曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 五馬 三馬 二馬の竒談(4)
〇又、一奇事あり。文政五年壬午[やぶちゃん注:一八二二年。]の春三月廿一日、品川大木戶の西の方(かた)、高輪の初の町の海邊(うみべ)にて、荷を負(おは)せたりける馬を、杭に繫ぎ置(おき)たりしに、空車を推すものゝ、走りて其處(そこ)を過ぎ(よぎり)しかば、この馬、いたく驚きて、飛あがり、飛あがり、兩三度、狂ふ程に、ゆくりなく、杭の頭に、馬の腹を衝(つき)あてたり。其(その)勢(いきほひ)や、はげしかりけん、忽ち、腹を突破(つきやぶ)りて、背までぞ、拔けたりける。
馬は、頻に苦しみて、いよいよ狂ひ騷ぐ程に、終には杭を推し折りけり。
その時、馬奴(まご)、走り來て、杭を拔かんと、立ちよりしを、なまじひに、馬に踶(け)られて、
「阿。」。
と叫けびつゝ、仆(たふ)れたり。
見る人、あわて、まどふのみ。おそれて、近づくものも、なし。
とかくする程に、馬は、やうやく、狂ひつかれて、そが儘に、死にき。
馬奴は、なほ、半死半生なりけるを、その町より轎(かご)に乘せて、宿所へ送り遣(つかは)しけり。
こは、目黑のほとりより、牽(ひき)もて來つる馬なり、とぞ。
予が相識(あひし)れる豪家(がうか)の老僕(をとな)、
「この日、高輪なる薩摩侯の屋鋪(やしき)へまゐるをり、親しく目擊したり。」
とて、おなじ月の廿六日に、予が爲に、いへり。
これも怪有(けう)なる事にあらずや【右、「五馬」之四。】。
[やぶちゃん注:この悲惨な死を遂げた馬も、前に注した「頽馬(たいば/ぎば)」に襲われたものと思われる。
「品川大木戶の西の方(かた)、高輪の初めの町の海邊(うみべ)」東海道から江戸府内の入口及び南の出入口として設けられた高輪大木戸(宝永七(一七一〇)年設置)。東京都港区高輪二丁目に遺跡が残る(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。但し、「古地図 with MapFan」で見ると、大木戸は完全に江戸湾岸直近にあり、この近くの海辺の「高輪の初」め「の町」というのは、南南西直近の「高輪北町」で、「西」というのは、あまりよい表現とは言えない。この中央附近に当たる。
「高輪なる薩摩侯の屋鋪(やしき)」現在は東京都品川区東大井であるが、位置関係から見て、「旧薩摩鹿児島藩島津家抱屋敷跡」がそれであろう。]
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