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2021/08/27

芥川龍之介書簡抄129 / 大正一五・昭和元(一九二六)年一月(全) 二十七通

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の自死まで、一年と七ヶ月足らずとなった。以下、底本の岩波旧全集では二百五通を残すのみである(末尾に配された「年月未詳」書簡は除く)。されば、龍之介の自死に至る痕跡を書簡でも追って見たく感ずるので(それがはっきり見えると言っているのではない。痕跡を検証するための方途としての最低限の処理として、の意ある)、以下、この二百五通総てを電子化することとした。中には、ほぼ定式の挨拶や事務処理の内容も多いが、年初より、有意に身体と精神の著しい変調が綴られてあり、時に不定愁訴にも近いかとも思われる記述が見えることに気づくであろう。但し、今までのような、神経症的な注は附さないつもりである。悪しからず。なお、この年は十二月二十五日に大正天皇が崩御し、それに伴って皇太子裕仁親王が践祚、同日、昭和に改元された。則ち、厳密には、この年の昭和元年は七日間しかない。なお、旧全集の日付で確認出来る狭義の昭和元年の芥川龍之介書簡は瀧井孝作一通(擱筆十二月二十五日・消印十二月二十六日)のみである。]

 

大正一五(一九二六)年一月一日・田端発信・石黑定一宛(年賀状(恐らくは印刷)に書き添え)

 

あなたも二人のお子さんのお父さんにおなりだと思ふと實際年月の流れるのを感じます

[やぶちゃん注:「石黑定一」(明治二九(一八九六)年~昭和六一(一九八六)年)は岩波新全集の「人名解説索引」(関口安義・宮坂覺両氏編著)によれば、芥川がこの二年前の大正一〇(一九二一)年の『中国特派旅行中に知り合った友人』で、東京高等商業学校(現在の一橋大学の前身)卒で、当時は三菱銀行上海支店に勤務しており、後に『同行名古屋支店長をつとめた』とある。龍之介の「侏儒の言葉」の中の「人生」に唐突に「――石黑定一君に――」として名が出るので、知っている人も多いであろう。但し、『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 人生(三章)』で考察したように、この献呈の意味は特に明らかにされていないようである。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月八日・田端発信・谷口喜作宛

 

冠省無精の爲御年始も申上げず失禮いたして居ります又昨日は結構なものを頂き、難有く存じます尤も小生目下胃腸を害し居る爲あの一口最中も一度に三つしか食べられず太だ[やぶちゃん注:「はなはだ」。]殘念ですが如何とも致されません右とりあへず御禮まで 頓首

    正月八日夜       芥川龍之介

   谷口喜作樣

 

[やぶちゃん注:甘党の首魁芥川龍之介にして、新年早々、大好物であるはずの「うさぎ屋」の小さな一口最中さえ、ろくに食せないというのは、冗談ではなく、頗る深刻な様態と言える。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月九日・田端発信・南部修太郞宛(葉書)

 

謹賀新年

十二三日頃湯河原へ湯治に出かける筈、二三週間はゐる、君は來ないか? 奧さんにもよろしく

               芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:体調不良改善の目的で、芥川龍之介は、結果して、この一月十五日の午後に静養湯治のために湯河原に出かけ、中西屋旅館(「湯元通り」にあった老舗であるが、現存しない)に翌二月十九日まで、凡そ一月余り滞在した。南部が湯河原へ来た形跡はない。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十二日・田端発信・佐藤豐太郞宛

 

冠省朶雲奉誦仕り候御令息にはいつも御厄介に相成り居り候次手を以てお父樣にもお禮申上候扨小生は小學時代より字は下手にていつも乙や丙ばかり貰ひ居り、今日も誰にも褒めめられたる事無之、小生自身も古今の下手を以て任じ居り候所思ひがけなくもお褒めにあづかり大いに嬉しく候へども汗顏千萬にも存じ居り候就いては御令息の御煽動により、大膽にも駄句を書きたる小帖一册お手もとにさし上げ候間御笑覽下され候はば幸甚と存候なほ末筆ながら寒氣きびしき折から御健勝のほど祈り上げ候 頓首

    一月十二日      龍 之 介

   佐 藤 樣

 

[やぶちゃん注:「佐藤豐太郞」(文久二(一八六二)年~昭和一七(一九四二)年)は医師であった作家佐藤春夫の父。佐藤家の家系は代々紀州の現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町で医を業とし、父の豊太郎までに九代を数えている。豊太郎は正岡子規に私淑した文人でもあり、鏡水を号した。春生は長男である。豊太郎は和歌山医学校で医学を修め、後に順天堂に学んで、新宮町登坂で熊野病院を開業していた(ここに移ったのは豊太郎の先代から)。

「駄句を書きたる小帖一册」龍之介が直筆で俳句(或いは絵も。以下の佐藤春夫書簡参照)を記した贈呈用画句帳と思われる。知られる刊本の「澄江堂句集」は、龍之介自死後の五ヶ月後の昭和二(一九二七)年十二月で、香典返しとして配られたものであるので、注意されたい。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十三日・田端発信・東宮豐達宛

 

朶雲奉誦どうか御遠慮なくお譯し下さい名前はアクタガハリユウノスケであります なほ又どうかこれをお譯し下さいと申上げるほど自信のある作品もありません右とりあへず御返事まで 頓首

    一月十三日      芥川龍之介

   東宮豐達樣

 

