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2021/08/11

芥川龍之介書簡抄117 / 大正一二(一九二三)年(三) 七通(旧全集最古の堀辰雄宛一通を含む)  

 

[やぶちゃん注:この年の九月一日十一時五十八分三十二秒に関東大震災が発生、南関東及び隣接地で大きな被害を齎した。死者・行方不明者は推定十万五千名で、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害となった。芥川龍之介は書簡では、特に本震災についてのやり取りが少ないので、既に『「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に』として八篇の文章をここで電子化しておいたので参照されたい。]

 

大正一二(一九二三)年九月十八日・田端発信・葛巻義敏宛

 

この間は手紙を難有う。けふ士官の人が來てお前からのことづけを聞いた。

東京は地震後の火事の爲 大半燒野原になつてしまつた。その慘害の程度は到底見ないものには想像出來ない。西川、新原、薪屋、皆全燒した。西川の一家は江州へひきこむと云つてゐる。地方から來た人は續々ひき上げる。もう百三萬人去つたよし。東京の人口二百萬の半分だ。大變なことになつたものだ。

さう云ふ始末故 お前も今かへつたにしろ、どうすると云ふ當ては全然ない。「新しい村」からは何とも云つて來ず、又武者が出て來てゐるにしろ、この大騷ぎぢや居どころもわからない。その他の口も灰搔きとか郵便配達とかの外は見當りさうもない。今も靑池が來て山口さんの所から出された始末を話してゐる。これもどうかしなければならぬのだが、どうする訣にも行かない次第だ。だからお前も當分は北海道に止る外はない。

もう少し交通機關でも恢復すれば「新しい村」の便りもあるかも知れない。又もう少し燒け跡にバラックでも出來れば、何とか外に衣食の途があるかも知れない。今は皆それぞれの食ふ食はぬの問題と戰つてゐる。兎に角お前はさし當り北海道に尻を据ゑなければ駄目だ。こちらでは「ヨツチヤンダケ今度ハ運ガヨカツタ」と云つてゐる。新原、西川、薪屋、皆死傷はない。しかし本所の伊藤(お條さんと云ふ頭に毛のない女の人を知つてゐるだらう)は二人とも燒け死んでしまつたらしい。上野へ出ると、淺草のお堂や兩國の鐡橋が見える。その間みんな燒けたからだ。丸善も文房堂も神田の古本屋も全部燒けた。本も買へない。畫の具も買へない。僕等みんな大弱りだ。燒け死んだ人も澤山ある。本所の被服廠には三萬五干人の屍骸がある。大川やその他の川も土左衞門だらけ。僕の見た燒死者だけでも三百以上ある位だ。田端は幸ひに燒けない。しかし放火や泥捧が多いから、每日僕と渡邊とかはるがはる夜警隊に加はつてゐる。戒嚴令を敷かれた結果、軍隊も步哨を立ててゐるし、靑年團や在鄕軍人會は總出だし、まるで革命か戰爭でもあつたやうだ。

あとはいづれ又。何にしろ當分はそちらに置いて貰ふやうにおし。こつちは文字通り大騷ぎだ。

   九月十六日       芥川龍之介

  葛卷義敏樣

 

[やぶちゃん注:「しっかりした震災報知の書簡があるじゃないか!?」と言われそうだが、実はこれは岩波旧全集には載っていない。底本は葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(岩波書店一九七八年刊)を用いた。恐らくは新全集には収録されているようで、岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)に載っている。龍之介の姉ヒサの先夫葛巻義定(離婚。但し、前に述べたように西川豊と再婚したものの、西川が自殺して、実はヒサはその後に義定と再々婚している)との間の長男で、龍之介の甥であった葛卷義敏は大正一一(一九二二)年に東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)に入学したものの、在学中に白樺派のコミューン「新しき村」への参加を望み家出していた(後に芥川家で龍之介の書生として働くことになった。東京高等師範学校附属の方はこの大正十二年に中退している。この辺りは当該ウィキに拠った)。前掲書の石割氏の注には、『実父の理解を得るため』、この時は『北海道に赴いていた』とある。義定は獣医であったから、父が北海道にいたというのは腑に落ちる。

