芥川龍之介書簡抄116 / 大正一二(一九二三)年(二) 三通
大正一二(一九二三)年八月九日消印・田端発信・東京市外田端三四八 下島勳樣・(絵葉書・小穴隆一・渡邊庫輔と寄書)
庭 前 小 景
描電線者渡邊庫輔、描藤棚者小穴隆一、描松者芥川龍之介
藤棚の空をかぎれるいきれかな(夏書藤返り咲けるに)
不自由の一游亭は松葉杖に闇の夜も步くと君おぼしめせ
庫
○
松風や紅提灯も秋どなり (我鬼)
[やぶちゃん注:三人が共作して描いた完全な一枚の彩色画というのは珍しい。「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)のものをトリミングした(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。]
大正一二(一九二三)年八月十三日・鎌倉発信・谷口喜作宛
冠省鎌倉に來てうまいお菓子なく困り居り候閒お手製のお菓子お送り下され度願上候お菓子は
牛皮 餡也
【図】 橫カラ見タ所 【図】 割つた所
風味あり
とまん中に胡桃のついてゐるお菓子になされ度これを二折にて五圓におこしらへ下され度候なほその外に最中我々の食べる分だけよろしく御見つくろひおん送り下され度候なほお金は勝手ながら歸京の節差上ぐ可く候間送り狀御封入下され度願上候右當用のみ 頓首
八月十三日 芥川龍之介
閑 心 亭 御 主 人 おんもと
おん送りさき 相州鎌倉停車揚前平野家内 芥川龍之介
[やぶちゃん注:菓子図は底本の岩波旧全集のそれを図と指示線のみを使用し、活字になっているキャプション部分は消去し、改めてソフトを用いて文字を私が挿入した。宛名の前にある画像は、その芥川龍之介御用達の和菓子屋で谷口喜作が営む「うさぎや」の屋号を示すもの。同じく底本からトリミングした。実際にはこんなに大きくはない。活字より二回りほどの大きさである。公式サイトでも判るが、サイト「GONZO SHOUTS」の白玉氏の記事「湯島・本郷散歩 老舗和菓子屋 うさぎや(どらやき)編」が判りやすい。解説も充実している。
この鎌倉避暑については、まず、『小穴隆一「二つの繪」(48) 「鵠沼・鎌倉のころ」(2) 「鎌倉」』がよい。そこで私は、龍之介が滞在した旅館について小穴の記した「平野屋(京都の平野屋の支店)」に以下のように注した。『現在の鎌倉駅西口の、私の好きな「たらば書房」から、市役所へ抜ける通りの右側一帯にあった平野屋別荘(貸別荘。旧料亭。現在の「ホテルニューカマクラ」(旧山縣ホテル)の前身)。「京都の平野屋」は愛宕街道の古道の一の鳥居の傍らで四百年の歴史を持つ鮎茶屋のことと思われる。京都でも私の特に愛する料亭である。宮坂年譜によれば、小穴隆一は芥川龍之介が来鎌する以前(大正一二(一九二三)年八月一日以前)から平野屋別荘に滞在しており、龍之介が平野屋へ来るのは山梨での夏期講座講師の仕事を終えた同月六日から九日までの間と推定されている。在鎌(日帰りで東京に出たりはしている)は十五日ほどに及び、同月二十五日に田端に戻った。』と書いた。但し、現在の京都の「平野屋」が本当に私の名指している「平野屋」かどうかは、未だ確認出来てはいない。しかし、この鎌倉の「平野屋」については、元は旅館ではなく、料亭であった。染谷孝哉著「鎌倉 もうひとつの貌」(一九八〇年蒼海出版刊)によれば、鎌倉の平野屋は当初は料亭で、『ここは京都に本店がある旅館の東京支店の、またその別荘のような出店であった』が、『商売が思わしくなかったので、その年から、秘書客のために貸間をしていた。その一九二三(大正一二)年夏』(まさにこの書簡時制を指す)、『岡本かの子、一平夫婦が滞在していた。たまたま芥川龍之介の同宿していた』として、龍之介の死後に書かれた龍之介をモデルとしたこの滞在中の様子を小説化した「鶴は病みき」(昭和一一(一九三六)年六月『文学界』発表)の一節を紹介している(芥川龍之介は『麻川莊之介』といういかにも名で出る)。但し、私は「鶴は病みき」に漂っているある種の奇怪にして不審な芥川龍之介の行動様態は、自殺した芥川龍之介の精神的な変異を、この親しく接した自死四年前にまで恣意的に引き上げるために作話した箇所がかなりあるように感じている。恐らく、この和菓子依頼のお茶目な書簡に鬱状態や死の影を感じる者は誰もいないだろう。ともかくも大の甘党芥川龍之介の真骨頂の書簡である。
「谷口喜作」既出既注。
「送り狀」荷物送付確認照合のための荷内容の明細書。]
大正一二(一九二三)年八月十三日・鎌倉発信・東京市外田端四三五 芥川ボクチヤン・八月二十三日(小穴筆の絵葉書・小穴隆一と寄書)
[やぶちゃん注:以下、宛名と下方の書信。最上部と一番下には印刷で右から左にそれぞれ、『郵便はがき』・『東京榛原製』とある。「榛原(はいばら)」は現在の東京都中央区日本橋に本社を置いている老舗の和紙舗(わがみほ)である。]
