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2021/08/15

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 五馬 三馬 二馬の竒談(3)

 

〇又、一竒談あり。武藏國入間郡(いるまのこほり)河越の城下なる石原の里人(さとびと)に、增田半藏と云ふものあり。其性(さが)、俠氣(けふき)あるものなれば、人の爲には骨を折(をり)て、貨材(たから)をも惜しとせず。されば、親に愛を失ひし不肖の子、良人(おつと)に飽(あか)れて去られし妻、或(あるひ)は、若人(わかうど)の物あらがひしたる、或(ある)は、男女(なんいよ)の癡情によりて相攜(あひたづさへ)て奔(はし)りし類(たぐひ)も、

「たのむ。」

と云へば、身に引(ひき)うけて、必、和睦をとり結ばせて、その本(もと)にをさむるを、よにおもしろき事に思へり。

 しかるに、文政四年辛巳[やぶちゃん注:一八一九年。]の春、ある夜、あやしき夢を見たり。

 譬(たとへ)は、一匹の良馬(りやうば)、忽然と半藏が枕に立(たち)て、さながら、人のもの云ふ如く、いとうれはしげに、告(つげ)ていふやう、

「それがし、初(はじめ)は、何がし侯の乘馬(じやうめ)にて候ひしを、後(のち)、故ありて、馬商人(うまあきひと)の何某(なにがし)に買(かひ)とられ、遂に又、賣(うり)かえられて[やぶちゃん注:「え」はママ。]、果(はて)は農家の駄馬となれり。この故に、水田を鋤(すき)ては泥に塗(まみ)れ、糞土(ふんど)を負(おふ)ては穢(けがれ)に犯さる。百折千磨の艱苦(かんく)によりて、いく程もなく斃(たふ)れたるわが亡は、榎の木野に、擡出(もたげいだ)して棄(すて)られたり。かくて屠兒(とじ)に皮を剝(はが)れ[やぶちゃん注:ママ。]、鳶・鴉に宍(しゝむら)を啖(くは)はれて、只、よのつねなる駄馬にひとしき死ざまをしつる事、耻(はぢ)て、且、歎くにも、あまりあり。願ふは、和君(わきみ)、愍(あはれ)みて、我が亡骸を埋(うづ)め玉へ。我身には、よき玉あり。そはなき骸の背簗(せなか)のあたり、隆(たか)き所にあらんずらん。聯(いさゝか)これを報とす。探りとり玉へかし。」

と、云ふか、と思へば、覺(さめ)にけり。

 半藏、驚き、あやしみて、半信半疑しながらも、天明(よあけ)て、その野にゆきて見るに、果して、馬の屍(しかばね)あり。いはれしあたりを搔撈(かきさ)るに、既にして、玉を獲(え)たり。其大さ、毬(まり)の如し。

 則、これ、「鮨答(さてふ)」なり。俗には「へいさらばさら」といふ歟。西域の人、尤、至寶とす。密呪(まじなひ)して、雨を禱(いの)るもの、是のみ。

 半藏、既に玉を獲て、里人によしを告げ、

「その馬の亡骸を葬らん。」

とて、議する程に、近鄕の民、傳へ聞きて、力を勠(あは)せ、錢を集め、遂に石原の町、觀音寺に葬りて、上に建つるに碑をもてし、稱(たゝ)へて「馬頭觀世音」といふ。碑銘は、則、同鄕の士小島蕉園(こじましやうゑん)の創するところ、今、錄する事、左の如し。

[やぶちゃん注:以下の碑銘は底本では訓点(送り仮名を含む)が付されてあるが、今までは平然と附してきたのだが、実は私は元国語教師として、横書きの漢文に訓点を打つことに、激しい嫌悪感がある。ここでは白文(但し、句読点は残した)で示し、直後に底本の訓点に従って書き下したものを添えた。

   *

馬靈誌 幷(ならびに) 銘

天地之大。庶物之夥。有足稱怪者聖人特不語耳。不可謂無也。河肥石原里。有増田半藏者。夢一良馬來謂曰。我本侯家乘馬得寵久矣。後有故獲於商人家。又轉貨農家。耕田駄糞。體羸力竭。無幾而斃。棄之榎野。獸工剝皮。烏鳶啄肉。竟莫異於凡馬之死也。願子埀憐瘞之。我有良玉。在吾屍背隆然處。聊以報子。窹而異焉。往視果有馬屍。獲玉大如毬。所謂𩿞答也。乃謀所以葬之。近里傳聞。𢬵資勠力。葬諸里中觀音寺建碑其上。稱以馬頭觀音云。聞半藏性任俠。好趨人急。意駿馬之靈。知之來託也。可不謂怪乎。余因某請略記來由。係以銘。銘曰。

   生一獲寵 可謂遇伯樂之知

   死祀以佛 鹽車之困彼一時

  文政年春三月     小島蕉園誌

 