「けふ士官の人が來てお前からのことづけを聞いた」恐らくは、震災による戒厳令発布により、北海道に配備されていた陸軍軍人が東京に派遣されたのであろう。父義定の仕事関係(軍馬が考えられる)か何かで、その士官とコミット出来たのであろう。

「西川」前掲の姉の再婚した弁護士西川豊との住居。

「新原」芥川龍之介の亡き実父新原(にいはら)敏三の新原家。

「薪屋」不詳。新原家との縁戚か。

「江州」西川豊は滋賀県生まれ(明治大学法科卒)。

「渡邊」芥川龍之介の書生をしていた既出の渡邊庫輔。

「戒嚴令」ウィキの「関東大震災」によれば、震災直後、『内務省警保局、警視庁は朝鮮人が放火し暴れているという旨の通達を出して』おり、根も葉もない『不逞鮮人』による放火・掠奪の流言が広がった。七日には、『緊急勅令「治安維持の為にする罰則に関する件」』『が出された』が、まさに『これがのちの治安維持法の前身』となった。八日には、『東京地方裁判所検事正南谷智悌が「鮮人の中には不良の徒もあるから、警察署に検束し、厳重取調を行っているが、或は多少の窃盗罪その他の犯罪人を出すかも知れないが、流言のような犯罪は絶対にないことと信ずる」と、流言と否定する見解を公表し』ている。しかし、『震災後』一『か月以上が経過した』十月二十日、『日本政府は「朝鮮人による暴動」についての報道を一部解禁し、同時に暴動が一部事実だったとする司法省発表を行った。ただし、この発表は容疑者のほとんどが姓名不詳で起訴もされておらず信憑性に乏しく、自警団による虐殺や当局の流言への加担の責任を隠蔽、または朝鮮人に転化するために政府が「でっち上げた」ものとの説もある』。『一部の流言については正力松太郎が』ずっと後の昭和一九(一九四四)年の『警視庁での講演において、当時の情報が「虚報」だったと発言している』。時間を震災直後に戻す。『警視総監・赤池濃は「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、「衛戍総督に出兵を要求すると同時に、警保局長に切言して」内務大臣・水野錬太郎に「戒厳令の発布を建言」した』。『これを受け』て、震災翌日の九月二日には、『東京府下』五『郡に戒厳令を一部施行し』、三『日には東京府と神奈川県全域にまで広げた』。『陸軍は、戒厳令のもと』、『騎兵を各地に派遣し』、『軍隊の到着を人々に知らせたが、このことは』、『人々に安心感を与えつつ』も、先の根拠のない朝鮮人についての『流言が事実であるとの印象を与え』、『不安を植えつけたとも考えられる』とある。『軍・警察の主導で関東地方に』は、実に四千余りもの『自警団が組織され、集団暴行事件が発生し』、『これら自警団』や一部の強迫観念的な民衆集団によって、暴行やリンチが行われ、『朝鮮人だけでなく、中国人、日本人なども含めた死者が出た』とある。より詳しくはリンク先を読まれたい。]

 

 

大正一二(一九二三)年九月二十八日・田端発信・中根駒十郞宛

 

拜啓御手紙拜見しました成程印紙は燒けちまつたらうと思ひます八十三圓殘金の旨も承知しましたしかし小生の親族共燒け出されの爲、お金入用なのですが今月卅日ごろまでに百圓程御都合下さいませんか、「夜來の花」の縮刷印税を前借と云ふ事にして、甚勝手がましい御願ひですがどうかよろしく御取計らひ下さい御都合によりお金は使をさし上げても、下すつても結構です 勿論御斷り下すつても好いのですがなる可く御ひきうけ下さい右とりあへず當用のみ 頓首

