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2021/08/10

芥川龍之介「大震雜記」(正字正仮名版)――「芥川龍之介書簡抄」の大正一二(一九二三)年の狭間に(1)――

 

[やぶちゃん注:現在進行中の「芥川龍之介書簡抄」は大正一二(一九二三)年に突入しているが、書簡自体の興味深いものや面白いものが私の感覚では有意に少ない感じがしている。しかし、この年は関東大震災が襲った年である。しかし、そのカタストロフを伝えるに足る書簡は一つの短いもの(採用しない)を除いて皆無と言ってもよい(無論、芥川龍之介自身が被災者であったのだから、それは無理もないことではある)。しかし、芥川龍之介は、当時の惨状を綴った「大震雜記」と「大震日錄」等を翌月に発表しており、これらをそこに宛がうと、書簡の貧しさが補えると考えた。そこで、それをここに挟むこととする。

 底本は岩波旧全集に拠った。但し、「青空文庫」のこちらにある新字正仮名の「大正十二年九月一日の大震に際して」(これは私も所持している「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集」第四巻(昭和四六(一九七一)年筑摩書房刊)にあるもので、上記の「大震雜記」(大正十二年十月一日発行『中央公論』初出)と「大震日錄」(同クレジットの『女性』初出)と、以下、「大震災に際せる感想」(同クレジットの『改造』初出)、「東京人」(初出未詳。後の随筆集「百艸」(大正一三(一九二四)年九月新潮社刊)にここに記した前後の作品とともに収録)、「魔都」(大正十二年十月六日発行『文章俱樂部』初出)、「震災の文藝に與ふる影響」(初出未詳。同前で「百艸」に収録)、「古書の燒失を惜しむ」という、別々に発表された、震災関連の芥川龍之介のドキュメント・随想を、どういう訳か、一纏めにしてしまって(「百艸」にセットで載るから判らぬでもないが)、連続した一作品のように掲げてあるもので、私はちょっと奇異な感じを持つものではある)を加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。但し、私は本来の発表のように三作品を別々に正字正仮名で電子化する

 「芥川龍之介書簡抄」のインターミッション的な仕儀であるので、原則、必要最小限の注に留めた。]

 

  大 震 雜 記

 

       

 

 大正十二年八月、僕は一游亭と鎌倉へ行ゆき、平野屋別莊の客となつた。僕等の座敷の軒先はずつと藤棚になつてゐる。その又藤棚の葉の間にはちらほら紫の花が見えた。八月の藤の花は年代記ものである。そればかりではない。後架の窓から裏庭を見ると、八重やへの山吹も花をつけてゐる。

    山吹を指さすや日向ひなたの撞木杖 一游亭

    (註に曰、一游亭は撞木杖をついてゐる。)

 その上又珍らしいことは小町園の庭の池に菖蒲も蓮と咲き競つてゐる。

    葉を枯れて蓮と咲ける花あやめ   一游亭

 藤、山吹、菖蒲と數へてくると、どうもこれは唯事ではない。「自然」に發狂の氣味のあるのは疑ひ難い事實である。僕は爾來人の顏さへ見れば、「天變地異が起りさうだ」と云つた。しかし誰も眞に受けない。久米正雄の如きはにやにやしながら、「菊池寬が弱氣になつてね」などと大いに僕を嘲弄したものである。

 僕等の東京に歸つたのは八月二十五日である。大地震はそれから八日目に起つた。

 「あの時は義理にも反對したかつたけれど、實際君の豫言は中つたね。」

 久米も今は僕の豫言に大いに敬意を表してゐる。さう云ふことならば白狀しても好い。――實は僕も僕の豫言を餘り信用しなかつたのだよ。

 

       

 

 「濱町河岸の舟の中に居ります。櫻川三孝。」

 これは吉原の燒け跡にあつた無數の貼紙の一つである。「舟の中に居ります」と云ふのは眞面目に書いた文句かも知れない。しかし哀れにも風流である。僕はこの一行の中に秋風の舟を家と賴んだ幇間の姿を髣髴した。江戶作者の寫した吉原は永久に還つては來ないであらう。が、兎に角今日と雖も、かう云ふ貼り紙に洒脫の氣を示した幇間のゐたことは確かである。

 

       

 

 大地震のやつと靜まつた後、屋外に避難した人人は急に人懷しさを感じ出したらしい。向う三軒兩隣を問はず、親しさうに話し合つたり、煙草や梨をすすめ合つたり、互に子供の守りをしたりする景色は、渡邊町、田端、神明町、――殆ど至る處に見受けられたものである。殊に田端のポプラア倶樂部の芝生に難を避けてゐた人人などは、背景にポプラアの戰いでゐるせゐか、ピクニツクに集まつたのかと思ふ位、如何にも樂しさうに打ち解とけてゐた。

