曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 壹錢職分由緖之事
[やぶちゃん注:以下は文宝堂発表。目録には、「駒込富士來歷【一錢職分由緖附草加屋安兵衞娘之事】」とある。「草加屋安兵衞娘之事」は次に分離した。]
○壱錢職分由緖之事
一職分之儀者、文永中
[やぶちゃん注:以下、底本では最後まで全体が一字下げ。]
人皇八十九代御帝龜山院樣御宇、上北面にて
北小路左兵衞藤原朝臣基晴卿
故有之、流二浪長門國下之關邊一居住、子息三人有之。嫡子北小路大藏亮藤原基詮右四人流居之内、吉岡久左衞門以二介抱一爲二渡世一、大藏亮太物賣、兵庫亮染物師、采女亮儀は父基晴卿爲二養育一髮結職と相成、難ㇾ顯二面體一往來住宅、雨落より三尺張出し御免にて、長暖簾四尺二寸、縫下五寸、鏡障子三尺寸法と相定致渡世の内、父基晴卿經二年月一死去之後、關東鎌倉繁花の時、居住桐ケ谷にて松岡と號し、采女亮七代之孫北小路藤七郞、從二美濃國岐阜一、元龜天正之比、流二浪於遠江國比久間味方ケ原一、東照大權現樣、甲駿信之押武田大膳太夫兼信濃守法姓院機山兵德得榮晴信入道大僧正信玄と御一戰被爲有、比者元龜三 壬申年十月十四日、東海道見附驛之間道一言坂より池田迄、及二夕陽一總御同勢共、濱松之御館へ御引揚被爲遊候時、其日大風雨にて、東海道天龍川滿水にて渡船難相成に付、渡守仕候者共、我家々へ引取り川端に壱人も不居合、御渡船難被爲游候。然る所に北小路藤十郞行掛候に付、奉蒙嚴命。尤水練功者之事故、奉畏川淺瀨踏に御案内奉申上候。右に付無御難。濱松之御城に御引揚相濟、御悅喜有之。以來諸國關所川々渡場等迄、無相違御通し下置候なり。尤其節、後殿之義、本多中務大輔忠勝殿被相勤候事、猶又其後三河國碧海郡原之鄕迄奉御供、其砌蒙二嚴命一、東照源大神君樣奉ㇾ揚二御髮一、當座之爲二御褒美金一錢一錢、御笄一對、榊原式部大輔康政殿御取次を以頂戴之。以來結髮之總名を一錢と可唱者也と蒙ㇾ仰、直に御暇被下置流浪して、一錢職分渡世致來候處、其後慶長八卯年關東武場へ德川樣御入國被爲有、其砌一錢職分繁七郞、東部繁花之地と相成候に付、武藏國芝口海手邊に罷出居住渡世致來候所、其刻預二御召一、先年之爲二御褒美一靑銅千疋、伊奈熊藏殿御取次を以頂戴之。愈益一錢職分致來候處、其後萬治年中、嚴有院樣御代、北小路藤七郞四代之孫北小路總右衞門、神田三河町へ引移居住、御府内一錢職分株敷御願申上候處、御糺の上、由緖有之に付御取立被爲遊、御公儀樣御朱印被下置、株敷被成下。其上尙御燒印之御下札等頂戴之仕候に付、株敷補ひ一錢職分渡世相續致來候處、其後享保年中、有德院樣御代、東都御町奉行大岡越前守樣御役所へ諸職人被召出、株敷有之者共、夫々之御役義被仰付、其砌一錢職分之者へは、先年神君樣天龍川御難儀之刻、淺瀨御案内奉申上候由にて、御役義御免と被仰出候得共、一錢職分之者共、一同株敷被下置候。爲冥加相應之御役義奉願上候に付、御聞濟有之、以來出火之砌、兩御町奉行所へ缺付、御記錄入二御長持一御役義相勤株敷渡世相續致來候事。
相[やぶちゃん注:底本に右に『(マヽ)』注記有り。]嫡男幸次郞依二幼年一、不ㇾ辨二於職分由緖一與ㇾ書者也。
享保十二丁未年九月十二日 北小路宗四郞藤原基之
前書之趣に付、諸國諸武家落人百名以上之面々、虛無僧と一錢職分に相成、忍渡世にて先君へ召通し可相待者也以上。
慶長八卯年
大御所樣於二御前一本多上野介正純を以、東都酒井讃岐守殿へ仰渡置、此段道中奉行松浦越前守殿へ被二仰達置一候事。仍而如件。
右髮結職と相成、鬢盥持參して渡世之事は、萬治元年八月十六日よりはじまりしといふ。
