日本山海名産図会 第一巻 造醸 本文(2) / 日本山海名産図会 本文電子化注~了
釀酒★(さけのもと)【米五斗を「一★」といふ。「一つ仕𢌞(しまい)」といふは、一日、一元づゝ、片た付け行くを、いふなり。其余倚(よはい)余倚[やぶちゃん注:後者は底本では踊り字「〱」。しかし、「余倚」の意は不明。以下の述部を見るに、「その他にオプションで必要とする処理・作業」の謂いであろうか。]は酒造家(さかや)の分限に應ず。】[やぶちゃん注:「★」=「酉」+「胎」。酒造段階での隠語の漢字ではあろう。しかし、実際、この後でも前に出た判読不能字の「※」と同様に「もと」と読んでおり、読者の中には、『「※」と「★」は同じ「酉」+「胎」なのではないか?』と思われる方も多いかと思う。但し、「胎」の字の崩しを見たが、「指」のようになったものは、見受けられないことと、さらに言うなら、現在の底本頁を見て戴きたいのだが、右頁三行目の項名の「釀酒★(さけのもと)」や、割注のごく小さい「一★」の「★」は、はっきりと「酉」+「胎」であるのに、その解説文内の右頁後ろから三行目下から八字目の「※」は、明らかに「酉」+崩した「指」のような字体で彫られてあるのである。彫り師が違うならまだしも、どう見ても、同一人が彫った版木の中で、しかも同じ頁の中で、同じ字をこんなに違った彫り方をするとは、私には思えなかったのである。「字の大きさで違うんじゃない?」と言われるなら、「割注の小さな字は、何故、崩しでないのか?」と逆に問おう。しかし乍ら、叙述の内容からは、確かに、この「※」と「★」は同じ「もと」で別な「もと」とは思われない。しかし、私は本電子化では、あくまで表記には拘って濁音であるべきところも、清音のママなら、そうしてきた。されば、私は「※」と「★」を使い分けておくこととする。しかし、言っている傍から、「※」=「★」であることが証明される一字が出現してしまうのであるが。]
定(しやう)日三日前に米を出し、翌朝(よくてう)、洗らひて、漬(ひた)し置き、翌朝、飯に蒸して、筵へあげて、よく冷やし、半切(はんきり)[やぶちゃん注:「はんぎり」。「半桶」「盤切」とも書き、盥(たらい)の形をした底の浅い桶。「はんぎれ」とも呼ぶ。以下の「其三」に描かれた大きな丸い桶のことであろう。]八枚に配(わか)ち入るゝ【寒酒なれば、六枚なり。】。米五斗に麹一斗七升・水四斗八升を加ふ【増減、家々の法あり。】、半日ばかりに水の引くを期(ご)として、手をもつて、かきまはす、是れを「手元」と云ふ。よるに入りて、械(かひ)にて摧(くだ)く、是れを「やまおろし」といふ。それより、晝夜(ちうや)、一時に一度宛(づゝ)拌(か)きまはす【是れを「仕こと」ゝいふ。】。三日を經(へ)て、二石入の桶へ、不殘、集め収め、三日を經(ふ)れば、泡を盛り上(あぐ)る。是れを「あがり」とも、「吹き切り」とも云なり【此の機(き)を候(うかゞ)ふこと、丹練の妙ありて、こゝを大事とす。】。これを、復た、「※(もと)をろし」の半切二枚にわけて、二石入の桶ともに、三ツとなし、二時にありて、筵につゝみ、凡そ六時許には、其の内、自然の温氣(うんき)を生ずる【寒酒は、あたゝめ、桶に湯を入て、「もろみ」の中へ、さし入るゝ。】を候(うかゞ)ひて、械(かい)をもつて、拌(か)き冷(さま)すこと、二、三日の間(あひだ)、是れ又、一時、拌(かき[やぶちゃん注:ママ。「かく」の誤刻か。])なり。是までを「★(もと)」と云ふ。
酘(そへ)【右※(もと)の上へ、米麹・水を、そへかけるをいふなり。是を「かけ米」、又、「味(あじ)」ともいふ。】
