曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 五馬 三馬 二馬の竒談(6)
〇附ていふ、文政五年壬午[やぶちゃん注:一八二二年。干支は「みづのえむま」。]の春閏正月十六日、戲作者式亭三馬、死す。享年四十七歲なり【三馬は江戶の人、名は太助。板木師菊池茂兵衛が子なり。】。同年の夏六月二日、鳥亭焉馬(うていえんば)、死す。享年八十歲。【焉馬も江戶の人、名は和肋。はじめは大工なり。後に商人となりて、足袋を鬻げり。】。同年月日、錦馬(きんば)、死す。享年七十許歲(ばかり)なるべし【錦馬は、富本豐前太夫が俳名なり。その實名を「午之助」といへり。よりて、その親しきものは、渠を「午」とのみ呼びしとぞ。】。識者、戲れにいへること、あり。今茲(ことし)は、支干、「壬午」に當れり。「壬」は「水」なり。逝(ゆき
てかへらぬ象(かたち)あり。
「この春、三馬が死せしより、焉馬・錦馬も亦、死せり。かくて、「三馬」の名の數の、空しからぬも、竒なり。」
とぞ。ある人、これを予に報(つげ)て、
「和君(わぎみ)も、用心し給へかし。」
といはれしに、予答へて、
「いな。その數には入るまじ。錦馬は、素より、識る人ならず。焉馬・三馬等とは、この年來(としごろ)、絕えて、親しく交(まじは)らず。忌嫌(いみきらは)るゝこと、聞えしに、いかでかは伴ふべき。且、そのわざは似たれ共、行ひさまの異(こと)なるを、閻王は、よく、しろし食(めし)けん。かゝれば、氣づかひ、あるべからず。」
と、うち戲れたりければ、ある人、いたく、笑ひにけり。これらは要なき事ながら、そゞろに筆の走ればなん【右、「三馬」。】
[やぶちゃん注:「式亭三馬」(安永五(一七七六)年~文政五年閏一月六日(一八二二年二月二十七日))は本業として薬種屋を営み、作家で浮世絵師でもあった。滑稽本「浮世風呂」や「浮世床」などで知られる。本名は菊地泰輔とするもの、名は久徳で字が泰輔とするものもある。浅草田原町(現在の東京都台東区雷門一丁目)の家主で版木師菊地茂兵衛の長男として生まれた。
「鳥亭焉馬」(寛保三(一七四三)年~文政五年六月二日(一八二二年七月十九日))は戯作者・浄瑠璃作家。式亭三馬や柳亭種彦などを庇護し、落語中興の祖ともされる。本名は中村英祝。本所相生町の大工の棟梁の子として生まれ、後に幕府・小普請方を務め、大工と小間物屋を営んだ。大田南畝宅を手がけた他、足袋・煙管・仙女香(白粉(おしろい)の商品名。江戸京橋南伝馬町三丁目稲荷新道(現在の東京都中央区京橋三丁目)の坂本屋で売り出した。歌舞伎役者三世瀬川菊之丞の俳名「仙女」に因んで名づけられたもので「美艷仙女香」とも称した)も扱った。俳諧や狂歌を楽しむ一方、芝居も幼い頃から好きで、自らも浄瑠璃を書いた。四代目鶴屋南北との合作もあり、代表作に浄瑠璃「花江都歌舞伎年代記」・「太平樂卷物」・「碁太平記白石噺」などがある。
「錦馬」「富本豐前太夫が俳名」富本節の太夫の名跡の二代目富本豊前太夫(とみもとぶぜんだゆう 宝暦四(一七五四)年~文政五年七月十七日(一八二二年九月二日))江戸出身。初代富本豊前掾(初代は本名が福田弾司で、宮古路豊後掾の門弟。「富本豊志太夫」と名乗って富本節を興し、後に富本豊前掾藤原敬親、次いで筑前掾となっているが、実際にはこの「富本豐前太夫」は名乗っていない)の実子。初名を富本午之助という。幼くして父と死別し、明和三(一七六六)年夏、中村座で「文月笹一夜(ふみづきささのひとよ) 下の卷」で床に登った。明和七年に父の名二代目豊志太夫、安永六(一七七七)年に二代目豊前太夫として襲名。文化一四(一八一七)年には受領して「富本豊前掾藤原敬政」と名乗った。面長な顔から「馬づら豊前」と言われ、美声で人気を誇った(以上はウィキの「富本豊前太夫」に拠った)。]
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