芥川龍之介「大震に際せる感想」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(3)――
[やぶちゃん注:作成意図や凡例は『芥川龍之介「大震雜記」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(1)――』の冒頭注を参照されたい。]
大震に際せる感想
地震のことを書けと云ふ雜誌一つならず。何をどう書き飛ばすにせよ、さうは註文に應じ難ければ、思ひつきたること二三を記しるしてやむべし。幸ひに孟浪を咎むること勿なかれ。[やぶちゃん注:「まうらう(もうろう)」。とりとめのないこと・いいかげんなこと。]
この大震を天譴と思へとは澁澤子爵の云ふところなり。誰か自ら省れば脚に疵なきものあらんや。脚に疵あるは天譴を蒙むる所以、或は天譴を蒙れりと思ひ得る所以なるべし、されど我は[やぶちゃん注:漠然とした不特定多数の一人称。]妻子を殺し、彼は家すら燒かれざるを見れば、誰か又所謂天譴の不公平なるに驚かざらんや。不公平なる天譴を信ずるは天譴を信ぜざるに若かざるべし。否、天の蒼生に、――當世に行はるる言葉を使へば、自然の我我人間に冷淡なることを知らざるべからず。
自然は人間に冷淡なり。大震はブウルジヨアとプロレタリアとを分たず。猛火は仁人と潑皮を分たず。自然の眼には人間も蚤のみも選ぶところなしと云へるトウルゲネフの散文詩は眞實なり。のみならず人間の中なる自然も、人間の中なる人間に愛憐を有するものにあらず。大震と猛火とは東京市民に日比谷公園の池に遊べる鶴と家鴨とを食はしめたり[やぶちゃん注:「くらはしめたり」。]。もし救護にして至らざりとせば、東京市民は野獸の如く人肉を食ひしやも知るべからず。[やぶちゃん注:「潑皮」(はつぴ)は「無頼の者・ならず者・愚連隊・不良」の意。「トウルゲネフの散文詩」「自然」であろう。私の古い電子化である「ツルゲーネフ 散文詩 中山省三郎譯」を参照されたい。私のブログ・カテゴリ「Иван Сергеевич Тургенев」で中山氏のものも含めて、他の訳者のもの三種でも読める。
日比谷公園の池に遊べる鶴と家鴨とを食はしめし境遇の慘は恐るべし。されど鶴と家鴨とを――否、人肉を食ひしにもせよ、食ひしことは恐るるに足らず。自然は人間に冷淡なればなり。人間の中なる自然も又人間の中なる人間に愛憐を垂るることなければなり。鶴と家鴨とを食へるが故に、東京市民を獸心なりと云ふは、――惹いては[やぶちゃん注:「ひいては」。]一切人間を禽獸と選ぶことなしと云ふは、畢竟意氣地なきセンテイメンタリズムのみ。
自然は人間に冷淡なり。されど人間なるが故に、人間たる事實を輕蔑すべからず。人間たる尊嚴を抛棄すべからず。人肉を食はずんば生き難しとせよ。汝とともに人肉を食はん。人肉を食うて腹鼓然たらば、汝の父母妻子を始め、隣人を愛するに躊躇することなかれ。その後に尙餘力あらば、風景を愛し、藝術を愛し、萬般の學問を愛すべし。
誰か自ら省れば脚に疵なきものあらんや。僕の如きは兩脚の疵、殆ど兩脚を中斷せんとす。されど幸ひにこの大震を天譴なりと思ふ能はず。況んや天譴の不公平なるにも呪詛の聲を擧ぐる能はず。唯姉弟の家を燒かれ、數人の知友を死せしめしが故に、已み難き遺憾を感ずるのみ。我等は皆歎くべし、歎きたりと雖も絕望すべからず。絕望は死と暗黑とへの門なり。
同胞よ。面皮を厚くせよ。「カンニング」を見つけられし中學生の如く、天譴なりなどと信ずること勿れ。僕のこの言を倣す[やぶちゃん注:「なす」。]所以は、澁澤子爵の一言より、滔滔と何でもしやべり得る僕の才力を示さんが爲なり。されどかならずしもその爲のみにはあらず。同胞よ。冷淡なる自然の前に、アダム以來の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷となること勿れ。
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