右の※(もと)を、不殘、三尺桶へ集め收め、其の上へ、白米八斗六升五合の蒸飯(むしはん)、白米二斗六升五合の麹に、水七斗二升を加ふ、是を「一★(=※)」[やぶちゃん注:これが「※」=「★」の証拠である。底本のここの左頁の四行目下から十二字目。この字は「酉」の右手(漢字の中央)に「子」の崩しのような字が挟まり、その右手には明らかに「台」があるからである。但し、以下でも字体の識別は行う。]といふなり、同じく晝夜、一時、拌きにして、三日目を「中(なか)」といふ、此の時、是れを、三尺桶二本にわけて、其の上へ、白米一石七斗二升五合の蒸飯、白米五斗二升五合の麹に、水一石二斗八升を加へて、一時拌(か)きにして、翌日、此の半ばを、わけて、桶二本とす。是れを「大頒(おほわけ)と云ふなり。同く、一時拌きにして、翌日、又、白米三石四斗四升の蒸飯、白米一石六斗の麹に、水一石九斗二升を加ふ【八升は「ほんぶり」といふ桶にて、二十五盃なり。】。是れを「仕廻(しまい)」といふ。都合、米・麹とも、八石五斗、水、四石四斗となる。是より、二、三日、四日を經て、氳氣(うんき)[やぶちゃん注:発酵による熱と蒸気。]を生ずるを待ちて、又、拌きそむる程を候伺(うかゞ)ふに、其の機發(きはつ)の時あるを以て、大事(たいし)とす。又。一時拌として、次第に冷まし、冷め終るに至つては、一日、二度、拌とも、なる時[やぶちゃん注:「馴る」か。攪拌しても、発酵が有意に怒らなくなる時か。]を、酒の成熟とは、するなり。是を三尺桶
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした(以下同じ)。キャプションは、
其三
★おろし
である。]
四本となして、凡、八、九日を經て、あげ、桶にてあげて、袋へ入れ、醡(ふね)[やぶちゃん注:この字は「酒を搾る」の意だが、ここでは入れ物の意で用いている。]に滿たしむる事、三百餘より五百までを度(ど)とし、男柱(おとこはしら)[やぶちゃん注:搾酒機の突き出た太い棒。「其五」の右上に雲の下に隠れて少しだけ見えるそれ。]に、數々の石をかさねて、次㐧に絞り、出づる所、淸酒なり。これを「七寸」といふ。澄(すま)しの大桶に入て、四、五日を經て、その名を「あらおり」、又、「あらばしり」と云。是を四斗樽につめて出だすに、七斗五升を一駄として、樽二つなり。凡、十一、二駄となれり。○右の法は、伊丹鄕中(がうちう)一家(か)の法をあらはす而已(のみ)なり。此の余は、家々の秘事ありて、石數(こくすう)・分量等(とう)、各(おのおの)、大同小異(たいとうしやうい)あり。尤(もつと)も、百年以前は八石位より、八石四、五斗の仕込にて、四、五十年前は、精米八石八斗を極上とす。今、極上と云ふは、九石余、十石にも及へり。古今、變遷、これまた、云いつくしがたし。○「すまし灰(はい)」を加ふることは、下米酒(しまひしゆ)・薄酒(はくしゆ)、或ひは*酒(そんじさけ)の時にて[やぶちゃん注:「*」=「罃」-「缶」+「酉」。行程を仕損じた酒の謂いであろう。]、上酒に用ゆることは、なし。○間酒(あひしゆ)[やぶちゃん注:初秋に造る酒。今で言えば、九月下旬の残暑の厳しい折りに醸造する酒を指す。乳酸菌の発酵が容易であるなどのメリットはあったが、強烈な臭気を放ったとされる。]は、米の増し方、むかしは新酒同前に三斗増なれども、いつの頃よりか、一★(もと)の酘(そへ)[やぶちゃん注:「そひ」とも読む。「添」の意で、清酒の醸造過程で、酴(もと)[やぶちゃん注:濁り酒。どぶろく。]を仕込んで、一定期間後に加える、蒸した白米と麹と水との総称。]、五升増、中(なか)の味(み)、一斗増、仕𢌞(しまい)の増、一斗五升增とするを、佳方(かはう)とす。「寒前」・「寒酒」、共に、これに准ずべし。「間酒」は、「もと入レ」より、四十余日、「寒前」は七十余日、「寒酒」、八、九十日にして、酒を、あくるなり。