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2021/08/22

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 建治の古碑武市兄弟

 

   ○建治の古碑武市兄弟  海棠庵 記

武州埼玉郡戶が崎村の農家道祖土(サイト)三郞右衞門といふ人あり。こは、余が相知れる友なり。三郞右衞門、過ぎし文化十年癸酉[やぶちゃん注:一八一三年。]の正月、その住居の西なる山をほるとて、大なる杉の丈餘ばかりとも思はるべき根に、掘り當てたり。とかくして、ほり起すこと、六尺あまりにして、忽、古井あり。水、いと淸冷なりけるが、石塔婆めくものをもて、おほひありける。取り上げてきよめみれば、阿彌陀佛供養の碑にして、則、「建治二年丙子十一月日。願主敬白」となん、刻みたる、今を距ること、五百四十年、古木の下に埋もれしも、いく星霜をか、經にけん。そのゆゑよしをしらねばとて、井をば、そがまゝ、又、埋め、碑は藏弃なせしとて、摺りて、贈りぬ。案ずるに、建治は、後宇多帝の御宇、鎌倉惟康親王【北條七代時宗執權たり。】の時に當る。三郞右衞門云、「餘が祖先は道祖土下總守長之とて、惟康親王に屬して、一方の大將たりき。もしくは、供養せられしものにや。そは、その舘の跡さへ、詳ならねば、いかにとも、さだめがたし。」となり。二月の會に、北峯子[やぶちゃん注:「北峯」は山崎美成の号の一つ。]の出だされし多摩郡なる古碑[やぶちゃん注:「武州多摩郡貝取村にて古牌を掘出せし話」。]と、年號もはるかに、四、五年の違にて、又、掘出せるも十年を隔つるのみ。かくて、同じ武州の内にして、あまりによく似たることのありしも、奇といふべし。

土州候の臣武市兄弟のもの、去りし文政七年[やぶちゃん注:一八二四年。]の秋、父を農民禮作なる者に打たれ、復讐のねがひ立てゝ、侯より、公に告げ給ひ、今年正月、本國を立出しことよし、書けるを、この頃、その藩士より得て讀むに、彼の小田原侯なる淺田兄弟の志に繼くべく思へば、そがまゝしるして、後の忘に備ふ。その本懷を達せん日、また寫し添へて、終始全からんことをまつにこそ。

[やぶちゃん注:「建治」文永の後で、弘安の前。一二七五年から一二七八年まで。なお、碑銘の「建治二年丙子十一月」とあるが、同年十一月は、月の後の方が、西暦ではユリウス暦も換算されたグレゴリオ暦でも一二七七年になる。

「武州埼玉郡戶が崎」現在の埼玉県三郷市(みさとし)戸ヶ崎(グーグル・マップ・データ)。

「道祖土(サイト)下總守長之」変わった姓で興味が惹かれるが、不詳。

「小田原侯なる淺田兄弟の志」個人ブログ「大佗坊の在目在口」の「小田原 浅田兄弟敵討」に、『浅田兄弟の仇討ちと云うのは、文政元』(一八一八)年『七月、小田原藩足軽浅田唯助は』、『乱心した傍輩足軽の成瀧万助に切り殺された。入牢を命じられた万助は三年後の文政三年、脱獄に成功して行方不明となった。浅田唯助の養子となった浅田鉄蔵と唯助の実子で浅田五兵衛家に養子に入った浅田門次郎は敵討ちの伺書を提出、藩は直ちに幕府に届け、町奉行所は敵討帳、言上帳に帳付けして浅田兄弟に書替(謄本)を渡し、正式に敵討の許可が下された。万助を捜して各地を廻っていた鉄蔵(二十四歳)門次郎(十六歳)の時の文政七年』、『水戸願入寺領磯浜村祝町』(現在の茨城郡大洗町)『にいた万助を討取った』一件とあり、『浅田兄弟は敵討ちの成功により』、『下級藩士の諸組之者から五十石の知行取の代々御番帳入りの中級藩士として抜擢された』とある。

 以下は底本では「今日、申渡事。」までは全体が一字下げ。また、それぞれの上申書の冒頭の肩書は、ブラウザでの不具合を考え、下方を改行した。]

 

   公邊へ之屆書

    松平土佐守家老山内昇之助組付

       一領具足門田力右衞門厄介

          武市善次郞 二十三歲

          同 爲次郞  十三歲

右之者父武市琢八義、當申閏九月九日、土州高岡郡於宮内村百姓禮作致無禮及爭論、禮作義、琢八を棒に而打候處、琢八義、右疵に而、翌十日、相果申候に付、禮作、其村役人共より番人を付置、右之趣、城下へ及、注進候に而、禮作義、番人を散々致打擲、逃去候に付、國内は勿論、隣國迄も嚴敷尋申付候得共、行方相知不申候、右に付、衯[やぶちゃん注:底本の右に原本のものと思われる『本ノマヽ』の傍注がある。]善次郞・同弟爲次郞、御府内幷何國迄も相尋、親の敵打留申度段、願書承屆、仍之見[やぶちゃん注:「これによつてみるに」か。。]、逢次第打留候はゝ、其所之役人等へ相斷可申段申渡候に付、御帳へも披付置候樣致度候、此段以使者申入候。

 十一月

     松平土佐守使者     宮井守衞

 土州候にて被申渡候書付

    山内昇之助御預鄕士

       門田力右衞門養育人

        門田善次郞事 武市善次郞

        門田爲次郞事 武市爲次郞

右之父敵追放者霊作行方相尋打果申度段、願出、達御聽候處、神妙に被思召、公儀御帳にも付候間、勝手次第可致出達候。且、爲御介補東[やぶちゃん注:「東」では読めない。何かの字の誤記か誤植ではないか?]三拾兩被告下置候、首尾能打果候はゝ、其所之役人へ始末相屆、御作法之通被計、御國幷京、大坂江戶之内、最寄之御屋敷へ可相屆、其節檢使被差立候間、諸事麁勿之振舞無之樣、急度可相心得候。

  正月廿日

 右於御目付方に仰付之

    山内昇之助御預鄕士

       門田力右衞門養育人 門田善次郞

                 同 爲次郞

右之父之敵追放者禮作行方相尋打果申度願書差出、於江戶御詮義有之候處、鄕士之名前に而者差閊[やぶちゃん注:「さしつかへ」。]候を以、一領具足より御屆に相成、且、本姓武市を唱候樣に仰付候。

公義御帳にも、「一領具足門田力右衞門厄介武市善次郞・同人弟爲次郞」と被付置候。

 右之通彼被仰付、今日、申渡事。

[やぶちゃん注:以下二行は行頭から。]

一京都御築地之内、江戸御曲輪之内、兩山などは可致遠慮、其外、右に準候場所者憚候而可然事。

一禮作病死之趣等、急度相分候はゝ、慥成證據以立戾可申事。

    御差添         足輕 五左衞門

                同   萬十郞

                下番  惣九郞

    御雇御賄方使番          宋平

  文政八年乙酉夏四月朔   海棠庵 錄

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