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2021/08/14

曲亭馬琴「兎園小説」(正編・第三集) 五馬 三馬 二馬の竒談(1)

 

[やぶちゃん注:以下は例の国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記巻第二下編」に載るものを視認した。吉川弘文館随筆大成版は題名からして「五馬 三馬 二馬」と異なり、細部に異同がある。標題下の作者のそれは、吉川弘文館随筆大成版のものを添えた。またしても、非常に長いので、段落を成形し、分割して示す。読みは一部に留めた。「兎園小説」では、以下は「第三集」となる。

 

   ○五馬 三馬 二馬の竒談   著作堂稿

 陸奧の國伊達郡(だてこほり)箱﨑の農民傳兵衞が子に、松五郞と呼ばれしものは、その性(さが)、馬を好むにより、栗毛の馬を一疋もてり。

 されば、をりをり、乘り走らするに、その秣(まぐさ)飼ふことも、又、撫で洗ひする事も、よろづ、人には任せずして、手づからするを、たのしと、思へり。その馬、既に五歲になりける文政二年己卯[やぶちゃん注:一八一九年。]の冬のころ、松五郞は、病(やみ)わづらひて、その年の十二月十二日に、身まかりぬ。享年二十なりけるとぞ。

 さは、獨子(ひとりこ)の事にしあなれば、親のなげきは、いふべくもあらぬを、貧しくもあらぬ民なれば、松五郞が器用・調度のめでたしと思ひしものは、その亡骸と、もろ共に、みな、只、棺に斂(をさ)めつゝ、家を去ること、二、三町[やぶちゃん注:二百十八~三百二十七メートル。]なる田の畔(くろ)の墓所に送りて、かたのごとくに葬りけり【田舍は亡者を寺に送らず、その所持の田の畔を墓塋[やぶちゃん注:「ぼえい」。墓地。]として葬むること、此わたりには限らず、關東、大かたは、かくのごとし。】。

 されば、松五郞が遣愛の馬は、ぬしの不幸の事に紛れて、誰とて見かへるものもなく、纔(わづか)に抹を與(あたふ)るのみ。

 厩(むまや)に繋ぎ置(おき)たりしに、その次の夜の子の時ばかりに、馬は、にはかに狂ひたけりて、絆をちぎり戶を蹴(け)はなちて、いづことはなく、馳(はせ)出でたり。

 あるじは、さらなり、僕(をとこ)共も、この物音に驚き覺(さめ)て、

「こはいかに。まさしく馬こそはなれたれ。とく、追ひとめよ。」

と罵り騷ぐに、眞夜中の月、鮮やかなれば、松明(たいまつ)を把(と)るまでもなく、索(なは)を腰にし、棒を引提(ひきさげ)て、おのもおのも、追ふ程に、馬は、はやくも、松五郞が墓所の邊(ほとり)に馳せゆきて、其處(そこ)につどひし癖者(くせもの)等を、馳けたふし、踶(ふみ)にじる勢ひ、特に猛くして、當るべくもあらざりけん、矢庭に、四、五人、蹴仆(けたふ)されて、しばしは、起も得ざりし折(をり)、傳兵衞が奴僕等(ぬぼくら)は推(おし)つゞきて、追ひかけ來つ。

 此ありさまに、又、おどろきて、あたりを見るに、松五郞が新墓(あらはか)を發(あばか)れたり。

「扨は。しやつらが所爲(しわざ)にこそ。みな、逃(にが)すな。」

と罵りて、ひとりも漏さず、生捕りけり。

 その時、主人(あるじ)傳兵衞も、やゝ走り來て、驚嘆しつゝ、まづ癖者等(くせものら)を責め問ふに、つゝみ果つべくもあらざれば、

「『なき人の棺の中には、物、あまた、入れられし』といふ風聞に、惡心おこりて、是彼(これかれ)、示し合せつゝ、竊(ひそか)に墓を發く折、この馬、忽(たちまち)、走り來(き)て、某等(それがしら)を踶仆(けたふ)したり。筋骨、痛みて、阿容々々(をめをめ)と搦捕(からめとら)れたりければ、後悔、その甲斐なけれども、命ばかりは助けたまへ。」