尤も、年の寒暖によりて、増減駈引(かけひき)・日數(かず)の考へあること、専用なり、とぞ。○但し、昔は「新(しん)酒」の前に「ボタイ」といふ製ありて[やぶちゃん注:ウィキの「菩提酛」に詳しい製法が記されてあるので見られたいが、非常に古い醸造法で、『平安時代中期から室町時代末期にかけて、もっとも上質な清酒であった南都諸白のとりわけ奈良菩提山(ぼだいせん)正暦寺(しょうりゃくじ)で産した銘酒『菩提泉(ぼだいせん)』を醸していた』。『時代が下るにつれ、やがて正暦寺以外の寺の僧坊酒や、奈良流の造り酒屋の産する酒にも用いられ』、『室町時代初期『御酒之日記』、江戸時代初期『童蒙酒造記』などにその名を残し、当時の日本酒の醸造技術の高さを物語っている』。『今日でいうザルの一種である笊籬(いかき)を使うことから「笊籬酛」とも呼ばれた』とあり、近年、再現に成功しているそうである。]、これを「新酒」とも云ひけり。今に山家(やまか)は、この製のみなり。大坂などゝても、むかしは、上酒は、賤民の飲物にあらず、たまたま嗜むものは、其家に、かの「ボタイ酒(しゆ)」を釀せしことにありしを、今、治世二百年に及んて、纔(わづ)か其日限りに暮らす者とても、飽くまで飮樂して、陋巷(ろうこう)に手を擊ち、「萬歲」を唱(との)ふ。今、其時にあひぬる有難さを、おもはずんば、あるべからず。
米(こめ)
★米は地𢌞(ちまは)りの古米、加賀・姫路・淡路等(とう)を用ゆ。酘米(そへまい)は、北國(ほつこく)古米、㐧一にて、秋田・加賀等を、よしとす。「寒前(かんまへ)」よりの元は、高槻・納米(なやまい)[やぶちゃん注:前後から見ると、現在の大阪府内にあった地名と推理はするが、ネットでは全くヒットしない。]・淀・山方(やまかた)[やぶちゃん注:並列地名から見て、江戸時代から明治の初頭にかけて美作国大庭郡にあった村名か? 古見村が古見村山方と古見村原方に分村したとされる。ここは個人サイト「民俗学の広場」の「地名の由来」の『「やまがた」の地名』に拠った。]の新穀を用ゆ。
[やぶちゃん注:キャプションは、
其四 酘中大頒(そへなかおほわけ)
である。]
舂杵(うすつき)
酛米(もとまひ)は、一人、一日に四臼(ようす)【一臼(ひとうす)一斗三升五合位。】。酘米(そへまひ)は、一日、五臼、上酒(じやうしゆ)は四臼、極めて精細ならしむ。尤も古杵(ふるきね)を忌みて、これを継(つ)くに、尾張の五葉(ごよう)の木[やぶちゃん注:杵材には樫や檜が用いられるが、マツ類には五葉のものがあり、後者の檜は裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科 Cupressaceae であるから、それか。]を用ゆ。木口(こくち)、窪(くぼ)くなれば、米、大きに損ず故に、臼𢌞(うすまは)りの者、時々に、是を候伺(うかゞ)ふ也。尾張の木質(きしつ)、和らかなるを、よしとす。
洗浄米(こめあらい)
初めに井の經水(ねみづ)[やぶちゃん注:漢字はママ。ここは滞留した古い汚れた水の意であろう。]を汲み涸(か)らし、新水(しんすい)となし、一毫(いちごう)の滓穢(をり)も去りて、極々、潔(いさき)よくす。半切一つに、三人がかりにて、水を更(か)ゆること、四十遍、寒酒は五十遍に及ぶ。
家言(かけ)[やぶちゃん注:醸造業者の専門用語の意であろう。]
○杜氏(とうじ)【○酒工(しゆこう)の長(てう)なり。また、「おやち」とも云。周の時に杜氏の人ありて、その後葉(こうよう)杜康(とこう)といふ者、よく酒を釀(かも)するをもつて、名を得たり。故に擬(なそら)えて号(なづ)く。】