[やぶちゃん注:「壱錢職」(「分」か当該「職分」(地位・資格・公的約定の意)は「一錢剃(いつせんぞり)で近世の初め、道端に仮屋を構えて男の月代(さかやき)や髭を剃り、髪を結うことを職とした者の呼称。後の「髪結床」の前身。その料金が一人に付き一銭(一文)であったことによる。「一文剃り」「一銭職」「一銭」とも呼んだ。以下、全部の訓読を試みる。読点は返り点と本文挿入のひらがな以外は一切ないので、誤読も多いとは思うが、見た目、文意が通ずるように、勝手に送り仮名を添えておいたし、場所によっては返り点のない箇所でも返って読んだ。また、一部の助詞・助動詞でない漢字を読み易さを考えてひらがなにした。なお、先に私の後注(引用)を読んだ方が、理解しやすい。
*
○「壱錢職」分の由緖の事
一、職分の儀は、文永[やぶちゃん注:鎌倉時代で、一二六四年から一二七五年まで。天皇は亀山天皇・後宇多天皇。幕府将軍は宗尊親王・惟康親王。執権は北条長時・北条政村・北条時宗。]中、
人皇八十九代御帝龜山院樣御宇[やぶちゃん注:在位は正元元(一二六〇)年から文永十一年一月二十六日(一二七四年三月六日)までであるから、弘長四年二月二十八日(一二六四年三月二十七日)の文永への改元から上記までの閉区間となる。]、上北面(しやうほくめん)にて[やぶちゃん注:「北面」は院の御所の北面にある詰所。四位・五位の諸大夫で北面の侍となって院への昇殿を許された者の詰所。]。
北小路左兵衞藤原朝臣基晴卿
故、之れ、有り。長門國下之關邊に流浪して居住せし、子息三人、之れ、有り。嫡子北小路大藏亮藤原基詮、右四人、流居の内、吉岡久左衞門、介抱を以つて渡世と爲し、大藏亮は太物賣(ふとものうり)[やぶちゃん注:「太物」は絹織物を「呉服」というのに対して綿織物・麻織物などの太い糸の織物の総称。]、兵庫亮は染物師、采女亮儀は、父基晴卿、養育爲して、髮結職と相ひ成り、面體、顯はれ難きやう、往來・住宅は、雨落[やぶちゃん注:屋根からの雨垂れが落ちる所。軒先の真下。]より三尺張出し御免にて、長暖簾四尺二寸、縫下五寸、鏡・障子三尺寸法と相ひ定め致して渡世の内、父基晴卿、年月を經て死去の後、關東鎌倉、繁花の時に、居をうつし住み、桐ケ谷(きりがやつ)[やぶちゃん注:現在の鎌倉市材木座(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあったとされるが、限定不能。地形上からは南東部のどこかかであろうとは推測される。]にて「松岡」と號す。采女亮が七代の孫北小路藤七郞、美濃國岐阜より、元龜・天正[やぶちゃん注:ユリウス暦一五七〇年からグレゴリオ暦一五九三年。]の比、遠江國比久間味方ケ原(みかたがはら)[やぶちゃん注:静岡県浜松市北区三方原町近辺。「比久間」は不詳。或いはここは「比久間・味方ケ原」で、三方ヶ原のかなり北ではあるが、静岡県浜松市天竜区佐久間町佐久間の誤りかも知れない。]に流浪す。東照大權現樣、甲・駿・信の押しにて、武田大膳太夫兼信濃守法姓院機山兵德得榮晴信入道大僧正信玄と、御一戰爲される有り、比(ころ)は元龜三壬申年十月十四日[やぶちゃん注:一五七二年。この年の秋に甲斐の武田氏による西上作戦が発動され、三河の徳川領を北・東の二方面から同時に侵攻が始まった。「遠江三方ヶ原の戦い」で家康が武田勢に大敗するのは十二月二十二日であった。]、東海道見附驛の間道一言坂より、池田まで、夕陽に及び、總ての御同勢ども、濱松の御館(みたち)へ御引き揚げ、爲され遊され候ふ時、其の日、大風雨にて、東海道の天龍川、滿水にて、渡し船、相ひ成り難きに付き、渡守仕り候ふ者ども、我が家々へ引き取りて、川端には、壱人も居合はせず、御渡し船、爲され難く游ばされ候ふ。