芥川龍之介「廢都東京」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(5)――
[やぶちゃん注:作成意図や凡例は『芥川龍之介「大震雜記」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(1)――』の冒頭注を参照されたい。]
廢 都 東 京
加藤武雄樣。東京を弔ふの文を作れと云ふ仰せは正に拜承しました。又おひきうけしたことも事實であります。しかしいざ書かうとなると、匇忙の際でもあり、どうも氣乘りがしませんから、この手紙で御免を蒙りたいと思ひます。
應仁の亂か何かに遇つた人の歌に、「汝(な)も知るや都は野べの夕雲雀揚るを見ても落つる淚は」と云ふのがあります。丸の内の燒け跡を步いた時にはざつとああ云ふ氣がしました。水木京太氏などは銀座を通ると、ぽろぽろ淚が出たさうであります。(尤も全然センテイメンタルな氣もちなしにと云ふ斷り書があるのですが)けれども僕は「落つる淚は」と云ふ氣がしたきり、實際は淚を落さずにすみました。その外不謹愼の言葉かも知れませんが、ちよいともの珍しかつたことも事實であります。
「落つる淚は」と云ふ氣のしたのは、勿論こんなにならぬ前の東京を思ひ出した爲であります。しかし大いに東京を惜しんだと云ふ訣ぢやありません。僕はこんなにならぬ前の東京に餘り愛惜を持たずにゐました。と云つても僕を江戶趣味の徒と速斷してはいけません、僕は知りもせぬ江戶の昔に依依戀戀とする爲には餘りに散文的に出來てゐるのですから。僕の愛する東京は僕自身の見た東京、僕自身の步いた東京なのです。銀座に柳の植つてゐた、汁粉屋の代りにカフエの殖ふえない、もつと一體に落ち着いてゐた、――あなたもきつと知つてゐるでせう、云はば麥稈帽はかぶつてゐても、薄羽織を着てゐた東京なのです。その東京はもう消え失うせたのですから、同じ東京とは云ふものの、何處か折り合へない感じを與へられてゐました。それが今焦土に變つたのです。僕はこの急劇な變化の前に俗惡な東京を思ひ出しました。が、俗惡な東京を惜しむ氣もちは、――いや、丸の内の燒け跡を步いた時には惜しむ氣もちにならなかつたにしろ、今は惜しんでゐるのかも知れません。どうもその邊はぼんやりしてゐます。僕はもう俗惡な東京にいつか追憶の美しさをつけ加へてゐるやうな氣がしますから。つまり一番確かなのは「落つる淚は」と云ふ氣のしたことです。僕の東京を弔ふ氣もちもこの一語を出ないことになるのでせう。「落つる淚は」、――これだけではいけないでせうか?
何だかとりとめもない事ばかり書きましたが、どうか惡しからず御赦し下さい。僕はこの手紙を書いて了ふと、僕の家に充滿した燒け出されの親戚故舊と玄米の夕飯を食ふのです。それから提燈に蠟燭をともして、夜警の詰所へ出かけるのです。以上。
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