東京市外田端
四三五
芥川ボクチヤン
八月二十三日
[やぶちゃん注:一錢五厘の切手の消印は「鎌倉12 8 23」(時刻は「后0 ― 0」か。]
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二十五日マデニ
カヘリマス 二十日ニ
ハ和田ヤ永見ト話
シコミ、ステーション
ホテルニ 泊ラセラ
レタ(汽車ニ乘リオ
クレ)ケフ菅先生
ニアツタ 勢子今朝
橫濱ヘカヘツタ キノ
フ泳イダ 下島サンニ
ヨロシク 龍 以上
[やぶちゃん注:「龍」は○印がついている。]
[やぶちゃん注:以下、裏の絵に添えられたキャプション的小穴隆一の書信。言わずもがなだが、泳げないのは義足であるため。]
ワタシハ
ウミニハイ
レ
ナ
ボク イ
チヤンノ ノ
オトウ デ
サン ス
ナ
セイコ ハ
チヤンノ マ
オバ デ
サン ミテイ
マス・
オアナ・
[やぶちゃん注:以上は知られた民間の出版社のページで拾った画像である。そのページは敢えて示さない。画質がひどく悪いが、これは日本近代文学館所蔵のかなり古くに撮影したそれであることは百%間違いない。そのサイトでは「日本近代文学館」の公式サイトを出所としてリンクまでしてある。しかし現在の「日本近代文学館」の公式サイト内にはこの書簡の画像はない。しかも、驚くべきことに、その拾ったサイトには『掲載の記事・写真・イラスト等のすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます』とある。では、何故、「日本近代文学館」から公的に許可を得て写真を掲げていることを正しく胸張って明記していないのか? こういうアンバランスな仕儀が、文化のユビキタスをメディア自らが断ち切ってダメにする元凶なのだと言える。実は私は二〇〇九年二玄社刊の日本近代文学館・石割透編「芥川龍之介の書画」を所持しているが、以上の現物に改行等を可能な限り合わせた翻刻は、そこに載る本葉書の表・裏の鮮明な大判画像を視認して電子化したものである。しかし同書にも、恐ろしく詳細な五月蠅い複写禁止注意書きがある。――但し、これは逆に法的には無効である。前に示した通り、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影した単体写真には著作権は発生しないからである。美術館で写真が撮れないのは、世界的に見ても日本だけぐらいなものである。本邦の美術館はただそのまま写した絵画写真に著作権を主著しているが、こんな馬鹿なことを大々的に公的にやっているのはやはり日本だけである。こういう馬鹿げた禁忌を設けているから、日本の文化・芸術は閉鎖的で前時代的なのである。文化よりも金儲けしか頭にないから、出版界が国立国会図書館にデジタルコレクションを公開するななどとんでもない理不尽を捻じ込むのだ。まるでヤクザだね――閑話休題。されば、電話して許可とってなんどという面倒な仕儀は、さらさらやる気はない。どうぞ、図書館か、一万九千八百円(税込)払って買って、有難く拝見拝読されたい。因みに、私はこの時の由比ヶ浜での龍之介や小林と岡本夫妻の映った写真を確かに見た記憶があるのだが、所持品には見当たらない。僕の妄想だろうか?
「芥川ボクチヤン」この宛名のみは筆跡の墨痕が異なるが、これは「芥川龍之介の書画」の解説にもある通り、小穴隆一の筆になるからである。これはまず間違いなく、龍之介の次男「芥川多加志」宛である。既に前の書簡で示した通り、彼の名は小穴の「隆」を訓じて龍之介が名付けたのであり、されば、この小穴の言う「ボクチヤン」とは一般名詞の少年を呼ぶ「僕ちゃん」に「芥川家の子の、僕自身である多加志ちゃん」の意を掛けた小穴の愛情表現である。当時、多加志は満二歳五ヶ月であった。
「和田」筑摩全集類聚版脚注に、龍之介が作品集も出している出版社『春陽堂主人和田俊彦か』とある。
「永見」永見徳太郎であろう。既注(「大正八(一九一九)年五月八日・長崎発信・南部修太郞宛(絵葉書、菊池寛と寄書)」の冒頭注内)。
「勢子」小林勢以子(せいこ 明治三二(一九〇二)年~平成八(一九九六)年)谷崎潤一郎の先妻千代夫人(離婚して佐藤春夫夫人となった)の妹。後に映画女優となり、芸名を「葉山三千子」と称した。谷崎の「痴人の愛」の小悪魔的ヒロイン・ナオミのモデルとされる。なお、龍之介と彼女について関係を疑う向きには、私の『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (六)~その5』の私の注を読まれんことをお勧めしておく。筑摩全集類聚版脚注には、『行動のはでな女性で、文士連中とまじわりがあった』とある。]
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