然る所に、北小路藤十郞、行き掛り候ふに付き、嚴命を蒙り奉りて、尤も水練の功(たく)みなる者の事故、畏れ奉りながら、川の淺瀨を踏(ふむ)に、御案内奉り申し上げ候ふ。右に付き、御難、無し。濱松の御城に御引き揚げ相ひ濟み、御悅喜(およろこび)之れ有り。以來、諸國の關所、川の川渡し場等まで、相違無く御通し下さえ置き候ふなり。尤も其の節、後殿(しんがり)の義、本多中務大輔忠勝殿、相ひ勤められ候ふ事、猶、又、其の後、三河國碧海郡原之鄕まで御供奉り、其の砌り、嚴命を蒙り、東照源大神君樣の御髮を揚げ奉り、當座の御褒美金として、錢一錢・御笄(かうがい)一對、榊原式部大輔康政殿の御取次を以つて之れを頂戴し、「以來、結髮の總名を『一錢』と唱ふ者なり。」との仰せを蒙れり。直に御暇(おんいとま)、下され置き、流浪して、「一錢職」分の渡世致し來たり候ふ處、其の後、慶長八卯年[やぶちゃん注:一六〇三年。この二月十二日に徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開府した。]、關東武場[やぶちゃん注:「武陽」の誤読或いは誤植。]へ德川樣御入國爲さるる有り。其の砌り、「一錢職」分繁七郞、東部繁花の地と相ひ成り候ふに付き、武藏國芝口の海手(うみて)邊りに罷り出で、居住し、渡世致し來たり候ふ所、其の刻(きざ)み、御召しに預りて、先年の御褒美として、靑銅千疋、伊奈熊藏殿、御取次を以つて之れを頂戴す。愈(いよい)よ、益(ますま)す、「一錢職」分、致し來たり候ふ處、其の後、萬治年中[やぶちゃん注:一六五八年から一六六一年まで。将軍は徳川家綱。]、嚴有院樣御代[やぶちゃん注:家綱の諡号。将軍在職は慶安四(一六五一)年から延宝八(一六八〇)年。]、北小路藤七郞四代の孫北小路總右衞門、神田三河町[やぶちゃん注:現在の千代田区内神田一・二・三丁目及び神田司町二丁目附近。]へ引き移りて居住し、御府内の「一錢職」分の株敷[やぶちゃん注:「かぶしきで、後注引用にある髪結いの共同組合のことか。]、御願申し上げ候ふ處、御糺(おただ)しの上、由緖之れ有るに付き、御取り立て爲し遊ばされ、「御公儀樣御朱印」下し置かれ、株敷も成し下されり。其の上、尙ほ、御燒印の御下札[やぶちゃん注:「おさげふだ」か。ここは幕府公認を示す焼き印を捺した営業許可証か。]等、之れ、頂戴仕り候ふに付き、株敷も補ひ、「一錢職」分の渡世、相續致し來たり候ふ處、其の後、享保年中[やぶちゃん注:一七一六年から一七三六年まで。]、有德院樣御代[やぶちゃん注:吉宗の諡号。在職は正徳六・享保元(一七一六)年から延享二(一七四五)年。隠居して大御所となった。]、東都御町奉行大岡越前守樣御役所へ、諸職人、召し出だされ、株敷、之れ有る者ども、夫々(それぞれ)、御役義、仰せ付けられ、其の砌り、「一錢職」分の者へは、先年、神君樣、天龍川御難儀の刻(きざみ)、淺瀨御案内奉り申し上げ候ふ由にて、「御役義御免」と仰せ出され候得(さふらえ)ども、「一錢職」分の者ども、一同、株敷、下され置き候。爲めに、冥加相應の御役義、願ひ上げ奉り候ふに付き、御聞き濟み、之れ、有り、以來、出火の砌り、兩御町奉行所へ缺(か)け付け[やぶちゃん注:「驅けつけ」。]、御記錄、御長持入るる御役義、相ひ勤め、株敷の渡世も相續致し來たり候ふ事なり。
相[やぶちゃん注:底本に右に『(マヽ)』注記有り。「當」の誤字か。]嫡男幸次郞、幼年により、職分の由緖を辨ぜざれば、書を與ふる者なり。
享保十二丁未年[やぶちゃん注:一七二七年。]九月十二日 北小路宗四郞藤原基之