○衣紋(ゑもん)【○麹工の長なり。「『花を作る』の意をとる」と、いへり。一說には、中華に麹をつくるは、架下(たるのした)に起臥して、暫くも安眠なさざること、七日、室口(むろのくち)に「衞(まも)る」の意にて「衞門(えもん)」と云ふか。】
釀具(さかだうぐ)
「半切」、二百枚余【各(おのおの)、一つ、「仕廻(しまい)」に充てる。】。○「酛おろし桶」、二十本余。○「三尺桶」、三本余。○「から臼」、十七、八棹。○「麹盆」、四百枚余。○「甑(こしき)」[やぶちゃん注:日本酒の原料米を蒸すための大型の、蒸籠(せいろ)に似た蒸し器。]は、かならず、薩摩杉の「まさ目」を用ゆ。木理(きめ)より、息の洩るゝを、よしとす。其の余の桶は「板目」を用ゆ。○「袋」は、十二石の醡(ふね)に三百八十位。○「薪」、入用は一酛にて、百三十貫目余なり。
製灰(はいのせひ)
「豊後灰」壹斗に、「本石灰」四升五合、入れ、よく、もみぬき、壺へ入れ、さて、はじめ、ふるひたる灰粕(はいかす)にて、「たれ水」を、こしらへ、「すまし灰」の、しめりにもちゆ。尤も、口傳あり。
なをし灰(はい)
「本石灰」壹斗に、「豊後灰」四升、鍋にて、いりて、しめりを加へ、用ゆ。○「圍酒(かこひさけ)」[やぶちゃん注:一般には、清酒を火入れの後、貯えておくこと。また、その酒を指し、仕込み期間の最後の火入れ工程の後に、一定期間「囲い酒」として貯蔵される。但し、以下の「入梅」とあることから、これは「夏囲(なつがこ)い」で、火入れをした清酒を夏期に貯蔵することで、当時は「夏囲い桶」という真新しい大桶に入れられたが、夏場の保存は困難を極めたであろう。]に火をいるゝは、入梅の前を、よしとす。
味醂酎(みりんちう)
[やぶちゃん注:キャプションは、
其五
もろみを拌(か)く
袋にいれて醡(ふね)に積む
酒「あげすまし」の図
である。]
燒酎十石に糯白米(もちこめ)九石貳斗、米麹二石八斗を、桶壹本に釀す。翌日、械(かい)を加へ、四日目、五日目と、七度ばかり、拌きて、春なれば、廿五日程を期(ご)とすなり。昔は、七日目に拌きたるなり。○「本直(ほんなを)し」[やぶちゃん注:味醂の醪(もろみ)に焼酎や酒精(アルコール)を加えて製した甘い酒。「なおし味醂」「柳陰(やなぎかげ)」などとも称した。]は、燒酎十石に糯白米貳斗八升、米麹壹石貳斗にて、釀法、味醂のごとし。
釀酢(すつくり)
黑米(くろこめ)二斗、一夜、水に漬たして、蒸飯(むしはん)を和熱(くわねつ)の侭(まゝ)、甑(こしき)より、造り桶へ移し、麹六斗、水壹石を投じ、蓋(ふた)して、息の洩れざるやうに、筵(むしろ)・菰(こも)にて、桶をつつみ纒(まと)ひ、七日を經て、蓋をひらき、拌(か)きて、また、元のごとく、蓋(ふた)して、七日目ことに、七、八度宛(づゝ)、拌きて、六、七十日の成熟を候(うかゞ)ひて後(のち)、酒を絞るに同し【酢は、食用の費用は、すくなし。紅粉(へに)・昆布・染色(そめいろ)などに用ゆること、至つて夥し。】これまた、水(すい)・圡(ど)、家法の品、多し。中(なか)にも、和刕小川[やぶちゃん注:現在の大阪府松原市小川か。]・紀の國の粉川(こかわ)[やぶちゃん注:和歌山県紀の川市粉河(こかわ)。]・兵庫北風(きたかぜ)[やぶちゃん注:後注参照。]・豊後舩井(ふない)[やぶちゃん注:不詳。大分県大分市府内町なら行ったことがあるが?]・相州・駿州の物など、名產、すくなからず。
