曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 山王靈聖
○山王靈聖 輪 池 堂
駱駝の故事、諸家の纂むる[やぶちゃん注:「まとむる」。]ところ、各、「網羅せり」と見ゆるに、「山王靈聖」とあがめて拜せし事と、その糞を線[やぶちゃん注:「すぢ」か。]にぬきて、頸にかけしことは、いまだ、いはざることにや。よりてこゝに錄す。「能改齋漫錄」、宋吳曾云、『李昉言、建隆初。王師下二湖南一。澧・湖[やぶちゃん注:同書の複数のデータを見るに、地名であるが、複数の州名で「澧・朗」が正しい。訓読では訂した。]之民。素不ㇾ識二駱駝一。隨ㇾ軍負荷。頗有二此畜一。村落婦女見而驚異。競來觀ㇾ之。有二拜而祝者一。曰山王靈聖。願賜二福祐一。及ㇾ見屈ㇾ膝而促。又走避ㇾ之。曰、卑下小人。不ㇾ勞二山王返拜一。軍士見者無ㇾ不二大噱一。又拾二其所ㇾ遺之糞一。以ㇾ線穿聯。戴二子[やぶちゃん注:以下のリンク先では『於』。「于」の誤記であろう。]男女項頸之下一。用禳二兵疫之氣一。南中相傳以爲突。』。[やぶちゃん注:底本には「突」に右編者注して『笑カ』とある。「漢籍リポジトリ」の「能改齋漫錄」の巻十五の「駱駝」を見たところ、確かに「笑」であることが確認出来た。]
[やぶちゃん注:「駱駝」西アジア原産で背中に一つの瘤(こぶ)を持つ、
ローラシア獣上目鯨偶蹄目ウシ亜目ラクダ科ラクダ属ヒトコブラクダ Camelus dromedaries
と、中央アジア原産で二つの瘤を持つ、
フタコブラクダ Camelus ferus
の二種のみが現生種。ここは後者であろう。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 駱駝(らくだのむま) (ラクダ)」を見られたいが、糞のネックレスの話は、そこには載らない。なお、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 5 哺乳類」(一九八九年平凡社刊)の「ラクダ」を参考に調べると、本邦への渡来の現存する初見は「日本書紀」で、巻第二十二の推古天皇紀に、推古天皇七(五九九)年秋九月の条に、「百濟貢駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一隻。」とあり、これが恐らくは初渡来と考えてよく、その後の推古天皇二六(六一八)年八月にも高麗の貢献品に『駱駝一疋』と見え、更に、巻第二十六の斉明天皇紀の斉明天皇三(六五七)年に西海使が百済より帰還した際、「獻駱駝一箇・驢二箇。」と見え、更に巻第二十九の天武天皇紀の下に、天武天皇八年の条に、新羅からの貢献品として『調物、金・銀・鉄・鼎。錦・絹・布。皮。馬。狗。騾。駱駝之類十餘種』とあって、上代には駱駝は貢献品として人気があったことが窺える。しかし、その後、一千百年余りの間は記録が全くなく、江戸時代の享和三(一八〇三)年になって、アメリカの船が交易を求めてきた船中にフタコブラクダ一頭が乗っていたものの、幕府は追い返しており、上陸さえしていないようである。しかし、この四年前の文政四(一八二一)年六月、オランダ船が長崎に雌雄一対二頭のヒトコブラクダを齎した(ペルシア産であったという)。この二頭は当時の出島の商館長ブロムホフが入手し、将軍徳川家斉に献上しようとしたが、家斉は断った。ブロムホフは、そこで、この二頭を馴染みの遊女糸萩に贈り物として与えたが、彼は糸萩と別れ、文政八(一八二三)年に帰国してしまった。この間に、糸萩は土地の者に身請けされ、駱駝の処置に困って、早々に香具師(やし)に売り飛ばしていた。