    九月廿八日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:底本を岩波旧全集に戻す。

「中根駒十郞」(明治一五(一八八二)年~昭和三九(一九六四)年)は新潮社支配人。愛知県矢作(現在の岡崎市)生まれ。明治二八(一八九五)年、郷里の小学校を卒業後、上京して神田の大鳴学館に学んだ。明治三十一年、義兄の佐藤儀助(義亮)の新声社(後の新潮社)に入り、以後、佐藤の片腕となり、新潮社の発展に尽くした。昭和二二(一九四七)年、支配人を退き、顧問となった。夏目漱石・島崎藤村・芥川龍之介ら作家たちの信頼も厚く、その多彩な交誼の逸話は「駒十郎随聞」に残されている(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。ここでは被災後で無理もない申し出であるが、龍之介はこの翌年の五月二十八日にも、京都旅行で持ち金を使い果たし、彼へ無心を頼んでいる。こういうところは、私は龍之介の都合のいい(金を呉れそうな相手を選ぶところ)ちょっと厭な感じがしている。

「夜來の花」この二年前の大正十年三月十四日、中国特派直前に新潮社から出した第五短編集であるが(初版が国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全部読める)、その縮刷版の刊行は震災前から契約していたものと思われ、大正十三年五月十日に出版されている(震災で刊行は遅れたものと推定される)。その縮刷版も国立国会図書館デジタルコレクションにある。

 

 

大正一二(一九二三)年十月十八日・田端発信・堀辰雄宛

 

冠省原稿用紙で失禮します詩二篇拜見しましたあなたの藝術的心境はよくわかります或はあなたと會つただけではわからぬもの迄わかつたかも知れませんあなたの捉へ得たものをはなさずに、そのまゝずんずんお進みなさい(但しわたしは詩人ぢやありません。又詩のわからぬ人間たることを公言してゐるものであります。ですからわたしの言を信用しろとは云ひません信用するしないはあなたの自由です)あなたの詩は殊に街角はあなたの捉へ得たものの或確さを示してゐるかと思ひますその爲にわたしは安心してあなたと藝術の話の出來る氣がしましたつまり詩をお送りになつたことはあなたの爲よりもわたしの爲に非常に都合がよかつたのです實はあなたの外にもう一人、室生君の所へ來る人がこの間わたしを訪問しましたしかしわたしはその人の爲に何もして上げられぬ事を發見しただけでしたあなたのその人と選を異にしてゐたのはわたしの爲に愉快ですあなたの爲にも愉快であれば更に結構だと思ひます以上とりあへず御返事までにしたためましたしかしわたしへ手紙をよこせば必ず返事をよこすものと思つちやいけません寧ろ大抵よこさぬものと思つて下さいわたしは自ら呆れるほど筆無精に生れついてゐるのですからどうか今後返事を出さぬことがあつても怒らないやうにして下さい

    十月十八日      芥川龍之介

   堀 辰 雄 樣

二伸なほわたしの書架にある本で讀みたい本があれば御使ひなさいその外遠盧しちやいけません又わたしに遠慮を要求してもいけません

 

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集で最初の芥川龍之介の晩年の高弟とも言うべき堀辰雄宛書簡である。それにしても、これ、一読、夏目漱石の「こゝろ」の「先生」の遺書の一節と見紛うものであり、龍之介も確信犯で言葉をわざとそうなるように選んでいるとしか私には思われない(私は「こゝろ」のフリークである。この書簡をこっそり「先生」の遺書の佚文だと言ったら、信じてしまう人はかなり多いはずだ)。しかし、この返事を貰った堀が完全に舞い上がったことは想像に難くない。新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、震災のあった九月の下旬に、『室生犀星に師事して詩を書いていた堀辰雄(当時一高生)を紹介され、以後』、『親交を結ぶ』とある。堀は大正一四(一九二五)年四月に東京帝国大学文学部国文科に入学したが、芥川龍之介の自死後、岩波元版芥川龍之介全集の編集者の一人を勤め、大学は昭和四(一九二九)年三月に卒業したが、その卒業論文は、ズバリ、「芥川龍之介論」であった。

