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2021/08/31

曲亭馬琴「兎園小説」(正編・第五集) 古狸の筆蹟

 

   ○古狸の筆蹟

世に奇事怪談をいひもて傳ふること、多くは狐狸のみ。貒、狢、猫の屬ありといへども、これに及ばず。思ふに狐の人を魅(バカ)す事、甚、害あり。狸の怪は、しからず。かくて古狸の、たまたま書畫をよくすること、世人の普くしるところにして、已に白雲子の蘆雁の圖は、寫山樓の藏にあり、良恕のかける寒山の畫は、蘐園主人、示されき。その縮本、今、載せて「耽奇漫錄」中に收めたり。これまさしく老狸の囮けるものにして、諸君と共に目擊する所なり。しかるに、その書をかけることを、予、甞て聞けるは、武州多摩郡國分寺村、名主義兵衞といふ者の家に、狸のかきたりし筆跡あり。三社の託宣にて、篆字、眞字、行字をまじへ、文章も違へる所ありて、いかにも狸などの書たらんと見ゆるものなるよし、これは狸の、僧のかたちに化けて、此家に止宿し、「京郡紫野大德寺の勸化僧にて無言の行者」と稱し、用事は、すべて、書をもて、通じたり。邊鄙の事故、有り難き聖のやうにおもひて、馳走して留めたり、といふ。その後、武藏の内にて、犬に見咎められて、くひ殺され、狸の形をあらはしゝとのことなりし、とぞ。その頃、此事を人々にも語りしに、友人鹿山の、「同日の談、あり。」とて、いへらく、「予、往年、鎌倉に遊びしとき、川崎の驛に止宿し、問屋某の家に藏する所の『狸の書』といふものを見たり。『不騫不崩南山之壽』と書けり。その書體、八分にもあらず。眞行にもあらず。奇怪、言ふべからず。いかにも『狸の書』といふべし。問屋の話に、『鎌倉の邊の僧のよし』にて、其あたりを勸化せし事、五、六年の間なり。果は、鶴見・生麥の邊にて犬に食はれしよし、此事は、さのみ、久しき事にあらず。予が遊びし十年も前の事なり。」といふ。此二條、その年月を詳にせずといへども、今その墨跡の、現に、その家に存したれば、疑ふベからず。

[やぶちゃん注:以下の一段は、底本では全体が二字下げ。]

因に云、「五雜俎」曰、『狐陰類也。得陽乃成。故雖牡狐必托之女以惑男子也。』といへり。吾邦にも、むかしより、とかくに狐は婦人に化けたるためし、多かり。しかるに、狸は、いかなる因緣かありけん、茂林寺の守鶴を始めとして、いつも、いつも、法師の姿になれるも、をかしからずや。

[やぶちゃん注:再び行頭に戻る。]

又、いとちかき年に、一奇事あり。或人の筆記に、文化四年丁卯、ある人のもとにて、狸のかける書といふものを見たり。

此書をもらひし書通、あり。

[やぶちゃん注:以下、底本では、「宇兵衞樣」まで全体が二字下げ。]

此間、御話申上候たぬきの事、被仰下致承知候。則書付入御覽候。乍然是は此方にて願

 

Tanukinohisseki

 

[やぶちゃん注:底本の図を底本と同じ位置に配した。白抜きの大きな文字は恐らくは「竹」の崩しである(後に電子化する著作堂馬琴の附記を参照)。左下に「万十才」或いは「百十才」(後者か)「田ぬき」とある。長寿を言祝ぐものか。]

 

掛致候間、願之叶候と申事にも無之、あの方へ參り、直に、たぬきへ願申候と申事に御座候間、此段、篤と御相談被成候て、御願かけ可被成候。委細は左之通御座候。

  下總國香取郡大貫村藤堂和泉守樣御陣屋

          陣屋奉行 猿山源兵衞

               忰 要 介

          代  官 增田武四郞

右之所に御座候。成田へ御參り候道より、餘ほどより候由、江戶より、廿二、三里、御座候由、成田之道にて承り候得共、人々存罷在候よし、

 先方へ參り候ても、みだりには、たぬきに逢候事、出來不申候。

  江戶藥硏ぼりにて みの田吉右衞門當時隱居 有甫

右之仁、如何の譯やら、たぬきと懇意之由。下谷之去る御屋敷方より、先日、人被遣候節、「右有甫より、手紙もらひて參り候。」と申事、御座候。是は、只一通り見物に參るにて、願かけには無御座候。咄之通、至て、奇怪之咄、御座候。近所之者抔は「病氣。」と申し、「願ひ參候ものも、見かけ候。」と申事故、御人にても、被遣候はゞ、右之有甫より手紙もらひ不申候而者、陣屋之事に御座候間、内へは入申間敷被存候。外に餘り知れ不申樣致し候よしに付、江戶より參候と申候而者、中々、たぬき殿へ逢せ候事、出來間敷候間、此段、態々、御考、御願かけ可被成候、やがて、神に祭り候と申事にて、「實見大明神」と申名を付候て、祭り可申と申事之由、咄承り申候。

