曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 賢女
○賢女
天文方高橋作左衞門、その父作左衞門、もとは浪花の同心なりしが、天學に長ぜしかば、兼ねて登用せられしなり。いまだ浪花に在りし時、庭に大なる柹の樹あり。秋ごとにその實をうりて、若干のこがねを得しとぞ。然るに、その邊の若者ども、夜にまぎれて、ぬすむこと、數しらず。よりて、その守りに、あるじ、いもやすからで、夜もすがら、見めぐりなどす。ある時、番より歸りて見れば、さばかりの大木を根ぎはより、伐りたふしてあり。「こは、いかなることぞ。」と、おどろき、あはてければ、妻のいふやう、「わらはが、きらせぬるなり。」と、「何故に、さはせしぞ。」と咎めければ、「さん候。ぬしは天學にて、必、家をおこさせ給ふべききざし見え侍り。されば、夜ごとに屋根にのぼり、霄漢[やぶちゃん注:天空。]をうかゞひ、深更に至り、そのうへに、この樹の爲に精神をつひやし給ふは、びんなき事なり。此木あらずば、本業專一にて、よかるべし、と、おもひ、侍るによりて、かくは、はからひし。」と、いひけるとぞ。いにしへの何がしらが妻にもおとらぬ女とぞ思はるゝ。これ、今の作左衞門が母なり。さるに、夫のこゝにめされし比は、よみの國にまかりし後なりき。かなしとも、かなしき事ならずや。
文政八年二月初八 輪 池
[やぶちゃん注:「天文方高橋作左衞門」天文学者高橋景保(天明五(一七八五)年~文政一二(一八二九)年)。作左衛門は通称。当該ウィキによれば、『天文学者である高橋至時』(よしとき 明和元(一七六四)年~享和四(一八〇四)年:当話に出る主(あるじ)。当該ウィキによれば、天文学者。天文方に任命され、寛政暦への改暦作業において、間重富とともに中心的な役割を果たした。また、伊能忠敬の師としても知られる。明和元(一七六四)年、大坂定番同心の家に生まれた。通称、作左衛門。安永七(一七七八)年、十五歳の時、父高橋徳次郎元亮の跡を継いで、大坂定番同心となった。天明四(一七八四)年、当話のヒロインである同心永田元左衛門清賢の娘志勉(しめ)と結婚した。翌年に景保が生まれた。幼い頃より、算学に興味を持っていた至時は、天明六(一七八六)年頃、松岡能一に算学を学び、さらに暦学を学ぶため、天明七(一七八七)年、麻田剛立(あさだごうりゅう)に師事した。当時の日本の暦は宝暦暦を用いていたが、この暦は精度が悪く、宝暦一三(一七六三)年に起きた日食の予報を外してしまっていた。一方で、この日食は在野の複数の天文家によって事前に予測されていて、その中の一人が麻田剛立であった。剛立はその後、中国や西洋の天文学を読み解いた上で、さらに自らの理論も加味した独自の暦「時中暦(時中法)」を作成し、これが高い精度を誇っていたため、当時の人々の間で評判が高かった。至時はこの剛立のもとで、同じ頃に入門した間重富(はざましげとみ)とともに天文学・暦学を学んだ。その熱心さは、至時の家が火事で全焼した翌日にも、焼け跡で、剛立や重富と暦学の議論を行うほどであったという。寛政七(一七九五)年、至時は重富とともに、幕府から、改暦を行うための出府を命じられた。至時は同年四月に江戸へ赴任し、四月二十八日に測量御用手伝、十一月十四日には遂に幕府天文方となった。一方で、十月には、妻の志勉が二十九歳の若さで死去している。志勉は下級武士で薄給だった時代の至時を支え、家計をやりくりしながら、至時の観測道具代を捻出しており、その良妻ぶりは後の世にも知られるようになる。至時は、この後、再婚することはなかった、とあり、この話の真実性が証明される。以後の事蹟はウィキを参照されたい)『の長男として大坂に生まれた』。文化元(一八〇四)年、『父の跡を継いで江戸幕府天文方となり、天体観測・測量、天文関連書籍の翻訳などに従事』し、文化七(一八一〇)年には、『「新訂万国全図」を制作した(銅版画制作は亜欧堂田善)。一方で伊能忠敬の全国測量事業を監督し、全面的に援助する。忠敬の没後、彼の実測をもとに』「大日本沿海輿地全図」を『完成させ』た。また、これより前に『ロシア使節ニコライ・レザノフが来日時に持参した満洲文による国書』の翻訳を幕府より命ぜられており、同年に『「魯西亜国呈書満文訓訳強解」を作成』している。『その後、満洲語の研究を進め、複数の著書を残し』た。文化一一(一八一四)年には『書物奉行兼天文方筆頭に就任した』が、文政一一(一八二八)年の「シーボルト事件」(オランダ人と偽って長崎の出島のオランダ商館医となっていたドイツ人フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・ズィーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold 一七九六年~一八六六年)が国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとして発覚した事件。役人や門人らが、多数、処刑された)『に関与して』、十月十日に『伝馬町牢屋敷に投獄され、翌年二月に獄死した。享年四十五であった。『獄死後、遺体は塩漬けにされて保存され、翌文政十三年三月二十六日、『改めて』遺体が『引き出され』、『罪状申し渡しの上』、『斬首刑に処せられている。このため、公式記録では死因は斬罪という形になっている』と、極めて悲惨な最後を遂げており、「かなしとも、かなしき事ならずや」という輪池堂屋代弘賢の台詞は、実は未来の彼にこそ与えられるべき台詞であると言えよう。『墓は上野の源空寺。高橋至時・伊能忠敬・高橋景保の』「大日本沿海輿地全図」組三人頭の『墓地が並んでいる』とある。]
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