[やぶちゃんの書き下し文:読みは振られていないので、私が推定で歴史的仮名遣で添えた。句点は一部を読点に代え、一部で読点を追加した。

馬靈誌幷(ならびに)銘

天地の大、庶物の夥(おびただし)き、怪と稱するに足る者、有り、聖人、特に語らざるのみ。無しと謂ふべからざるなり。河肥(かはごえ)なる石原の里に、増田半藏といふ者、有り。夢に一(いとつ)の良馬(りやうめ)、來(きたり)て謂(いひ)て曰(いはく)、「我は、本(もと)、侯家の乘馬、寵を得ること、久し。後(のち)、故(ゆゑ)有(あり)て、商人家に獲(と)られ、又、農家に轉貨(まはしうり)やられ、田を耕し、糞(くそ)を駄(だ)し、體、羸(つか)れ、力、竭(つき)て、幾(いくば)くも無(なく)して斃(たふ)る。之(これ)、榎野(えのきの)に棄(すて)て、獸工、皮を剝(む)き、烏・鳶、肉を啄(ついば)む。竟(つひ)に凡馬の死と異なる莫(な)し。願くは、子、憐(あはれみ)を埀れ、之を瘞(うづ)めよ。我に良玉(りやうぎよく)あり。吾(わが)屍(しかばね)の背(せ)、隆然(りゆうぜん)たる處に在り。聊(いささか)、以、子(し)の報(むくは)ん。窹(めざめ)て、焉(これ)を異(あやし)み、往(ゆき)て視るに、果して、馬屍(むまのかばね)有り。玉の大(おほい)さ毬(まり)のごとくなるを獲(とり)たり。所謂、「𩿞答(さたう)」なり。乃(すなはち)、之を葬(はふむ)る所以(ゆゑん)を謀るに、近里、傳へ聞(きき)て、資を𢬵(わ)け、力を勠(あは)せ、諸里中の觀音寺に葬(はふ)り、碑を其の上に建て、稱するに「馬頭觀音」を以てと云ふ。聞(きく)、半藏、性(しやう)、任俠、好(このみ)て人の急(きふ)に趨(おもむ)く。意(おも)ふに、駿馬の靈、之を知(しり)て、來り、託せしなり。怪と謂はざるべきか。余、某(なにがし)の請(こひ)に因(より)て、來由を略記し、係(つな)く[やぶちゃん注:「つなぐ」であろう。]に銘以[やぶちゃん注:「銘を以つてす」]。銘に曰(いはく)、

   生(せい)には 一たひ 寵を獲たり

   伯樂の知に遇へりと 謂ふべし

   死して 祀るに 佛を以てす

   鹽車(えんしや)の困(こん) 彼(か)も一時(いつとき)なり

  文政辛巳(かのとみ)年春三月     小島蕉園誌(しるす)

   *

非常に読み易い碑文である。一点だけ注しておくと、銘の最後「鹽車之困」は吉川弘文館随筆大成版では『塩車之因』であるが、これは「戰國策」の「楚策」中に出る「夫、驥之齒至矣。服鹽車而上太行。」(「夫れ、驥(き)[やぶちゃん注:駿馬。]の齒(よはひ)至れるも、而太行(たいかう)[やぶちゃん注:山脈の名。]の上にて鹽車に服す。」)による。「駿馬として最もいい状態に成長したにも拘わらず、伯楽がいないために見出されることなく、太行山脈の上であたら塩運びの車を引くのに使われている。」に基づく故事成句で、「才能のある者が世に認められないでいること」の喩えとしてある「驥、塩車に服す」或いは「塩車の憾(うら)み」「驥も櫪(れき)に伏す」などという成句が知られる、それを述べたものであるから、私は吉川弘文館随筆大成版の「因」は誤りで、「困」が正しいと判断した。

「文政辛巳(かのとみ)年春三月」文政四(一八二一)年の旧暦三月一日はグレゴリオ暦では同年四月十一日である。暖かな春の光が馬頭観音と、この碑文に射している。]

 

辛巳の夏六月二十七日、予、この寫本を獲(え)て、聞くこと、上にしるすがごとし。傳寫の誤(あやまり)多かりしを、意をもて、僅(わづか)に是を補ひ、㸃を加へて語勢をたすく。文は雄固(ゆうこ)に似ざれども、その事は、これ、實なるべし【右、「五馬」之三。】。

 

[やぶちゃん注:「武藏國入間郡(いるまのこほり)河越の城下なる石原」現在の埼玉県川越市石原町附近であろう(グーグル・マップ・データ)。

「鮨答(さてふ)」「へいさらばさら」「𩿞答(さたう)」現行では一般には「鮓答」(さとう)と表記する。各種獣類の胎内結石或いは悪性・良性の腫瘍や免疫システムが形成した異物等を称するものと思われ、漢方では現在でも高価な薬用とされているようである。私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら) (獣類の体内の結石)」の注を読んで戴くのが一番、手っ取り早い。「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗寳(いぬのたま) (犬の体内の結石)」もある。古い記事では、根岸鎭衞の「耳嚢 巻之四 牛の玉の事」(オリジナル詳細注と現代語訳附き)があり、比較的新しいものでは、「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(6:牛)」が参考になろう。

「觀音寺」天台宗高澤山妙智院観音寺(本尊は聖観音像)として埼玉県川越市石原町一丁目に現存する。裏が見えないので本碑銘があるかどうかは判らないが、サイド・パネルの写真に「馬頭觀音菩薩」と彫った碑の正面写真も見つかった。いつか訪ねてみたい。

「小島蕉園」(明和八(一七七一)年~文政九(一八二六)年)は武士。幕臣(因みに、彼の父は狂歌師として「唐衣橘洲」(からころもきっしゅう)の名でとみに知られた田安徳川家家臣小島恭従(たかつぐ)である)。文化二(一八〇五)年、田安領甲斐田中の代官となり、仁政で領民の信頼を受けた。同四年、職を辞し、江戸で町医者となったが、文政六(一八二三)年、悪政のために一揆が発生していた一橋領遠江相良(さがら)の代官を命ぜられた。因みに、彼は、江戸四谷忍原横町の生まれであるから、この文中の「同鄕の士」というのは、曲亭馬琴の添え書きしたものである。こういう仕儀は気に入らねえな。]

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