 眞に右之通、御座候。右之名にて願掛可被成候。

    三月朔日當賀     中 久 喜

       宇兵衞樣

[やぶちゃん注:次の段は行頭から。]

右一條、いと近き事ながら、世上に知らるゝを嫌ひて、深く祕めかくしゝにや。噂をだに聞かざりし。

[やぶちゃん注:以下、底本では、全体が最後まで二字下げ。]

附けて云、中橋にすめる醫生の、いとも、狸を好める癖ありて、みづから、名を「狸庵」としも、號のれる[やぶちゃん注:「なのれる」。]人ありて、書に、畫に、何くれのものにても、「狸。」とだに、いへば、求め得て、藏め、もたるよし、聞けり。且、「そのこと、しるしたる隨筆めくもの、あり。」といへど、予は、いまだ見るに及ばず。これらの事も載せたりや、しらず。

   文政乙酉[やぶちゃん注:文政八(一八二五)年。]五月朔     山崎美成記

[やぶちゃん注:「貒、狢」先行する「むじな・たぬき」の私の注を参照されたい。

「白雲子」不詳。

「寫山樓」南画家谷文晁(宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四一)年)の号。

「良恕」後陽成天皇の弟で天台座主(就任は寛永十六年)となった良恕入道親王(天正二(一五七四)年~寛永二〇(一六四三)年)和歌・書画に優れた。

「寒山の畫」伝承で実は狸が良恕に化けて描いたとする「寒山図」があった記録がある。サイト「浮世絵文献資料館」の「古画備考」こちらの「良恕」の条を見られたい。

「蘐園」(けんゑん)は荻生徂徠の別号。

『「耽奇漫錄」中に收めたり』これ(国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該図)。次の頁に短い説明が載るが、前注のリンク先にある「江州相原郡今益田村」(旧近江国野洲郡相原庄で、現在の滋賀県野洲市大篠原(グーグル・マップ・データ。以下同じ)を中心とした一帯か。しかし「今益田」も「上野原」も見当たらない)が一致する。こ奴も、以下のケースと同じく、後に、その村の近くの「上野トイフ原ニテ大」(=犬)「ニ喫殺」(くひころ)「サレテ其古狸ノカセシヿ」(こと)「ヲ知ルト云」とある。

「武州多摩郡國分寺村」現在の東京都国分寺市

「三社」伊勢神宮・石清水八幡宮・賀茂神社或いは春日大社。別に、「さんじや」で東京都台東区浅草の浅草神社の俗称。同神社は江戸時代まで「三社権現」「三社明神」と称していた。

「友人鹿山」不詳。

「不騫不崩南山之壽」所謂、「南山之壽」(なんざんのじゅ)。「南山」は終南山(陝西省にあり、一般的には秦嶺山脈の中央附近を指す。道教の発祥の地の一つであり、仏教の南山律宗・華厳宗・三論宗の発祥の地でもあって、宗教を超えた霊地として知られる)その終南山が永久に変らないように、「長寿がいつまでも続くことを願う」語とされる。原拠は「詩経」の「天保」の一節「如南山之壽、不騫不崩」(南山の壽のごとく、騫(か)けず、崩れず。)に基づく。「騫」はここでは「缺」の意。

「八分」(はつぷん(はっぷん))で、漢字の書体の一種の名である「八分体」。隷書の一種で、漢代に蔡邕(さいよう)が、或いは、秦代に王次仲が創り出したとされる。その書体が「八」の字が分散しているように見えるところから名づけられたとも、また、篆書が二分ほど、隷書が八分ほど混ざった書体であることから名づけられたとも言う。「八分字(はふじ)」「八分書」「八分体」とも呼ぶ。

「眞行」「眞」は楷書、「行」は行書。

「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。ここに引かれる以下は、巻九「物部一」の以下の一節の部分。