[やぶちゃん注:「東宮豐達」(とうぐうとよたつ 明治二七(一八九四)年~昭和二(一九二七)年)は筑摩全集類聚版脚注によれば、東京帝大『医科卒のエスペランチスト』で、芥川龍之介の『「開化の殺人」などのエスペラント訳を試みた』とあり、新全集の「人名解説索引」には、『東京生まれ』とし、『父は神道の一派の教主であったが』、『本人はキリスト者』で、『海軍軍医をつとめた後』、『小田原・別府・長野県中野・広島県庄原などで病院長を歴任するかたわら』、『武者小路実篤の作品や『歎異抄』などのエスペラント訳を出している』として、この書簡のことが書かれ、龍之介が承諾した旨まで記されてあるが、『作品選定もなされ』、九『月頃には』翻訳作『業が始まったが』、『東宮の他界で実現はしなかった』とある。エスペラント(Esperanto)語はポーランド(出生当時はポーランドは帝政ロシア領)のビアウィストク出身のユダヤ人眼科医ルドヴィコ・ザメンホフ(エスペラント語:Lazaro Ludoviko Zamenhof 一八五九年~一九一七年:心臓病による病死)が一八八七年七月に‘Unua Libro ’(エスペラント語で「最初の本」)で発表した国際的人工言語。母語の異なる人々の間での意思伝達を目的とする、国際補助語としては最も世界的に認知されているもので、普及の成果を収めた言語となっている。「エスペラント」は同言語で「希望する人」の意である。ラテン系語彙を根幹とし、母音穂五、子音二十三を使用する。基礎単語数は千九百ほどで、造語法もあり、文法的構造は極めて簡単。日本では、明治三九(一九〇六)年に「日本エスペラント協会」が設立されている。私は感情表現に劣るという批判を聴いたことがある。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十四日・田端発信・佐藤春夫宛

 

冠省先達は御馳走さま、畫帖は小さいのを一つ君のお父さんに贈つたそれから堀口君に支那游記を送らんとするに「冥途」を送る次手あれば、君の所ヘ一しよに送る同君に獻上されたし僕胃を病み、腸を病み、更に神經性狹心症を病み、今夜か明日湯治に出かけるこれでもう雜用紛々の爲、三日も四日も延ばしたのだ、新年の句なぜ「いかのぼり落ち行くかたや波がしら」とせざりしや「戀の歐羅巴」は奔放自在なる餘り却つて人をして憂鬱ならしむ、どうも僕の狹心症は多少あの本に祟られたやうだ 頓首

               芥川龍之介

   佐藤春夫樣

二伸 生田さんの會のこと僕の權利は全部君にまかせる適當に所理[やぶちゃん注:ママ。]してくれ給ヘ

 

[やぶちゃん注:「支那游記」既出既注。前年の大正十四年十一月三日に改造社から刊行された中国紀行集成「支那游記」。

「堀口君」詩人でフランス文学者の堀口大學(明治二五(一八九二)年~昭和五六(一九八一)年:龍之介と同年)。春夫が明治四三(一九一〇)年上京して、生田長江に師事すると同時に、與謝野鉄幹の新詩社に入った際の同人に大學がおり、それ以来の友人であった。

「冥途」龍之介の友人で作家の内田百閒(明治二二(一八八九)年~昭和四六(一九七一)年)の処女作品集(大正一一(一九二二)年刊)。

「神經性狹心症」主にストレスに拠る自律神経失調症に起因する狭心症。心臓の血管が狭くなることから起こり、強い胸の痛みを伴うこともあり、場合によっては、心筋梗塞を引き起こすもの。

『新年の句なぜ「いかのぼり落ち行くかたや波がしら」とせざりしや』原句知りたや。「佐藤春夫全集」には載っているだろうなぁ。

「戀の歐羅巴」これは佐藤春夫の作品ではなく、堀口大學の翻訳本。作者はフランスの外交官で作家のポール・モラン(Paul Morand 一八八八年~一九七六年)。短編集「夜ひらく」(Ouvert la nuit :一九二二年)と「夜とざす」(Fermé la nuit :一九二三年)で、一躍、ベスト・セラー作家となっていた(孰れも二年後に堀口が訳している)。「恋のヨーロッパ」(L'Europe galante)はこの前年一九二五年の発表で、十四篇から成る短篇小説集。堀口は同年大正十四十二月に早くも出版している。堀口のこの頃の翻訳は、原初の刊行から、あまり時を移さずに素早い。

「生田さんの會」「北さん」は生田長江(明治一五(一八八二)年~昭和一一(一九三六)年)で既出既注。佐藤春夫は彼の直弟子であったが、この頃から、長江が罹患していたハンセン病が進行し、容貌の変容と失明にも至ったが、それでも活動は衰えなかった。この会もそうした弟子や作家仲間の激励会なのであろうが、春夫は立場上、音頭をとる役なのであろうけれども、春夫は実際には、かなり以前から彼の罹病を嫌って避けていたようである。「僕」芥川龍之介「の權利」というのは、よく判らない。ある種、病的な潔癖症でもあった龍之介は、この会には呼ばれても出る気は全くなかったことは明らかである。ハンセン病は当時(というより、今も)、差別的に忌み嫌われた病いであったのである。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十五日・田端発信・齋藤茂吉宛

 

冠省先日はいろいろ御厄介に相成り難有く存じ奉り候友人蒲原君に持たせ候品つまらぬものながらおん目にかけ候なほ伊藤左千夫先生の御遺族の宿所、蒲原君にお敎へ下され候はば幸甚に御座候 頓首

    一月十五日      芥川龍之介

   齋藤茂吉樣

二伸 今日これより湯河原へ參り候 頓首

 

