芥川龍之介書簡抄123 / 大正一四(一九二五)年(四) 修善寺より小穴隆一宛 「歎きはよしやつきずとも 君につたへむすべもがな 越の山かぜふきはるる 天つそらには雲もなし」
大正一四(一九二五)年四月二十九日・修善寺発信・東京市小石川區丸山町三〇小石川アパアトメント内 小穴隆一樣・四月二十九日 靜岡縣修善寺町新井うち 芥川龍之介
原稿の居催促をうけて弱つてゐる。この間例の大男の話を急行にかいてしまつた。勿論書けてゐるかどうか心もとない。今泉鏡花先生滯在中、奧さん中々世話やきにて、僕が仕事をしてゐると、「あなた、何の爲に湯治にいらしつたんです?」などと言ふ。屋前屋後の山々は木の芽をとほり越して若葉なり。一夜安來節芝居を覗いたら、五つになる女の子が「蛸にや骨なし何とかには何とかなし、わたしや子供で色氣なし」とうたつてゐた。大喝采だつた。うちの子も五つになるが、ああ言ふ唄をうたつて大喝采をうけぬだけ仕合せならん。この間又夜ふかしをして、湯がなくなつた故、溫泉で茶を入れたら、變な味がしたよ。ちよつと形容の出來ぬ、へんな味だ。その癖珈琲に入れると、餘り變でもない。僕はいつも溫泉へ來ると肥るのだが今度はちつとも肥らん。遠藤君によろしく。前の家だと尾張町だけでも手紙が出せるが今度はさうも行かない。又今樣を作つて曰く、
歎きはよしやつきずとも
君につたへむすべもがな
越(コシ)の山かぜふきはるる
天つそらには雲もなし
二十九日 龍
隆 樣
二伸 惡錢少々同封す。支那旅行記の裝幀料と思はれたし。
[やぶちゃん注:室生犀星とこの小穴隆一、そして弟子格である堀辰雄の三人は、芥川周辺でも、廣子への龍之介の執心の核心を理解していた数少ない人々であった。無論、この書簡も「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」の「■書簡12」として採用しているが、ここで再掲する。これは私のカテゴリ『芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」という夢魔』に当然の如く掲げるべきものであったが、見落としていたようなので、そちらのカテゴリにもこの記事をリンクさせておく。
「例の大男の話」既注であるが、再掲すると、大正一四(一九二五)年六月一日発行の雑誌『女性』に発表した修善寺の民話を素材とする「溫泉だより」を指す。作中に「丈六尺五寸、体重三十七貫」の大工萩野半之丞が登場する。「温泉だより」起筆は四月十六日。
「今樣」これも廣子への恋情切々なるを詠じた一首。
「遠藤」既出既注だが、再掲すると、遠藤古原草(明治二六(一八九三)年~昭和四(一九二九)年 本名清平衛)。俳人・蒔絵師。「海紅」同人。小穴を通した共通の友人で俳句仲間でもあった。
「支那旅行記の裝幀料」この六ヶ月後の大正十四年十一月三日に改造社から刊行される中国紀行集成「支那游記」(私の「心朽窩旧館」にはこの全篇の注釈付テクストが完備してある)。装幀は小穴隆一。この時、既に小穴から装幀案が示されていたのものかも知れない。]
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