譚海 卷之四 羽州秋田・奥州南部境の事
○羽州秋田領より奥州南部へこゆる所を澤うちといふ、嶮岨の道也。澤うちをこゆれば南部領也。兩國のさかひに天狗橋といふあり、長さ十三間[やぶちゃん注:二十三・六三メートル。]を杉丸太二本にてわたしたる橋他。此はし十二三箇年程には朽(くち)る、くちれば其谷岸に代りになる程の杉二本づつ生立(おひたち)て、橋の用を缺(かく)事なし、ゆゑに天狗橋といふとぞ。橋を過(すぎ)て大日堂あり、九間[やぶちゃん注:十六・三六メートル。]四面の堂也。往古は是までも秋田領なりしを、南部にて押領せしとぞ。大日堂のかなもの、みな日の丸扇子の紋なり、二萬石南部へとりたると云り。又あけびといふ草あり、秋田領に生ずるは三葉、南部領に生ずるは二葉なり、此をもちて境をたゞすにみな然り。此天狗橋より南部のをさる澤といふ銅山ヘ通ふ道なり。をさる澤の銅山と秋田阿仁の銅山と並びてあり。秋田の銅をほるとき岩をうがつに、頭上足下などに、南部の銅をほる音時々聞ゆる事ありといへり。
[やぶちゃん注:底本の竹内利美氏の注に、『秋田領から南部領にこえるところとあるのは、明らかに秋田県鹿角[やぶちゃん注:「かづの」。]郡地方で、現在の岩手県和賀郡沢内村ではない。米代川の上流の渓谷で、鹿角郡八幡平村のあたりをさしている。菅江真澄の「けふのせば布」には、小豆沢村の大日堂を過ぎて行くと、菱床橋の朽ち果てた跡に出た、昔、天狗がかけ初めたというので、天狗橋と呼び、また別のところに両岸から鈎の木を渡していたら夜明けになったので、そのままになったという跡もあり、そこを夜明け島というと、しるしてある(天明五年)[やぶちゃん注:一七八五年。]。これによると、天狗橋の位置はかなり南部領に入ってからの所である。尾去沢と阿仁の両銅山が並んでいるというのもおかしい。噂話の地理の不正確さである』とある。
確かに、
現在の秋田県鹿角郡はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)
で、南に
がある。ところが、旧岩手県和賀郡沢内村は、
現在の岩手県和賀郡西和賀町の内で、ここ
で、鹿角地方からは四十キロメートル以上も南である。さて、
秋田県鹿角市八幡平小豆沢はここ
である。而して、ここに出る「大日堂」というのは、菅江の記載と位置関係から、
と推定され、その神社の北西直近に、ズバリ、
があり、右岸には「山渡」というそれらしい地名もある。なお、現行では、
があるものの、これは東北自動車道で、夜明島川が合流する米代川に架橋されてある。さらに調べたところ、この自動車道の「天狗橋」の近く、八幡平小豆沢碇と八幡平大地平の間で米代川に架橋している古い橋があり、それもまた、
天狗橋
と呼ばれていることが、鹿角の情報サイト「スコップの「湯瀬渓谷でアウトドアを楽しみませんか?だんぶり長者伝説縁の地!」の記事で判った。赤い擬宝珠のある、中央附近が有意に広がった独特の橋の写真が載っていた。そこに記されたルートを頼りに調べてみると、グーグル・マップ・データ航空写真で見るに(地図の方では橋はない)、恐らくは間違いなく、
であると私は判断する。但し、孰れも、大日神社からは東北へ五キロメートルほどずれている。或いは、伝承の夜明島川にあった、その名を、孰れもここに移したものである可能性が高いように思われる。
ただ、この鹿角郡が当時、非常に微妙な位置にあったことは確かで、当該ウィキによれば、旧同郡の『花輪出身の地理学者、佐々木彦一郎は、「鹿角郡の南部・秋田・津軽三国に対する関係は宛も独・仏の間に狭在するアルサス・ローレイン州の如き関係にあるところである」』『と記している』。『のちの鹿角郡の主要な資源は、天然杉と鉱産物であった』がm『この天然資源をめぐる領有権争いは、鎌倉時代の鹿角四氏(成田・奈良・安保・秋元(秋本)氏)の関東武士団の時代から存在し、鹿角四十二館が建設されて領内の守りが固まってからも変わることはなかった。室町時代後期、戦乱を経て、東の南部氏の支配が確立した。それでも、鹿角郡の地は、三藩境に存し』、天正一八(一五九〇)年の『豊臣秀吉朱印状により、鹿角郡は南部領と確定した。これにより、南部盛岡藩の軍事的拠点となり、津軽領への警戒を怠ることなく、秋田領との境界紛争も絶えることがなかった』。寛永一六(一六三九)年八月、「キリシタン山狩事件」が発生し、十二月には、『小坂と大館境の山中で、藩境の扱いを発端』として『両藩士の小競り合いが起きた』。延宝六(一六七七)年には、『幕府の検使により、評定所において秋田藩と南部藩との境界を記した絵図を作成して、それを決するに至った』とある。
「日の丸扇子」戦国大名時代の秋田氏が「扇に月丸」紋を使用している。「日の丸」はよくある誤認で、月が正しい。
「あけび」「木通」。キンポウゲ目アケビ科 Lardizabaloideae 亜科 Lardizabaleae 連 アケビ属アケビ Akebia quinata 。
「秋田領に生ずるは三葉、南部領に生ずるは二葉なり」「二葉」は不審。普通のアケビとアケビとミツバアケビの自然交配種ゴヨウアケビ Akebia × pentaphyllaの小葉は五枚、ミツバアケビ Akebia trifoliata は小葉が三枚である。「三」「二」は孰れも草書では「五」に誤読し易い。
「南部のをさる澤といふ銅山」秋田県鹿角市尾去沢(おさりざわ)獅子沢にあった南部藩の尾去沢鉱山。黄銅鉱を多く産出した。
「秋田阿仁の銅山」秋田県北秋田市阿仁町にあった秋田藩の阿仁鉱山。金・銀・銅が採掘され、特に銀鉱・銅鉱の産出が多く、享保元(一七一六)年には産銅日本一となり、長崎からの輸出銅の主要部分を占めた。しかし、御覧の通り、並んでなんかいない。尾去沢鉱山の三十二キロメートルも南西である。これは、竹内氏が仰る通り、総てが都市伝説並みの劣悪なトンデモ記載である。]
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