[やぶちゃん注:「蒲原君」既注だが、再掲する。弟子渡邊庫輔の友人で長崎出身の小説家蒲原春夫(明治三三(一九〇〇)年~昭和三五(一九六〇)年)。前回の長崎行で非常に親しくなり、渡邊と一緒に上京して龍之介に師事し、芥川龍之介編になる「近代日本文芸読本」の編集を始めとして、多くの仕事を手伝った。昭和二(一九二七)年に「南蛮船」を刊行、芥川の没後は長崎で古本屋を営んだ。

「伊藤左千夫先生の御遺族の宿所」これは推理に過ぎないが、既刊(この前年)の「近代日本文藝讀本 第五集」に『「天地の」其の他』として伊藤の作品が載っており、その著作権料を遺族に支払おうとしているのではないかと私は思う。次の次で著作権に触れて述べているが、前にも述べた通り、「近代日本文藝讀本」(興文社刊・芥川龍之介編集・全五巻・大正十四年十一月八日全巻同時刊行)の著作権や印税のトラブルは、徳田秋声の強烈な抗議を始め、この後もずっと続き、芥川龍之介を激しく悩ませる大きな一因となっていた。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十五日・田端発信・菅虎雄宛

 

冠省先生には不相變益御健勝の事と存候先達は又忠雄さんを煩はし箱書きのことを御願ひ致し、失禮の段不惡御ゆるし下され度候右夏目先生の短尺の箱はいづれ小生參上頂戴仕る可く候間それまで御手もとにおとどめ置き下され度候右我儘ばかり申し恐れ入り候へどもよろしく御取り計らひ下され度願上げ候小生目下胃腸を害し居りこれより湯河原へ避難する所に御座候 頓首

     一月十五日     龍 之 介

   菅 先 生

  二伸不相變惡筆無双なる事おわらひ下され度候

 

[やぶちゃん注:既に述べた通り、この日の午後に芥川龍之介は湯河原へ発った。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十五日・湯河原発信・山本有三宛

 

冠省、その後胃腸は惡いし神經衰弱は强いし、痔は起るし、大いに閉口 唯今ここに半病人生活を送つてゐる。

扨著作權法の事なるが

㈠有報酬たると無報酬たるとを問はず作家の許可だけは請ふ事にしたし。これは若し請はれれば、テキストを敎ヘられるだけにても便宜なり。

㈡それから遺族は少し古くなると中々宿所わからず、その宿所錄を作る事も著作家協會の仕事としてよからん。

㈢それから「正常の範圖内にて拔萃蒐輯する事」と言ふのは如何にや。十七字の俳句、三十一文字の歌などは五六字づつとられるやうに聞えざる乎。拔萃は選擇とか何かした方よからん

㈣「正常の範圍内にて」も曖味なり。僕の讀本なども知らず識らず頁數殖えたれば正當の範圍を越えたるやも知れず。正當の範圍を越えたりとて罰せられればそれ迄なり。(勿論罰せられては困るが)何册何頁以下と制限する方よろしからん乎。尤も活字の號や行數によりてはそれも確かには行かなかるべし。

宿所錄を拵らへる事等の費用には僕の讀本の印税を當ててもよろし。

今日夕刊にて大橋さんの變死を知り、なぜ僕の關係する緣談はかう不幸ばかり起るかと思つて大いに神經衰弱を增進した。菊池は旅行中のよし保險會社の人に聞きし故とりあへず君にこの手紙を出す。

なほ上記四件は委員會へかける前に菊池に一應話して見てくれ給ヘ

    一月十五日      芥川龍之介

   山本有三樣

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介とは年上乍ら、山本有三は第四次『新思潮』の同人同志であり、菊池寛や芥川龍之介らと、「日本文藝家協會」を結成しており、内務省の検閲を批判する一方、著作権の確立に尽力した。ここは、より緻密な著作権法案を協会として、政府に示すための発議案の作成に伴うやり取りと推定される。「近代日本文藝讀本」でさんざん塗炭の苦しみを現に受けている芥川龍之介には、生身に染みた実作業上での重要な体験見解に基づく発言であると言える。

「大橋さん」芥川龍之介が媒酌をつとめた弟子の佐佐木茂索の夫人房子は、十一歳で実の姉であった大橋繁の養女となっていたが、岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)では、その養母で実の姉の『繁の主人が急逝した』とある。新全集の宮坂覺氏の年譜では房子の『実父が変死』とあるが、次の次の大橋繁宛書簡で前者の方が正しいことが判る。「變死」とは穏やかでないが、詳細は不詳。

「なぜ僕の關係する緣談はかう不幸ばかり起るかと思つて大いに神經衰弱を增進した」前記石割氏の注に、『佐佐木茂索と大橋房子の結婚、それに作家岡栄一郎と野口功造』(芥川龍之介の幼馴染みの親友)『の姪野口綾子の結婚に際しても媒酌をつとめたが、岡夫妻』の方はじきに『離婚した』とある。後者の件は既に注してある。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十六日・湯河原発信・室生犀星宛(絵葉書)

 

湯河原中西の二階に在り、ちよつと游びに來ては如何、梅は既に開きたれど、寒さは大して東京と變らず、(尤も女中に聞けば、これは今日だけのよし)

   栴檀の實の明るさよ冬のそら

    十六日        龍 之 介

 

[やぶちゃん注:「栴檀」既出既注。ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach 。実(み)は暖かな場所では、一月半ばでも落ちずに見られる。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十六日・湯河原発信・大橋繁宛

 

拜啓御主人御長逝の趣承り御哀悼の情に堪へず候小生自身も神經衰弱の爲、當地に養生致し居り候へば一層默然たるもの有之候 頓首

    一月十六日夜     芥川龍之介

   大 橋 樣

 

[やぶちゃん注:この文面から見るに、やはり、単なる病死ではないようである。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十六日・消印十七日・湯河原発信・東京市外田端自笑軒前 下島勳樣(絵葉書)

