陷れられたので、あまりのことに默つて居ると、兵士どもは程なく彼と黃牛と馳引き立てゝ文注所へ連れて來た。

 時に建治元年[やぶちゃん注:一二七五年。執権は北条時宗。]四月九日、靑砥藤綱は曾茂八を獄舍から引出させ、訴人の專女字平等を呼寄せて吟味を始めた。先づ曾茂八を近く召し寄せてたづねると、彼は、池子村を立ち去つた理由から、黃牛を我が家へ連れて來た顚末まで殘らず物語つた。藤綱はしづかにそれをきいて居たが、やがて曾茂八に向ひ、靑牛を兄から買つたとき何故貝の翁に吉凶を問はなかつたか、又十日あまり何故兄のところへ音づれをしなかつたか。汝の言ふ所には證據が更にないではないかといひ懲《こら》し、次に專女と字平とを近くに召し寄せ、專女に向つて、靑牛が良人の死骸を乘せて歸つたときの爲體《ていたらく》と靑牛を賣つた次第とをたづね、茂曾七の死骸の着て居た衣服をとりよせて檢査し、次に字平に向つて、汝は右の食指《ひとさしゆび》を布の片《きれ》で包んで居るがそれはどうしたのかとたづねた。すると字平は、先日鰹を切るとて刄《やいば》を走らし、傷をしたので御座いますと答へた。

 そこで藤綱は二人に向ひ、汝等の言ふ所頗る胡亂《うろん》である。茂曾七が貝の翁に諭されて靑牛を賣らうと思つたのならば、曾茂八がかたり取つたのではないぢやないか。又、昨日、汝等が訴へたとき、茂曾七はもはや療治が屆かなかつたかとたづねたら、死んで時がたつて居たので藥はのませなかつたと言つたが、今この衣服を見ると藥の匂がするのはどういふ譯か、なほ又、この衣服は雨に濡れただけならば一晚竿にかけて置けば半ばは乾くのに、今なほ大へん濡れて居るのは潮水につかつた證據である。して見ると、字平の推量とはちがひ、曾茂八は海へ沈めたものを再び引揚げて牛に負せたことになるが、それはどう說明したらよいかと詰問すると專女はもとより、字平も適當な說明を與へることが出來なかつた。

 そこで藤綱は、人を若宮巷路へ走らせて、貝の翁を呼ばしめようとすると、丁度その時貝の翁自身が出頭したので、藤綱が喜んで來意をたづねると、今日文注所で、しかじかの罪人の審問があるときゝ、罪を救ふために來ましたと答へた。

 『先日、あの牛飼の人相を觀ましたところ、女難の相があつたので、女房を捨てたらよいと思ひましたが、あからさまには言ひ難いのでさめを捨てよと申しました。さめの一字は添言葉でたゞ卽ち妻を捨てよといふ意味で御座いました。ところが、その後、海濱で貝を拾つて居ますと溺死體が打ち寄せられましたので、助かるものなら助けようと藥を口の中に塗りますと、舌の上に妙な物がありましたので、殺されものであらうと思ひ、後の證據に取り出して懷へをさめると、主なき靑牛が來たので、始めて先の牛飼であると氣づき、水を吐かせるつもりで牛に負はせましたが、をのうちに牛の行方がわからなくなりました。ところが今日、腰越村の曾茂八といふものが、兄を殺して死骸を牛へ乘せ海に沈ませようとしたことが發覺して吟味されるときゝましたので寃罪にちがひありませんから、曾茂八を救はうと思つて參りました。これが、死骸の口中にあつた物で御座います。』

 かう言つて貝の翁は蛤貝《はまぐりのかひ》の中へ入れたものを差出したので、藤綱が開いて見ると、人の指がはひつて居た。

 藤綱は直ちに左右のものを顧みて、字平と專女とを捕縛せしめると、字平は大に抗辯したが、食指の繃帶を解かしめたところ、果して嚙み切られて居たので、翁の持つて來た指が動かぬ證據となつた。然し中々實《まこと》を吐かぬので、先づ專女に鞭一百を加へると、苦痛に堪へず自白した。それによると彼女は去年から字平と密通して居たが、良人曾茂七を殺したことは字平一人の所爲で、私は知りませんと言つた。それから字平を鞭つて二百に及ぶと、彼もたうとう白狀した。その日彼は由井ケ濱に侍伏して、後から茂曾七の咽喉を絞めにかゝると、誤つて右の食指を彼が口中に突入れ、その際嚙み切られたが、遂に縊め殺して海に投げ入れ、茂曾七の家に行つて專女と樂みを取つて居ると、靑牛が死骸をのせて歸つて來たので、一旦は驚いたけれども、曾茂八に罪をきせるには好都合であると思ひ、曾茂八のところへ來て見ると、黃牛が居たので、專女をすゝめて訴へさせたといふのである。で、藤綱は次の宣告を與へた。