前書の趣に付き、諸國・諸武家・落人(おちうど)、百名以上の面々、虛無僧と「一錢職」分に相ひ成り、忍べる渡世して、先君へ召し通し、相ひ待つ者なり。以上。
慶長八卯年[やぶちゃん注:一六〇三年・]
大御所樣、御前に於いて本多上野介正純を以つて、東都酒井讃岐守殿へ仰せ渡し置く。此の段、道中奉行松浦越前守殿へ仰せ達し置かれ候ふ事。仍つて件のごとし。
右、「髮結職」と相ひ成りて、鬢盥(びんあらひ)持參して渡世の事は、萬治元年八月十六日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一六五八年九月十三日。]より、はじまりし、といふ。
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ここに示されたものは「一銭職分由緒書」としてかなり有名なものらしい。ウィキの「藤原采女亮政之」に以下のようにある(太字下線は私が附した)。日本に於ける「理美容業の祖」とされる人物に藤原采女亮政之(ふじわらうねめのすけ まさゆき ?~建武二(一三三五)年の旧暦四月或いは七月或いは十月十七日没)がおり、『昭和のはじめ頃まで』は、『全国の理美容業者は采女亮の命日である』十七『日を毎月の休みとした』。『功績により』、『従五位』が追贈された。『京都生まれ』で、『藤原鎌足の子孫である藤原晴基』(或いは基晴)の三男』。『亀山天皇の時代、京都御所の警備役だった』『晴基が宝刀の九王丸』(又は九龍丸)『を紛失、責任をとって浪人』『となる。長男元勝(反物商)と次男元春(染物師)は京にとどまり』宝刀を『探したが』、『采女亮は探索のため』、『諸国行脚の旅に出る晴基』『に同行した』。文永五(一二六八)年、晴基は、宝刀の国外流出を防ぐために朝鮮半島に近い下関に下った。これは『元寇に備え』、『武士が集まっているとにらんだ』ことによるとする。『刀を捜し続ける一方、髪結職で高い収入を上げていた新羅人に親子で学び』、下関の『亀山八幡宮裏の中之町』(ここ)『に武士らを相手にした』『髪結所を開く。この店に床の間があり』。『亀山天皇を祀る祭壇と藤原家の掛け軸があったことから「床屋」と呼ばれるようになった』『といわれる』。弘安元(一二七八)年、晴基は宝刀を見つけられぬまま没し、弘安四(一二八一)年に、『采女亮は鎌倉に移』した。建武二(一三三五)年に采女亮は没したが、彼の『髪結いの技術が』高く『評価され』、鎌倉『幕府』時代には『重宝されたという』なお、『下関 「床屋発祥の地」記念碑の碑文では』宝刀は『後に采女亮が発見』と記されてある。ここに出た「一銭職分由緒書」は、『江戸時代から各地に伝えられている』三種の『史料』があり、『この史料に「三男・采女亮政之とともに』『(中略)』『下関に居を構え、髪結業を営み』『(中略)』『これが髪結職の始めなり」とあり』、『采女亮が理美容業の祖と言われる根拠となっている。また、采女亮の子孫は代々』、『髪結を業としていた。徳川家康が武田信玄の勢に押され』て『敗退』した『際』。十七『代目北小路藤七郎が天竜川を渡る手助けをしたことから』、『褒美と銀銭一銭を賜り』「一銭職」と『呼ばれるようになった(なお』、『理美容業の定休日が』十七『日だったのは家康の命日が』四月十七日『であるためという説もある』という)。その後、『「御用髪結」を務め』、二十一『代幸次郎の時に江戸髪結株仲間(組合)を申請した』。『史料は亀山天皇時代の出来事から書き始められ、吉宗や大岡越前も登場する』(本状がそれ)。]
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