 

昨夜ここへ參りました 地震で山が崩れたり、宿(中西)が全く別な所に移つてゐたりして甚だ有爲轉變を感じました どうかそのうちにお遊びにお出で下さい 頓首

    十六日 相州湯河原中西  龍之介

 

 

大正一五(一九二六)年一月十六日・消印十七日・湯河原発信・東京市外田端四三五芥川樣方 葛卷義敏樣(絵葉書)

 

織田時代上下篇なる可く早くお送り下され度候 こちらに參ると、何もする事なければ本を讀む速力早くなり候

それから書齋に赤松月船と言ふ人より送り來れる小包みあり、それも次手にお送りを乞ふ 頓首

    十六日

 

[やぶちゃん注:「織田時代上下篇」後の芥川道章宛書簡及び翌月の二月八日附片山廣子宛書簡から、民友社の徳冨蘇峰の「近世日本國民史」の「織田氏時代」と断定出来る。かつて調べた際、同前のシリーズの第一巻から第三巻の「織田氏時代」パートで、「織田氏時代前篇」が大正七(一九一八)年十二月に、「織田氏時代中篇」が 大正八年六月に、「織田氏時代後篇」が同年十月に初版が出ている。「上下」とあるが、これは、ただ、「中」を書き忘れただけであろう。

「赤松月船」(明治三〇(一八九七)年~平成九(一九九七)年)は詩人で曹洞宗僧侶。 岡山県浅口郡鴨方村(現在の浅口市)出身。旧名は藤井卯七郎。小学校卒業と同時に井原の善福寺の住職赤松仏海の養子となり、十三歳で得度し、大正三(一九一四)年から新居浜の瑞応寺で修行、大正五年より総本山永平寺で修行したが、大正七年に僧籍を離れ、上京して、生田長江に師事した。佐藤春夫・室生犀星らと交流して文学活動を始め、『紀元』『文藝時代』などに参加した。昭和一一(一九三六)年に岡山県に帰り、僧籍に戻り、洞松寺(矢掛町)・善福寺の住職となった。後、曹洞宗特派布教師・正教師を歴任し、昭和六〇(一九八五)年には曹洞宗権大教正となっている(以上は当該ウィキに拠った)。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月十八日・湯河原発信・東京市小石區丸山町小石川アツパアト・メント内 小穴隆一樣(絵葉書)

 

每日退屈に日を暮らしてゐます。大橋女史のお父さんが變死したので又ぞろ少々憂鬱になりました。どうも小生の關係する緣談は皆惡い事を招くやうな氣がする。

君も精々氣をつけ給へ。どうもかう内外多事ではやりきれない。春陽會の畫出來つつありや否や。

    十八日            龍

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十日・湯河原発信・下島勳宛(絵葉書)

 

こちらはさすがに暖く梅花も滿開に御座候但し胃の具合あひかはらずよからず、就いては散藥儀あます所二日半と相成り候へば、もう二週間分ほど頂戴仕り度候。尤も次手有之候へば、わざわざお送り下さらずとも宅より頂戴に出るものにお渡し下され候はば結構に御座候。

    一月二十日 湯河原    龍之介

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十日・湯河原発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・一月二十日 湯河原中西 芥川龍之介

 

冠省。御手紙東京より同送し來りて拜見、尤もその前に大橋樣へはお悔み狀を差し上げ、(番地わからねど、三溪園近傍としたり)宅へは荆妻に大橋樣へお悔みに參るやうに申しつけ候。小生自身參上しなければならぬ所なれど、何分胃は惡し、腸は惡し、神經衰弱は甚しいし、大いにへこたれ居り候へば、歸京の節にても大橋樣へは參上仕るつもりに候。どうか右惡からず思つてくれ給へ。小生は二月近くの不眠症未だに癒らず、二晚ばかり眠らずにゐると、三晚目は疲れて眠るには眠るが、四晚目は又目がさえてしまふ。かかる間に大橋樣の訃に接し、すつかり神經的に參つてしまひ候。岡と云ひ、君と云ひ、僕の關係する緣談は悉不幸を齎すに似たり。實際ここに欝々と日を送つてゐると、(それも下島先生所方の胃の藥と齋藤茂吉所方の神經衰弱の藥とをのみつつ)遁世の志を生じ候。奥さんも定めし弱られ居るべし。どうかよろしく申にげてくれ給へ。兎に角生きてゐるのは樂じやない。正宗白鳥は國へひつこむよし、健羨に堪へず。右とりあへずお悔みかたがた御返事まで、頓首

    一月廿日       芥川龍之介

   佐佐木茂索樣

二伸 高作「靑きを踏む」第一ならん乎。「ふるさとびと」も結構なれど少々書きかた不丁寧なり。僕の夢を冒頭に使つたのは前には唯「子供の病氣」あるのみ。「度々使つた技巧」には抗議を言ふよ。この頃サラアベルナアルのことを書いたメモアを一讀、これも遁世の念を生ぜしめただけだ。橫濱まで參らるる次手にちよつとここまで足をおのばしになることは出來ずや。世の中の憂きことどもの話をしたい。

 

[やぶちゃん注:「靑きを踏む」前掲書の石割氏の注に、『佐々木茂索の『女性』』のこの『一月号掲載の小説』とある。

「ふるさとびと」同前で、『佐々木茂索の『中央公論』』のこの『一月号掲載の小説』とある。

「子供の病氣」大正一二(一九二三)年八月発行の『局外』に掲載され、後に作品集「黄雀風」(大正一三(一九二四)年七月一八日刊行)及び「芥川龍之介集」に所収された。本作は次男芥川多加志の発病から入院、後に全快するという、大正一二年六月八日(金曜日)の朝から十一日(月曜日)深夜までの事実に基づく四日間を主に描いた小品である。この出来事は既に既注であるが、「子供の病氣――一游亭に―― 芥川龍之介 附やぶちゃん詳細注」を参照されたい。