かくして二頭は見世物とされて、九州・四国へ哀れな道行と相成ってしまう。文政六年四月に大坂、八月に京都、その翌七年八月には江戸両国・広小路と各地で興行に引き廻されたのであった。特に江戸では大評判となり、翌八年春まで引きも切らない大盛況を呈したといい、遊郭では「ラクダ節」なる小唄が流行り、駱駝に因んだ錦絵や玩具まで氾濫した。また、この二頭が非常に仲が良かったことから、上方では、街中を歩く二人連れを「ラクダ」と呼んで囃したともいう。この二頭の駱駝は、その後、東国から越前・加賀・尾張名古屋を回って、再び大坂で興行した後、またしても北国を巡るうちに、寒さのために亡くなったと伝えられるが、詳しい事実は判らないとする(高島春雄「動物渡来物語」(昭和三〇(一九五五)年学風書院刊を原拠とするとある)。荒俣氏も最後に悲哀の感懐を記されているが、まさにこれ、……灼熱のシルク・ロードならぬ……吹雪の越路(こしじ)の道行……そこに命を絶った二人は、これ、いかにも、哀れを誘う…………
「能改齋漫錄」南宋の官人で作家の吳曾(生没年不詳。七十三歳で病死)が一一六二年に板行した書で、見聞した史事や詩文・曲・名物・社会制度などを記録したもので、当時の知られた作家の逸詩・逸文も記し、唐宋両代の文学史的资料として第一級の物とされる。古い医処方や臨床例などの資料としても価値があるという。なお、彼は民衆を救うことを旨とした名官吏であったらしい。
以下、漢文部を我流で訓読する。一部は返り点に従わなかった。
*
宋の吳曾、云はく、
『李昉(りばう)言はく、
「建隆の初め、王師、湖南に下る。澧(れい)・朗(らう)の民、素より、駱駝を識らず。軍に隨ひて、荷を負はせ、頗る、此の畜、有り[やぶちゃん注:多くの駱駝を軍事物資の運搬の役用に従軍させていたという意であろう。]。村落の婦女、見て、驚異し、競ひ來つて、之れを觀る。拜して祝ふ者、有りて、曰はく、
「山王靈聖(さんわうれいせい)たり。願はくは、福祐(ふくいう)を賜へ。」
とて、見るに及びて、膝を屈して促(うなが)すも、又、走りて、之れを避く。曰はく、
「卑下の小人(しやうじん)なり。山王が返拜をば、勞(いた)はらず。」
とて、軍士の見る者、大ひに噱(わら)はざるは無し。
又、其の遺(のこ)せる所の糞を拾ひ、線(すぢ)を以つて聯(つら)ね、男女、項頸(うなじ)の下に戴けり。用ふるに、『兵・疫の氣を禳(はら)ふ』となり。
南中、相ひ傳ふ、
『以つて笑ひと爲(す)。』
と。
*
「李昉」(九二五年~九九六年)は宋の学者で官人。「太平広記」や「太平御覧」といった膨大な類書(百科事典)の編集者の一人として知られる。「建隆」は北宋の太祖趙匡胤(ちょう きょういん)の治世、宋朝最初に用いられた元号で九六〇年から九六三年まで。「王師」皇帝直属の軍隊。「澧」「朗」は湖南にある二州の名で、前者は岳州府に、後者は常徳府に属したが、二州で武陵の桃源郷のあるとされた所として知られた。現在の湖南省常徳市桃源県(グーグル・マップ・データ)がある附近。「山王靈聖」不詳。土俗の考えた神の使者ということであろう。中国の幻獣的神像には駱駝をハイブリッドしたものがあるようである。「福祐」幸福や裕福。「糞を拾ひ、線(すぢ)を以つて聯(つら)ね」ラクダの糞は黒い球状を成すので、それを紐で貫いて、数珠のようにして首に掛けたものと思われる。「兵・疫の氣」戦乱や疫病を起こす悪しき気の意であろう。]
« 甲子夜話續編 卷三 (「続」3―15 高松侯の臣に沼田逸平次と云あり……) | トップページ | 曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 染木正信 »