[やぶちゃん注:「兵庫北風」これは地名ではなく、兵庫の海浜部一帯に上古より勢力を持った「北風家」一族の内の、最初に北国廻船(ほっこくかいせん)を開いた北風六右衛門家系の一属とその関係者のことであろう。ウィキの「北風家」によれば、第四十七『代良村の後、本家は』二『家に分かれ、宗家は六右衛門』を『嫡家は荘右衛門』『を代々』、『名乗った。宗家は酢の販売』(☜)を、『嫡家は海運業を主に取扱い、張り合いながら』、『繁栄した。今は生田裔神八社の』一『社とされているが、七宮神社は出自が敏馬神社か長田神社といわれ、元々会下山に北風家が祀っていた。また、菩提寺については』、『元々』、『西光寺(藤の寺)であったが、荘右衛門家は能福寺を新に菩提寺とした。北風家は江戸時代、主要』七『家に分かれ、兵庫十二浜を支配した』。『江戸時代、河村瑞賢に先立』って、寛永一六(一六三九)年に『加賀藩の用命』を受けて、『北前船の航路を初めて開いたのは一族の北風彦太郎である。また、尼子氏の武将山中幸盛の遺児で、鴻池家の祖であり、清酒の発明者といわれる伊丹の鴻池幸元が』、慶長五(一六〇〇)年、『馬で伊丹酒を江戸まで初めて運んだ事跡に続き、初めて船で上方の酒を大量に江戸まで回送し、「下り酒」ブームの火付け役となったのも北風彦太郎である』(☜)。(☞)『さらに、これは後の樽廻船の先駆けともなった。なお、北風六右衛門家の『ちとせ酢』等の高級酢は江戸で「北風酢」と呼ばれて珍重された。また、取扱店では』、「北風酢颪」(きたかぜすおろし)という『看板を出す酢屋もあったという』(☜)とある。]
[やぶちゃん注:以下は底本では、有意な字下げが行われてある。発句を除いて、総て引き上げた。]
袋洗(ふくろあらひ)○新酒成就の後(のち)、猪名川(いなかわ)[やぶちゃん注:伊丹を南北に貫流する。]の流れに、袋を濯(あら)ふ。その頃を待ちて、近郷の賤民、此の洗瀝(しる)を乞(こ)えり。其の味、うすき醴(あまさけ)のごとし。これまた、佗(た)に異なり。俳人鬼貫、
賤づの女や 袋あらひのみつの汁
[やぶちゃん注:死後刊行の明和六(一七六九)年刊の「鬼貫句選」に所収し(本「日本山海図会」は寛政一一(一七九九)年刊)、
伊丹帒洗(ふくろあらひ)
賤(しづ)の女や帒あらひの水の汁
とある。上島鬼貫(うえじまおにつら)は万治四(一六六一)年生まれで、元文三(一七三八)年に没している。]
愛宕祭(あたこまつり)○七月二十四日、「愛宕火(あたこひ)」とて、伊丹本町通りに、燈を照らし、好事(こうす)の作り物など營みて、天滿天神(てんまてんしん)の川祓(かわはらひ)にも、をさをさ、おとること、なし。この日、酒家(さかや)の藏立(くらたて)等(とう)の大(おほひ)なるを見ん、とて、四方より、群集(くんじゆ)す。是れを題して、宗因、
天も燈に醉ていたみの大燈篭
[やぶちゃん注:俳人で連歌師の西山宗因(慶長一〇(一六〇五)年~天和二(一六八二)年)は大坂天満宮連歌所の宗匠であった。]
酒家の雇人(ようにん[やぶちゃん注:当て読み。])、此日より、百日の期(こ)を定めて、抱(かゝ)へさだむるの日にして、丹波・丹後の困人、多く、愊奏(ふくそう)すなり。
[やぶちゃん注:「困人(きうしん)」ここは仕事がなく困っている人で、読みは「窮人(きゆうじん(きゅうじん))」を当てたもの。歴史的仮名遣は誤り。
「輻輳・輻湊」が普通。車の輻(や:放射状に出て車輪を支える部分)が轂(こしき:車輪の中央にある「輻」の集まる部分)に「集まる」の意から、「四方から寄り集まること・物事が一ヶ所に集中すること」を言う。]
[やぶちゃん注:以下、第一巻の最終頁。「伊丹莚包(いたみむしろつゝみ)の印(しるし)」の図版と、「池田薦包(いけだこもつゝみ)の印(しるし)」図版。それぞれ最後に「餘畧」とある。]
[やぶちゃん注:なお、後は本第一巻の標題と木村蒹葭堂孔恭の「序」、及び、第六巻掉尾の「跋」だけを残すが、判読が甚だ困難で(特に後者は難物な上に、文意も採り難い)、暫く、時間がかかる。悪しからず。]
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