「健羨」(けんせん)は「非常にうらやましく思うこと」の意。

「サラアベルナアル」サラ・ベルナール(Sarah Bernhardt 一八四四年~一九二三年)は天才として伝説化された、フランスの「ベル・エポック」時代を象徴する大女優として知られるフランスの大女優。パリ生まれ。本名はロジーヌ・ベルナール(Rosine Bernard)。演劇学校卒業後、普仏戦争前後が女優としてのキャリアの開始で、一八六二年に「コメディー・フランセーズ」(Comédie-Française)にデビューし、一八七五年には同劇団の正式座員となった。一八七九年には巨匠ヴィクトル・ユゴーの戯曲「リュイ・ブラス」(Ruy Blas )の女王役で評判となり、イギリス・アメリカを巡演し、世界的名声を得た。一八八〇年に退団して、私設劇場を転々としつつ、「椿姫」・「トスカ」などのロマン派的悲劇のヒロインを演じ、大成功を収めた。一八九九年、「サラ・ベルナール座」を設立し、「ハムレット」の男役ハムレットを演じた。愛国精神に富み、第一次大戦時には戦地慰問を行った。彼女は天性の美貌と美声に加えて、卓越した演技力で人気を博し、世紀末の演劇の華で、国葬の栄誉を受けた。ユゴーには「黄金の声」と評され、「聖なるサラ」や「劇場の女帝」など、数々の異名を持った。十九世紀フランスに於ける最も偉大な悲劇女優の一人であると考えられている。ジャン・コクトーは「聖なる怪物」とも呼んだ。キャリアの終りの頃は、初期の新興メディアであった映画が制作された時代と重なっているため、数本の無声映画にも出演している。社会史の観点からは、一つの文化圏・消費経済圏を越えて国際的な人気を博した「最初の国際スター」としてしばしば言及される。また、彼女のために豪華で精緻な舞台衣装や装飾的な図案のポスターが作られており、「アール・ヌーヴォー」(Art nouveau)という当時の新芸術運動の中心人物であった(以上は当該ウィキと日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」の記載を参考にした)。

「メモア」フランス語「mémoire」。追想記。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十一日・湯河原発信・山本有三宛(葉書)

 

冠省 この間は秦へお金や雜誌をとどけて頂いて難有う。秦のお父さんからお禮狀を貰ひ大いに恐縮した。ここも毛の足袋を必要とするほど寒い。但し梅花は滿開。

    一月二十一日     芥川龍之介

二伸それからこの前書き落したが著作權法の「修身書及讀本」も變だね。「敎科書及副讀本」位ではどうかね?

 

[やぶちゃん注:「秦」芥川龍之介の友人秦豊吉。既出既注。やはり、私には芥川龍之介の彼へのこういう謂いは、かなり違和感がある。龍之介が、何故、彼にこれほど親密なのかが、今一つ、判らぬからである。

「秦のお父さん」東京府東京市牛込余丁町の裕福な薬商であった秦鐐次郎。秦家は元は三重県東員町(とういんちょう)長深(ながふけ)で土建業をしていた一家で、四日市北町で「寿福座」という芝居小屋も経営していた。明治一一(一八七八)年に豊吉の祖父専治が上京し、饅頭屋を経て、日本橋で生薬問屋「専治堂」を開業、豊吉の父親はその長男で、家業と祖父の名・専治を継ぎ、西洋雑貨なども扱った(以上はウィキの「秦豊吉」に拠った)。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十日・湯河原発信・芥川道章宛

 

一、御手紙二通拜見、比呂志籤に通りたる段祝着に存候文子、佐佐木へ參り候事も名案に御座候。小生は大橋さんへ悔み狀を出し置きたり。歸りにでもちよつと寄るか、出直して悔みに參るべし。文子御苦勞樣に御座候。

二、女中力石にたのみやり候へば、そちらにても精々御さがし下され度候。

三、をばさんなる可く早くお出で下され度候。一人にてぽつねんとしてゐるのはやり切れず、今月中にお出で下されずは歸京する外は無之候。アダリンを使はず、夜中起きてゐる時などは實に閉口致し居候。

四、本の外に心を慰むるものなし。この手紙つき次第、蘇峰の近世日本國民史豐臣時代三册(合計九圓)至急お送り下され度候。先便お送りのはもう一册讀了いたし候。なほ又それをお送り下され候節、梁塵祕抄(これは書齋の床の間の側の芭蕉布の戸棚の中にあり)もお送り下され度候。本は義ちやんにもおたのみ下され度候。

五、小包みは二つ受けとり候一つは明石の原稿と近世日本國民史、一つは猪狩史山の女禍傳(大阪屋出版)に御座候。義ちやんより大雅堂の本を送りし由なれど、それはまだとどかず候。

六、胃の具合未だわるく、散藥缺乏につき、下島さんへもう二週間分願ひ候へども、御發送の手數をかくるは御氣の毒につき、本を送る中へ入れてお送り下され度候。

七、寒きうちは腦溢血患者多きよし、平生よりお酒すごさるる事禁物に御座候。おばあさんも炬燵にゐて風をひくべからず。

八、小生留守中は義ちやんも何かと不便多からん。よろしく御面倒を御覽下され度候。

九、也寸志の便祕なほりたりや。湯河原は下痢を直すのに特效あるせゐか、小生も便祕して困り居り候。(伯母さんお出の節ビオフェルミン一罎御持參下され度候。お送りには及ばず)比呂志、試驗に通るやうに存じ候へども親の慾目にや。