と、異口同音に、わびにけり。

 傳兵衞これをうち閒きて、

「この馬、わが子の恩を感じて、その別れを悲(かなし)みけん。かの目よりして、はかはかしく抹だも、食(くは)ざりき。それだに、奇特の事なるに、その身は厩に繫(つなが)れながら、今宵、この盜人等(ぬすひとら)が、わが子の墓を發(あばく)るを、よく知りたるは、奇といふべし。もし、この馬のなかりせば、誰か又、我子(わがこ)の爲に、この辱(はづかっし)めを雪(きよ)むべき。能くこそ、したれ。」

と馬を譽(ほめ)て、感淚を拭ひつゝ、獨、つらつら思ふやう、

『翌(あす)、この事の趣を領主に訴へまうしなば、怨(うらみ)をかへすに似たれども、今、この五人の惡者等(わるものら)は鄰村(りんそん)の百姓にて、面(おもて)を識れるものどもなるに、墓の土こそ掘りおこされたれ、いまだ、棺は發くに至らず。よしなき罪を造らんより、我子の菩提の爲にも。』

とて、その非を譴(せめ)めて、向後(きやうご)をいましめ、そのまゝ放ちかへせりとぞ。

 されば、又、松前の老君は、殊さら、馬を好み給ふに、これらの由を傳へ聞きて、

「われ、其馬を得まくほりす。縱令(たとひ)、他領の百姓なりとも、價(あたひ)は論ぜず。買ひとれ。」

とて、梁川(やながは)にをる家臣等に下知せられたりければ、家臣何某(なにがし)、うけ給はりて、箱﨑に赴きつゝ、

「云々(しかじか)。」

と、かたらふに、傳兵衞、つやつや諾(うべ)なはず、

「千々(ちゞ)のこがねを賜はるとも、この馬のみは、まゐらせがたし。」

と、言葉をはなち、推辭(いなみ)まうして、その子の在りし時にかはらず、寵愛しつ、と聞えたり。

 抑(そもそも)、この一竒譚(いつきだん)は、箱﨑のほとりなる鍼醫(はりい)正宅(しやうたく)といふもの、松前家の太夫(たいふ)の子礪﨑(かきざき)生【字[やぶちゃん注:「あざな」。]は三七。】に消息(せうそこ)して、

「云々。」

と告(つげ)にければ、江戸の邸(てい)にも、はやく聞えて、老君にも、しろし召され、次の年の睦月の末に、その臣長尾友藏【後に名を改て、所左衞門といふ。】を以て、解に告させたまひしかば、「雜記」中に書きつけおきしを、今、又、こゝに抄出せり。おもふに、此松五郞が遣愛の馬は、かの宋の周密(しうみつ)が「齊東野語(さいとうやご)」【卷七。】に載せたりし、畢再遇(ひつさいぐう)が遺愛の名馬「黑大蟲(こくだいちゆう)」にも、一しほ、優(まさ)りて、多く得がたき美譚(びだん)といはん歟。世に人の老僕たる者、忠臣節義の心薄く、「ばか」の馬にだも、恥ぢざらんや。この一條は、勸懲(かんちよう)の端(はし)なるべければ、はじめに出しつ[やぶちゃん注:「いdしつ」。]【右「五馬」之一。】

 