『……宇平はもとより、雇夫にて、主從の義なしと雖も、犯す所の罪、もつとも輕からず、又專女は字平とともに茂曾七を殺さずといふとも、既に字平と密通して、不義の情欲よlり事起りて、茂曾七を殺すに至る、その罪は字平と又何ぞ異ならん、これ亦決して赦し難し、此彼もろ共に、近日、由井濱(ゆゐのはま)に引出して、誅戮(ちうりく)すべきものなり…………』

 かくて、茂曾八の放免されたことはいふ迄もなく、養父の病さへ五六日が程に本復した。[やぶちゃん注:ここで梗概は終わって、行頭からに戻る。]

 以上の筋書を讀まれた諸君は、最後に至り茂曾七殺しに專女が關係して居ないことを知つて、頗る意外に思はれたであろうと思ふ。始めに、彼女の淫奔な性質を述べて、犯罪性に富んで居ることを暗示して置き乍ら、終りに至つて情夫のみの犯罪としたことは、頗る物足らぬ感がある。而も、字平については、實直に働いて主人夫歸の信用を博したと書かれてあるから、兪よ以て奇怪な感じを抱かせられるのである。作者馬琴は『靑砥藤綱摸稜案』に於ても、彼のもちまへなる勸善懲惡主義を鼓吹しようとして居るらしいから、犯罪者の性格などには重きを置かず、只管《ひたすら》事件の推移に心を懸けたのであらうが、若し、正直な字平が專女のために、だんだん深みへ行き入れられ、遂に專女にそゝのかされて、茂曾七を殺すといふ風に書かれてあつたならば、その方が遙かに自然であるやうに思はれる。尤も馬琴の書いたやうな事實が世の中に決して無いといふことは斷言出來ないが、それならば、そのやうに、物語の始めに暗示を與へて置くべきである。例へば宇平が專女との不義の現場を茂曾七に見つけられたならば殺害の動機は成立する。又字平が茂曾七の少しばかかりの財產に目をかけ、それを專女もろ共我がものにしようとするのでも殺害の理由にはなり得るのである。利慾を離れた純然たる性的犯罪ならば、女に敎唆されて大罪を犯すといふ風に書いた方が、どう考へて見てもいゝやうである。ことに、茂曾七が弟のところヘ出立することを知つて居るのは專女ばかりあるから、專女がそれを字平に知らせて、良人を殺させるやうにしたならば筋の通りも遙かに良い。[やぶちゃん注:ここは完全に不木に賛同する。茂曾七が專女と結婚する前、彼女は若いのに「四人(よたり)ばかり夫(をとこ)をかさねたるに、その夫どもみな短命なる」(原文)というのも、如何にも怪しい前提ではないか? それらもたまたまのことであったなどという完全受身形の「ファム・ファータル」(Femme fatale)なんどいいう設定は、これ、話にならぬ。]

 一般に馬琴の作物の中にあらはれる人物の性格は、あまりはつきりして居ない恨みがあつて、女性犯罪者のうちでも、八犬傳の船蟲などは比較的よく書かれては居るが、この物語の專女などは隨分ぼんやりした描き方だと思ふ。犯罪者にも善心があるといふことはこれ迄よく紹介されて居る所であるが、それは多くは男性犯罪者に適用することで、女性犯罪者ことに所謂毒婦と稱せられる女子には、善心は殆んど認められないといつてよいくらゐである。だから毒婦を描く場合には徹底した惡性を帶ばしむるのが適當であろうと思ふ。この一つの物語から馬琴の女性觀を判斷するのはもとより亂暴ではあるが、ことによると、馬琴は女性犯罪者には男性犯罪者と同じ程度の善心は必ず存在するものと考へて居たのかもしれない。[やぶちゃん注:男女の真正シリアル・キラー或いは連続殺人犯の、偶発的な良心の発露を女性には認めないというこの不木の犯罪学説は、現代では認め難い女性差別である。よろしくない。「船蟲」はウィキの「南総里見八犬伝」の「対牛楼(たいぎゅうろう)の仇討ち」以下を読まれたい。]

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