十、土屋の番地知らねば、小生宅氣附にて手紙を出し候間、ちよつとおとどけ下され度候。土屋のうちの位置は左の通り。

[やぶちゃん注:底本にはここに数ポイント落ちの編者注で『〔ペン書きの地圖あり〕』とあって、地図は載っていない。]

十一、當地は梅も開き居り候へば、幾分か東京よりも暖からん乎。宿は目下滿員にて朝夕は湯にはひるのに困り候。

    一月二十一日     龍 之 介

   父 上 樣

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。

「比呂志籤に通りたる段」筑摩全集類聚版脚注に、『小学校〔高師付属小学校〕』(東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)『の入学試験は抽選で銓衡』されたとあり、比呂志は、無事、試験も合格して、この年の四月初旬に同小学校に入学している。

「女中力石にたのみやり候へば」「力石」はこの当時は『改造』の記者をしてた、まさにこの神奈川県足柄下郡湯河原町出身の作家で龍之介の書生のようなこともしていた力石平蔵(明治三一(一八九八)年 ~昭和五〇(一九七五)年)は芥川龍之介作の「トロツコ」(大正十一年)・「百合」(同前)・「一塊の土」(大正一三(一九二四)年)の元となる作品を芥川に提供したことで知られる。但し、少なくとも「トロツコ」については、私は、龍之介が手直しして呉れる思って力石が渡した原稿を、龍之介が徹底的に書き換えて、自作として発表し、それを見た力石は、力を落して「私の作品ではなくなった」と妻に呟いた、という文章を読んだ記憶があり、かの名品「トロツコ」は正直、芥川龍之介による残念な盗作レベルの仕儀と断じてよいように考えている。確かに、或いは力石の作としてそのまま発表したら、衆目の眼に留まることはなかったかも知れないし(そういうことを芥川龍之介は力石に直接語ったという風にも私は聴いている)、「トロツコ」は芥川龍之介の作品の中でも一際光りを放っている珠玉の小品であるのは、芥川龍之介が彫琢した結果であるのかも知れない。にしても、盗作は盗作である。これは厳に言い添えるべきものと考えている。平三・平造とも書くが、本名は平蔵である。当該ウィキによれば、湯河原の実家の家業は石材業で、高等小学校卒業後(在学中はトップに近い成績で、読書好きであったとされる)は家業に従事したものの、十四歳の時に父が、十八の時に母が逝去してしまった。二十二歳の時、近くの二歳下の女性と親しくなったが、先方の親が交際に否定的であったため、二人で「駆け落ち」の体(てい)で上京した。相手も彼と同じく文学好きであったことから、たまたま彼が龍之介と知り合った結果、芥川家に出入りするようになった(後に二人は結婚している)。『芥川は書簡で』、『力三と思われる人物の就職斡旋を依頼したり』しており、また彼は『芥川が湯河原で湯治をする際の手配、芥川の自宅の家政婦の手配をするなど』(この書簡部分がそれ)、『両者は親しい関係を築』いたように傍目には見えたようである。『「トロツコ」の末尾の段落に「(主人公の)良平は(中略)校正の朱筆を握つてゐる。」とあるのは』、発表当時、『力石が出版社の校正係をしていたことに基くものであると見られている』。『本人の作品としては』大正一五(一九二六)年第一回『文藝春秋』懸賞小説募集に「父と子と」を「力石平三」の名で応募し』、『文藝春秋』の、まさにこの翌月の大正一五(一九二六)年二月号の『創作欄に掲載されているものがある』(恐らくは芥川龍之介が菊池寛に推薦したものと推察されるが、平然を装っていた龍之介も流石に「トロツコ」のそれについては、どこかで落とし前をつけてやらねばならないと考えていたのではあるまいかと私は推理している)。『戦後は横浜市の運輸会社に』、『一時期』、『勤務した後、子孫に囲まれて余生を送った』とある。

「をばさん」芥川フキ。

「アダリン」Adalin(ドイツ語)。一九一〇年にドイツの製薬会社バイエル社が製造し、催眠薬として発売した、微苦味を有する白色無臭の結晶性粉末。催眠・鎮痛剤の一種。「アダリン」は商標名で、一般名は「カルブロマール」(Carbromal:英語)で、化学名は「ブロムジエチルアセチル尿素」(2-Bromo-N-carbamoyl-2-ethylbutanamide)。日本では「日本薬局方」に掲載されていたが、昭和四六(一九七一)年の改正により、削除された。ここにある通り、龍之介や太宰治ら作家が好んで常用していたことでも知られる(当該ウィキ及び同英文ウィキ他を参照した)。

「蘇峰の近世日本國民史豐臣時代三册」先に注した徳冨蘇峰著のシリーズ「近世日本國民史」の第四巻から第十巻の「豐臣氏時代」パート。「豊臣氏時代甲篇」が大正九(一九二〇)年三月に初版が出て、以降、「豊臣氏時代 乙篇」(大正九年十二月)・「丙篇」(大正十年六月)・「丁篇 朝鮮役上卷」(大正十年五月)・「戊篇 朝鮮役中卷」(大正十一年一月)・「己篇 朝鮮役下卷」(大正十一年五月)・「庚篇 桃山時代槪觀」(大正十一年九月)に初版が発行されている。民友社の昭和十年刊でよければ、ここで「甲篇」から読める(乙・丁篇も続けて「後の巻号」で読める)。