[やぶちゃん注:「伊達郡(だてこほり)箱﨑」福島県伊達市箱崎(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「松前の老君」当時の蝦夷地にあった松前藩藩主は松前章広であるが、先代の父は隠居して生きていたので、松前道広(宝暦四(一七五四)年~天保三(一八三二)年)である。ウィキの「松前道広」によれば、文政三(一八二〇)年に『医師の滝沢宗伯が藩主章広出入りの医者として新規に』江戸の藩邸に『召し抱えられた。この宗伯は』、当時、既に「椿說弓張月」や「南總里見八犬傳」などで、『著名であった曲亭馬琴(滝沢馬琴)の子供』瀧澤興繼(おきつぐ:本「兎園會」では「琴嶺舍」とする。但し、その殆どは父馬琴の代筆であった)『である。当時馬琴は生活が安定しておらず、また』、『武家の出身である馬琴は滝沢家の復興を悲願としていた。この医師である息子の登用により、馬琴の願いが叶った形となったが、この雇用は馬琴の愛読者であった隠居の道広による好意に拠るものであった』(但し、馬琴が期待をかけた彼は、病気がちで、天保六(一八三五)年に数え三十九で亡くなってしまう)とあり、この話が松前藩を経由して馬琴が知り得た内幕がよく判る。因みに、馬琴が武家の出というのは事実で、ウィキの「曲亭馬琴」によれば、馬琴は明和四(一七六七)年に江戸深川(現在の江東区平野一丁目)の旗本『松平信成の屋敷において、同家用人』『滝沢運兵衛興義、門夫妻の五男として生まれ』た。名は「興邦」であったが、後年、「解(とく)」と改めた。安永四(一七七五)年、馬琴九歳の時、『父が亡くなり、長兄の興旨が』十七『歳で家督を継いだが、主家は俸禄を半減させたため、翌安永』五(一七七六)年に『興旨は家督を』十『歳の馬琴に譲り、松平家を去って』、『戸田家に仕えた。次兄の興春は、これより先に他家に養子に出ていた。母と妹も興旨とともに戸田家に移ったため、松平家には馬琴一人が残ることになった』。『馬琴は主君の孫』『八十五郎(やそごろう)に小姓として仕えるが』、『癇症の八十五郎との生活に耐えかね、安永』九(一七八〇)年、十四『歳の時に松平家を出て』、『母や長兄と同居した』。天明元(一七八一)年、『馬琴は叔父のもとで』、『元服して左七郎興邦と名乗った。俳諧に親しんでいた長兄・興旨(俳号・東岡舎羅文)とともに越谷吾山に師事して俳諧を深めた』。十七『歳で吾山撰の句集』「東海藻」に三『句を収録しており、このとき』、『はじめて馬琴の号を用いている。天明』七(一七八七)年、二十一『歳の時には俳文集』「俳諧古文庫」を『編集した。また、医師の山本宗洪、山本宗英親子に医術を、儒者・黒沢右仲、亀田鵬斎に儒書を学んだが、馬琴は医術よりも儒学を好んだ』。『馬琴は長兄の紹介で戸田家の徒士になったが、尊大な性格から長続きせず、その後も武家の渡り奉公を転々とした。この時期の馬琴は放蕩無頼の放浪生活を送っており、のちに「放逸にして行状を修めず、故に母兄歓ばず」』『と回想している。天明』五(一七八五)年)、『母の臨終の際には馬琴の所在がわからず、兄たちの奔走でようやく間に合った。また、貧困の中で次兄が急死するなど、馬琴の周囲は不幸が続いた』。寛政二(一七九〇)年、二十四『歳の時に山東京伝を訪れ、弟子入りを請うた。京伝は弟子とすることは断ったが、親しく出入りすることを』許し、寛政三(一七九一)年正月には、『折から』、『江戸で流行していた壬生狂言を題材に「京伝門人大栄山人」の名義で黄表紙』「盡用而二分狂言(つかひはたしてにぶきやうげん)」を『刊行、戯作者として出発した。この年、京伝は手鎖の刑を受け、戯作を控えることとなった。この年』の『秋、洪水で深川にあった家を失った馬琴は京伝の食客となった』とある。

「梁川(やながは)」福島県伊達市梁川町。ここは幕末には松前藩領であった。

「齊東野語(せいとうやご)」宋末元初の学者周密(一二三二年~一二九八年:官人であったが、宋の滅亡後は節を守って仕官せず、泗水潜夫とも号して作詩・著作に耽った)が書いた随筆。なお、この語は一般名詞でもあり、「齋東野人語」の略。「旧斉国東部(現在の山東省)の田舎者の野卑で下品な言葉遣い」の意から、田舎びた言葉、転じて、信ずるに足りない下品で愚かな話の意でもある。

『畢再遇(ひつさいぐう)が遺愛の名馬「黑大蟲(こくだいちゆう)」』「中國哲學書電子化計劃」こちらから影印本で読める。]

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