 これは夙にクライストが「地震」の中に描ゑがいた現象である。いや、クライストはその上に地震後の興奮が靜まるが早いか、もう一度平生の恩怨が徐ろに目ざめて來る恐しささへ描いた。するとポプラア倶樂部の芝生に難を避けてゐた人人もいつ何時(なんどき)隣の肺病患者を驅逐しようと試みたり、或は又向うの奧さんの私行を吹聽して步かうとするかも知れない。それは僕でも心得てゐる。しかし大勢の人人の中にいつにない親しさの湧いてゐるのは兎に角美しい景色だつた。僕は永久にあの記憶だけは大事にして置きたいと思つてゐる。

 

       

 

 僕も今度は御多分に洩もれず、燒死した死骸を澤山見た。その澤山の死骸のうち最も記憶に殘つてゐるのは、淺草仲店の收容所にあつた病人らしい死骸である。この死骸も炎に燒かれた顏は目鼻もわからぬほどまつ黑だつた。が、湯帷子[やぶちゃん注:本来は湯に入る際に着た「ゆかたびら」であるが、ここは、そこから轉じた「ゆかた」と訓じていよう。焼死遺体の着ているものだから「浴衣」の字を使うのを憚ったのであろう。]を着た體や瘦せ細つた手足などには少しも燒け爛れた痕はなかつた。しかし僕の忘れられぬのは何もさう云ふ爲ばかりではない。燒死した死骸は誰も云ふやうに大抵手足を縮ちぢめてゐる。けれどもこの死骸はどう云ふ訣か、燒け殘つたメリンスの布團の上にちやんと足を伸してゐた。手も亦覺悟を極めたやうに湯帷子の胸の上に組み合はせてあつた。これは苦しみ悶えた死骸ではない。靜かに宿命を迎へた死骸である。もし顏さへ焦げずにゐたら、きつと蒼ざめた脣には微笑に似たものが浮んでゐたであらう。

 僕はこの死骸をもの哀れに感じた。しかし妻にその話をしたら、「それはきつと地震の前に死んでゐた人の燒けたのでせう」と云つた。成程さう云はれて見れば、案外そんなものだつたかも知れない。唯僕は妻の爲に小說じみた僕の氣もちの破壞されたことを憎むばかりである。

 

       

 

 僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寬はこの資格に乏しい。

 戒嚴令の布かれた後、僕は卷煙草を啣へたまま、菊池と雜談を交換してゐた。尤も雜談とは云ふものの、地震以外の話の出た訣ではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた[やぶちゃん注:筑摩全集類聚版脚注は『不逞鮮人の暴動か』と推定している。]。すると菊池は眉を擧げながら、「譃だよ、君」と一喝した。僕は勿論さう云はれて見れば、「ぢや譃だらう」と云ふ外はなかつた。しかし次手にもう一度、何なんでも○○○○はボルシエヴイツキの手先ださうだと云つた[やぶちゃん注:筑摩全集類聚版脚注は『不逞鮮人か』と推定している。当然、次の伏字もそれ。]。菊池は今度は眉を擧げると、「譃さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも譃か」と忽ち自說(?)を撤囘した。

 再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし萬一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顏つきを裝はねばならぬものである。けれども野蠻なる菊池寬は信じもしなければ信じる眞似もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警團の一員たる僕は菊池の爲に惜しまざるを得ない。

 尤も善良なる市民になることは、――兎に角苦心を要するものである。

 

       

 

 僕は丸の内の燒け跡を通つた。此處を通るのは二度目である。この前來た時には馬場先の濠に何人も泳いでゐる人があつた。けふは――僕は見覺えのある濠の向うを眺めた。堀の向うには藥硏なりに石垣の崩れた處がある。崩れた土は丹のやうに赤い。崩れぬ土手は靑芝の上に不相變松をうねらせてゐる。其處にけふも三四人、裸の人人が動いてゐた。何もさう云ふ人人は醉興に泳いでゐる訣ではあるまい。しかし行人たる僕の目にはこの前も丁度西洋人の描ゑがいた水浴の油畫か何かのやうに見えた、今日もそれは同じである。いや、この前はこちらの岸に小便をしてゐる土工があつた。けふはそんなものを見かけぬだけ、一層平和に見えた位である。

 僕はかう云ふ景色を見ながら、やはり步みをつづけてゐた。すると突然濠の上から、思ひもよらぬ歌の聲が起つた。歌は「懷しのケンタツキイ」である。歌つてゐるのは水の上に頭ばかり出した少年である。僕は妙な興奮を感じた。僕の中にもその少年に聲を合せたい心もちを感じた。少年は無心に歌つてゐるのであらう。けれども歌は一瞬の間にいつか僕を捉へてゐた否定の精神を打ち破つたのである。

 藝術は生活の過剩ださうである。成程さうも思はれぬことはない。しかし人間を人間たらしめるものは常に生活の過剩である。僕等は人間たる尊嚴の爲に生活の過剩を作らなければならぬ。更に又巧みにその過剩を大いなる花束に仕上げねばならぬ。生活に過剩をあらしめるとは生活を豐富にすることである。

 僕は丸の内の燒け跡を通つた。けれども僕の目に觸れたのは猛火も亦燒き難い何ものかだつた。

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