「義ちやん」葛巻義敏。

「明石」(明治三〇(一八九七)年~昭和四五(一九七〇)年)は長崎県南松浦郡岐宿村出身の作家。慶応義塾大学普通部中退。同中退後、家業の酒造業を手伝ったが、それに馴染まず、上京して正宗白鳥、次いで、芥川龍之介に接近して教えを請うた(採用しなかったこの前の大正十四年四月十六日附の修善寺発信の渡邊庫輔宛書簡には、日曜面会日の常連の一人として出、龍之介は三百枚もの長篇を読まされたが、「相當に書けてゐる」と評価している)。この大正十五年に「父と子」・「半生」を発表したが(筑摩全集類聚版脚注では『のちにプロレタリア文学に転じた』とする)、十分な世評が得られぬまま、帰郷した。没年には「あのころの芥川龍之介」を発表している(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「猪狩史山」猪狩又蔵(いかりまたぞう 明治六(一八七三)年~昭和一三(一九三八)年)は教育者・漢学者。福島県田村郡滝根村(現在の滝根町)出身。史山(しざん)は筆名。東京英語伝習所及び東京文学院哲学科卒(明治二六(一八九三)年)。商業との兼業農家の二男に生まれた。幼年時代から漢籍や書を学び、十四歳の時、福島市に養子に出されたが、不満が爆発し、養家を脱走したが、果せず、暫くは郷里で准教員を勤め、明治22(一八八九)年に、再度、出奔し、苦学しながら、東京文学院を卒業、日本中学校(現在の日本学園中学校・高等学校)の教師となった。大正三(一九一四)年、杉浦重剛(じゅうこう)が東宮御学問所御用掛となり、御進講の「倫理」の草案づくりに着手すると、よき女房役として七年間、奉仕した。昭和八(一九三三)年から昭和一七(一九四二)年まで日本中学校校長を務めている(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「女禍傳(大阪屋出版)」この大正十五年に大阪屋號書店から刊行されていることが、古書店の情報で判った。内容は不詳。筑摩全集類聚版脚注は『未詳』としつつ、古代中国神話で人類を創造したとされる女神女媧の解説を「女禍」と表記してやらかしてあるのだが、それって「女媧」で「女禍」とは書かないぜ? まあ、龍之介が誤記した可能性は高いけれどね。

「土屋」恐らくは後に書簡がある土屋文明のことであろう。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十一日・消印二十二日・湯河原発信・東京小石川區丸山町三十小石川アパアトメント内 小穴隆一樣・一月廿一日夜 湯河原中西内 芥川龍之介

 

冠省、君の手紙を見てまた少しまゐつた。お腹立ちの事など何にもない。唯、この頃鬱々として日を送つてゐるものだから、大橋さんの變死に神經を起しただけだ。それから本の名は「或る日」を用ひず「或日」を用ひて頂きたく候。内藏之助も内藏助にしたし。(これは改めんと思ひつつ、いつも忘れしもの)それから西田さんより同封の手紙來る。西田さんも嘸 君の病氣を心配してゐるのではないかと思ふ。「民も心底云々」はこの間の晚話に出た民子女史が從姊の人か何かに話した事だらう。不眠は相かはらず。胃はまだ痛む。小康を得たのは痔だけ。實際くさくさしてしまふ。春陽會のハン入の節は御遠慮なく義ちやんを使つてくれ給へ。君の画の展覽される頃にはもう少し樂な氣になつてゐたい。

     一月二十一日        龍

   一 游 亭 樣

 

[やぶちゃん注:『本の名は「或る日」を用ひず「或日」を用ひて頂きたく候。内藏之助も内藏助にしたし』小穴隆一が装幀を担当していた文藝春秋社出版部から刊行予定の再刊本作品集「或日の大石内藏之助」のこと。二月八日に同社同再刊本作品集「地獄變」とともに同日発売されたが、新全集宮坂年譜では、前者は守られたものの、後者は「之」が入ったままのようである。

「西田さん」西田幾多郎。以下の『西田さんも嘸 君の病氣を心配してゐるのではないかと思ふ。「民も心底云々」はこの間の晚話に出た民子女史が從姊の人か何かに話した事だらう』は既に書いた通り、小穴と幾多郎の姪高橋文子の縁談が進展しないことを、龍之介が、気を揉んでいる小穴を慰める内容である。

「ハン入」作品の「搬入」。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十二日・湯河原発信・蒲原春夫宛(葉書)

 

冠省。每日無聊に消光、但し胃はあひかはらず惡い。不眠もなほらん。讀本の方はどうなりしか。氣になるゆゑ、ちよつと知らされたし。まだ皆すまずば、薰さんと協力し、お骨折りを得ば幸甚。神經衰弱は如何せしや。湯にはひるか、散步するか、つとめて血行をよくし、僕のやうにヒドイ目にあふことなかれ。

    相州湯河原中西内   芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「讀本」例の「近代日本文藝讀本」のゴタゴタの後始末が全然終わっていないのである。

「薫さん」不詳。板元の興文社の担当編集者か?]