「但しわたしは詩人ぢやありません。又詩のわからぬ人間たることを公言してゐるものであります」これは詩稿を送ってきた堀への謙遜の挨拶に過ぎない。芥川龍之介は自らを秘かに詩人であると生涯、自負していた。だからこそ、後年、萩原朔太郎に「彼は詩を熱情してゐる小說家である」と評された際、自ら出向いて、朔太郎に詰め寄っているのである。私の古い電子化である萩原朔太郎「芥川龍之介の死」の「10」以下を読まれたい。

「街角」筑摩全集類聚版脚注には、『堀辰雄全集になし。のち』に『すてた草稿か』とある。]

 

 

大正一二(一九二三)年秋・田端の自宅にての置き手紙・葛卷義敏宛(全て青鉛筆で書かれてある)

 

コノ手紙ヲ書イタオ前ハ好イ子ナリ、好イ甥ナリ。 カンシヤク叔父

 

[やぶちゃん注:再び葛巻の「芥川龍之介未定稿集」より。「編者註」があり、そこに、

   *

「若シ明日、朝ネテヰル内ニ誰カ來タラ起シテモイイ。起シテハイケナイ。――ソノドチラカニ、記シヲ付ケテ、置イテ。『起シテモイイ。起シテハイケナイ。』」と云う編者の「置手紙」への返事として編者の枕元へ。

   *

とある。年譜類には記載がないが、このクレジットに誤りがないとなら、この年の十月辺りには、葛巻義敏は北海道から東京へ戻り、芥川龍之介の書生として田端の家に住んでいたことが推定出来ると思われる。]

 

 

大正一二(一九二三)年十二月十六日・田端発信・室生犀星宛(渡邊庫輔と寄書)

 

竹垂るる窓の穴べに君ならぬ菊池ひろしを見たるわびしさ

遠つ峯(ヲ)にかがよふ雪の幽かにも命を守ると君につげなむ

秋たくる庭たかむらに置く霜の音の幽けさを君知らざらむ

  詩の御返事

靈芝にまじる堇の凍りけり

  震災後に芝山内をすぎ

松風をうつつに聞くよ古袷

  久しぶりに姪にあひ

かへり見る頰の肥りよ杏いろ

 十二月十六日        芥川龍之介

室生犀星樣

 

[やぶちゃん注:底本を再び岩波旧全集に戻す。

「芝山内」筑摩全集類聚版脚注に、『東京都港区芝(当時は芝区)増上寺の境内』とある。]

 

 

大正一二(一九二三)年十二月十六日・消印十八日・田端発信・金澤市上本多町川御亭三十一 室生犀星樣・十二月十六日 市外田端四三五 芥川龍之介

 

冠省 先達てお菓子を難有う存じました新年號やら何やら忙しい爲、つい御禮も出さず失禮しました又この間は堇の詩をありがたうこれも次手にお禮を申上げます(僕は今度小說の如きもの四つも書きましたその爲大へん忙しかつたのです)やつと仕事も片づいた故けふの夜大阪へ參らんと存じてゐます大阪で思ひ出し候へども大阪每日のサンデイの隨筆にちよつと君の事を書いた、活字になつたらよんで下さい君の家には今酒井眞人の一家が住んでゐます菊池はねあの敷石を綺麗に拭つておき、離れと書齋との往來は跣足でしてゐました以下卽席に歌を作ります

   君がたびし菓子やくひけむ吾子(アコ)の口赤き涎を垂らしてゐたり

 

[やぶちゃん注:「大阪每日のサンデイ」大阪毎日新聞社の発行していた雑誌『サンデー每日』のこと。

「堇の詩」前の書簡にも出ているが、不詳。筑摩全集類聚版にも注さない。

「隨筆にちよつと君の事を書いた」大正一三(一九二四)年一月六日及び同月十三日発行の『サンデー毎日』に書いた「野人生計の事」の「二 室生犀星」のこと。「野人生計事 芥川龍之介 附やぶちゃん注」を参照されたい。]

 

 

大正一二(一九二三)年十二月三十一日・田端発信・下島勳宛(奉書紙に認め袴を包みて)

 

たてまつるこれの袴は木綿ゆゑ絹の着ものにつけたまひそね

 大つごもり         龍 之 介

 

[やぶちゃん注:歳暮に添えた挨拶の一首。]

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