   *

狐千歲始與天通、不爲魅矣。其魅人者、多取人精氣以成内丹。然則其不魅婦人、何也。曰、「狐、陰類也。得陽乃成。故雖牡狐、必托之女。以惑男子也。然不爲大害、故北方之人習之。南方猴多爲魅、如金華家貓、畜三年以上、輒能迷人、不獨狐也。

   *

この引用部は「狐は陰の類なり。陽を得て、乃(すなは)ち、成れり。故に、牡狐と雖も、必ず、之れ、女に托して、以つて、男子を惑はすなり。」であろう。

「茂林寺の守鶴」このために、急遽、本早朝より六時間ほどかけて「甲子夜話 卷三十五 十五 分福茶釜」を電子化注したので、そちらを見られたい。

「文化四年丁卯」一八〇七年。本発表は文政八(一八二五)年五月一日。

「書通」(しよつう)は「書簡の遣り取り」の意。

以下の地下文書の書簡は、一部が非常にまどろっこしく、意味がとり難い部分があるので、書き直しておく。書簡の切れと思う箇所に「*」を入れた。

   *

此の間、御話申し上げ候ふ「たぬき」の事、仰せ下されしは、承知致し候ふ。則ち、書付、御覽に入れ候ふ。然りながら、是れは、此の方にて、願(ぐわん)掛け致し候ふ間、之れ、願ひ叶ひ候ふと申す事にも、之れ、無く、あの方へ參り、直(ぢき)に、「たぬき」へ願ひ申し候ふと申す事に御座候ふ間、此の段、篤(とく)と御相談成され候ふて、御願(ごくわん)かけ成らるべく候ふ。委細は左の通りに御座候ふ。

  下總國香取郡大貫村藤堂和泉守樣御陣屋

          陣屋奉行 猿山源兵衞

               忰 要 介

          代  官 增田武四郞

   *

この「香取郡大貫村」は現在の千葉県香取郡神崎町(こうざきまち)大貫。「忰」は猿山源兵衛の「せがれ」。若くて、見習い中なのであろう。「藤堂和泉守樣御陣屋」とあるのは、芭蕉に因みある伊賀国の津(藤堂)藩は、飛び地領として、元和三(一六一七)年に下総国香取郡の十四ヶ村三〇〇〇石を与えられていたことによる出先役所である。

   *

右の所に御座候ふ。成田へ御參り候ふ道より、餘ほどより候ふ由、江戶より、廿二、三里、御座候ふ由、成田の道にて承り候得(さうらえ)ども、人々、罷り在り存じ候ふよし。

 先方へ參り候ふても、みだりには、「たぬき」に逢ひ候ふ事、出來申さず候ふ。

  江戶藥硏ぼりにて みの田(みのだ)吉右衞門 當時 隱居 有甫(いうすけ)

   *

右の仁(じん)、如何(いかなる)の譯(わけ)やら、「たぬき」と懇意の由。下谷の、去る御屋敷方より、先日、人遣はされ候ふ節、「右、有甫より、手紙、もらひて參り候。」と申す事、御座候ふ。是れは、只、一通り、見物に參るにて、願かけには御座無く候ふ。咄(はなし)の通り、至つて、奇怪の咄、御座候ふ。近所の者抔は、「病氣。」と申し、「願ひ參り候ものも、見かけ候ふ。」と申す事故(ゆゑ)、御人にても、遣はされ候はゞ、右の有甫より、手紙もらひ申さず候ふては、陣屋の事に御座候ふ間、内へは入れ申すまじく存じ候ふ。外(そと)に餘り知れ申さず樣(やう)致し候ふよしに付き、「江戶より參り候」と申し候ふては、中々、「たぬき殿」へ逢せ候ふ事、出來まじく候ふ間、此の段、態々(わざわざ、御考へ、御願(ぐわん)かけ成らるべく候ふ。「やがて、神に祭り候ふ。」と申す事にて、『「實見大明神」と申す名を付け候ふて、祭り申すべし。』と申す事の由、咄、承り申し候。

 眞に右の通り、御座候。右の名にて、願掛け、成らるべく候ふ。

    三月朔日當賀     中 久 喜

       宇兵衞樣

   *

「中橋」(なかばし)は恐らく、日本橋と京橋との中間にあった堀割に架かっていた橋で、安永三(一七七四)年には既に埋め立てられて「中橋広小路」という町となっていた。『盛り場として栄え、諸国の芸人がここを稼ぎ場として集ま』っていた場所という。現在の八重洲通りと中央通りの交差する附近こちらの解説に拠った)。]

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