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十二日・湯河原発信・佐藤豐太郞宛

 

冠省、かかる紙にて失禮に候へどらも當地にはこの書簡箋の外無之候間これにて御免下され度候。御臥床中のよし、寒氣嚴しき折から何とぞ御大事に願上げ候。拙句惡書多少なりとも御病間を慰め候はば幸甚と存候。小生も若き癖に寒さに中てられ、胃を損じ、腸を害し、おまけに神經性狹心症さへ生じ今月半ばより當地に入湯罷在候。とりあへず御見舞まで 頓首

     一月廿二日     龍 之 介

   佐 藤 樣

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十三日(年次推定)・湯河原発信・塚本八洲宛(絵葉書)

 

その後御病氣は如何ですか僕はこの頃少し元氣を恢復しました。しかしまだ不眠症は癒らず、胃病も癒りません。ここはもう梅はさいてゐますが、寒氣は東京と同じ位です。少くとも同じ位の氣がします。いつもお母さんに何か送つて頂くのは恐縮故、今度は何もお送りないやうに願ひます。その代りに君の容態を知らせて下さい 頓首

          相州湯河原中西内 龍

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十六日・湯河原発信・南條勝代宛(絵葉書)

 

この間は病氣の爲不愉快な顏をしてゐてあなたまでも不愉快にしたらうと思つてゐますさうしてお氣の毒に思つてゐますわたしは來月中旬までこちらにゐようかと思つてゐます「思つてゐます」ばかりつづいて變ですが常用のみ。

    二十六日  中西にて 芥川龍之介

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十六日・湯河原発信・土屋文明宛(絵葉書)

 

朶雲拜誦來月十五日頃迄はゐるつもりだが、來月はじめには伯母が來るかも知れない。ぜひ來給へ。僕も體力恢復次第、仕事にとりかからうと思つてゐる

    二十六日  ゆがはら中西 龍之介

  二伸 待つてゐるよ。

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十七日・湯河原発信・東京府中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・一月廿七日 湯河原中西うち 芥川龍之介

 

冠省、やうかんお送り下され難有く存候。勿論奧さんの御厚意ならんと存じ居候。但しあれを食ひすぎ候せゐか咋今腹中異狀を生じ、屁も何も出ず、何やら鳴動致し居候。この宿のお上さんと病を語り候へば 何も彼も割り符を合はすやうにて 得體の知れぬ胃膓を患ふるもの小生一人のみにあらざるを知り、何やら天下を擧げて病人なる乎の感を生じ候。當地は梅など開き居り候へども寒氣中々きびしく(梅も唯習慣上開きしにや)これにも亦難澁致し居り候。この分にては來月もここにゐることとならん乎 思へば、思へば、云々のはがきを拜受したる頃はまだしも健康なりしの感に堪へず。ひそかに維洮曼靑居士と號さん乎と思ひ居り候 末筆ながら奥さんによろしく 頓首

    廿七日            澄

   藝 先 生

二伸 この前の手紙はゆきちがひになりたりと覺ゆ。御一遊の志なきや。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。

「云々のはがきを拜受したる頃」時期特定不能。前の一月二十日の佐佐木宛では「御手紙東京より同送し來りて拜見」とあるが、それではたった一週間前のことになり、おかしい。というより、この手紙、全体に、何やらん、奇体な印象を受ける。貰った羊羹のお礼で始めながら、それを食ってから、昨日から今日にかけて腹が異状を呈し、鳴っても、糞も屁も出ないと尾籠なことを述べた上、世を挙げて、一国、皆、病人なるか、という感じを持っていると言い、ちょっと前の君から手紙を貰ったあの時分、具合が悪いと感じていたのだが、実は「まだしも健康」だったのだと今更にひどく感じている、と言い、自分でしょうもない戯れの戒名(「維洮曼靑居士」「いてうまんせいこじ」の上の部分は「胃腸慢性(ゐちやうまんせい)」の語呂合わせである)をつけて興じているのも、何となく過ぎた躁的な演技も感じられる。少なくとも、軽度ではあるが、一種の不安神経症の症状を示しているようにも感ぜられるのである。]

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十七日・湯河原発信・佐藤春夫宛(絵葉書)

 

君のお父さんよりお禮狀を貰ふ。御病中のよし字も亦仰臥して書かれたらしかつた。ちよつと氣になり、このはがきを認む。どうか君からもよろしく。

  二十七日 相州湯河原中西 芥川龍之介

 

 

大正一五(一九二六)年一月二十八日・湯河原発信・菅虎雄宛

 

冠省その後御淸適の事と存じます先達お願ひいたした箱書を來る卅一日の日曜の午後(四時頃になるかと存じます)頂戴に上るつもりでございます恐縮ながら御在宅を願へれば幸甚に存じます右とりあへず當用のみ 頓首

    一月廿八日夜     龍 之 介

   菅 先 生

 

[やぶちゃん注:新全集宮坂年譜によれば、芥川龍之介はこの日に、一度、田端へ帰宅している。そして、三十一日の午後四時頃、芥川龍之介は予告通り、鎌倉の菅虎雄邸を来訪している。そして、その足で再び、湯河原へ戻っているのである。但し、私はこの一月二十八日・二十九日・三十日にずっと田端の自宅にいたとは断言出来ない気がしている(二十八日の条には、帰宅の件と、『帰途、萩原朔太郎を見舞うか』と年譜にはあるのみ。この朔太郎見舞いの件は後の二月十六日附室生犀星宛書簡で考証する)。さらに言えば、三十一日と二月一日に湯河原の中西旅館にいたという確証も、これまた、ない、ということに気づいた(年譜と書簡日付から)。何を言いたいかって? 鎌倉の小町園だよ! 最大で四、五日、彼は強く惹かれている女将野々口豊のいる小町園に泊まっていた可能性があることを示したかったからだよ! 「何でそんなに野々口豊にこだわるの?」だって? あんたも鈍感だね! この年の年末から翌昭和二年にかけて、「芥川龍之介の小さな家出」とも称される事件が起こるからさ! 龍之介が実家に確かには告げずに、小町園に居続けをして、彼女の世話を受けているのさ! この時、龍之介は、豊に心中を持ちかけたとする説さえもあるからさ! だ、か、ら、だよ!

「淸適」(せいてき)は「気持よく安らかなこと」。多く書簡文で相手の無事や健康を祝って言うのに用いる。]

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