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2021/08/14

芥川龍之介書簡抄119 / 大正一三(一九二四)年(二) 七通 「越し人」片山廣子との邂逅 そして 恋情の発露(イタズラ葉書は現物写真を視認してリロードした)

 

大正一三(一九二四)年七月二十三日・輕井澤発信・芥川皆々樣(「KUSATU RAILIWEY OF KARUIZAWA」「草津鐡道小瀨柳橋進行」(右から左へ)と白枠下方左右にある軽便蒸気機関車が客車を牽いて橋を渡りつつある写真絵葉書)

東京市外田端
四三五

芥 川 皆々樣

        輕井沢鶴屋内
          龍之介
         二十三

昨日カルイザハの[やぶちゃん注:「カルイザハの」は吹き出しで追加したもの。]停車場より宿へ
行く途中、自働車にのりし
にその自轉車[やぶちゃん注:ママ。]、向うより來
る自働車をよけんとして
電柱に[やぶちゃん注:抹消字は「働」の「亻」が「彳」になったもの。]衝突し、乗合ひ
の中学生一人重傷を負ひ僕
は田の中へ投げ出され、そ
の拍子に左の腕を折り、目下
輕井沢病院に入院中 院
長は亜米利加人にて中々 親
切なり 誰も來る必要なし一週
間中に退院の筈。(但シコレハミナウソ)[やぶちゃん注:以上は宛名書の下方の書信。上部に右から左に独特の面白い丸文字で「郵便はがき」とあり「一錢五厘」の切手(消印は上記同月同日)の下方に「POST CARD」と印刷されており、中央の印刷された横引罫線左右の間の上方に「K. MAYEJIMA. PHOTOGRAPHER KARUIZAWA JAPAN」、下方に「PICTURE POST CARDS MEDE TO ORDER」と印刷されてある。さらに表面最下部左には、右から左で「信州□□□ □□□□□□□」と印刷してあるが、殆んど判読出来ない。]

原稿用紙ヲオクラレタシ 五トヂバカリ[やぶちゃん注:写真の右白枠内に縦書。これは底本には活字化されていない。

コノハガキヲ夛加志へ見セ、コレハ何トキクベシ[やぶちゃん注:写真の左白枠内に縦書。]

 

[やぶちゃん注:――ワタシハ逆立チシテモ、コンナ忌マハシイハガキハ出セマセン――芥川龍之介はこの年の夏、初めて軽井沢に避暑した。七月二十二日午後一時頃に到着し、鶴屋旅館(現在の表記は「つるや旅館」。ここ。グーグル・マップ・データ)に八月二十三日まで一ヵ月余りも長期滞在した。涼しさが気に入り、翌年の夏も滞在している。というより、この初めての軽井沢滞在の中で、龍之介は、彼の最後の運命の女性「越し人」片山廣子と親密になったのであった。この滞在が長期に亙ったのも廣子との邂逅による恋情の炎上故と考えてよい。私は既にサイトで「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」を公開しており、詳細なオリジナル注もつけており、ここで屋上屋をするつもりはないので、そちらの軽井沢滞在期間内の以下の四書簡

■書簡4 旧全集一二二二書簡 大正13(1924)年7月28日 軽井澤発信(室生犀星宛)

■書簡5 旧全集一二三四書簡 大正13(1924)年8月19日 輕井澤発信(同前)

■書簡6 旧全集一二三五書簡 大正13(1924)年8月19日 輕井澤発信(小穴隆一宛)

■書簡7 旧全集一二三六書簡 大正13(1924)年8月19日 輕井澤発信(同前)

を見られたいが、特に、その「■書簡6」が注目されるのである。その書簡の中で龍之介は、

   *

僕は短篇を一つしか書かず、無暗に本をよんでゐるしかしもう一度廿五才になつたやうに興奮してゐる 事によると時候のせゐかも知れない。事によると、何か書けるかも知れない

   *

と小穴に告白しているのである。私はそちらの注で(少し補足した)、

   *

ここで、龍之介が「もう一度廿五才になつたやうに興奮してゐる」というのは、八年前、芥川龍之介満二十四歳、大正五(一九一六)年の、後の妻塚本文への八月二十五日のプロポーズの手紙(上総一宮発信)に始まる、その顕在的な恋情から同年十二月の婚約の頃の心情を指している(或いはさらに、その二年前の大正三(一九一四)年七月に吉田彌生宛で出した、或いは出そうとした、同じ上総一宮で書かれたラヴ・レター(日付不詳であるが、葛巻氏の提示が順列であるとすれば、七月二十日以降から二十八日までとなる)に遡っても別に何の問題もない)。この時、龍之介は遠い花火ではない、瀧の如く振り注ぐ花火の火の粉を受けながら、若き日と同じ懸恋の切ない情と、そのエクスタシーに浸っているのである――

   *

と感傷的に注してしまった(そちらでは塚本文のみを示したが、今回、吉田彌生も同格、或いは、その失恋の痛恨の心傷(トラウマ)から考えれば、燃えるような恋情とは、寧ろ、彌生へのものの方が相応しいとも言える)。【2021年8月21日手紙改訂】所持する二〇〇九年二玄社刊の日本近代文学館・石割透編「芥川龍之介の書画」にこの絵葉書の裏表が写真で載っているのに気づいたので、それで本文を改訂した。文字列は原文と同じ箇所で改行した。

 

 

大正一三(一九二四)年七月二十五日・輕井澤発信・芥川宛(絵葉書)

 

昨夜淺間山大いに鳴動し、戶をあけて外に出て見れば、まつ赤なる煙、去年の震災の火事の如く立ち居たり。灰少々ふる。今日は爆發を恐れ、歸京する人多し。一昨日來た市川左團次一行も歸る。鳴動は未だにやまず。伯母さん、伊藤さんに來て貰ひしや左團次は滿洲へゆくよし

 

[やぶちゃん注: 浅間山の小噴火である。二十四日に始まり、この二十五日も鳴動が止まなかった。……そう……それは……龍之介よ……お前の恋情の炎上の……予告だったのだな…………

「伯母さん」芥川フキ。

「伊藤さん」不詳。

「左團次」歌舞伎役者(新左團次二代目)市川左團次(明治一三(一八八〇)年~昭和一五(一九四〇)年:旧左團次から数えると五代目に当たる)。伝統歌舞伎で活躍する一方、劇作家で演出家でもあった小山内薫とともに翻訳劇を中心に上演する「自由劇場」で演劇革新運動を行ったことでも知られる(明治四二(一九〇九)年〜大正八(一九一九)年)。明治四五(一九一二)年には座元であった明治座を売却、松竹の専属になった。また、後の昭和三(一九二八)年にはソ連で史上初の歌舞伎海外公演を行って、「戦艦ポチョムキン」(一九二五年)の監督として知られる巨匠セルゲイ・エイゼンシュテインと知り合い、以後、親交を深めた。彼の「イワン雷帝」(一九四四年)は全編に亙って歌舞伎的ショットや演出がふんだんに用いられている。「滿洲」着実に日本が将来的な実行支配を目論んで、多くの権益を広げつつあった、日本からの移民もいた中国東北部の満州地方への興行であろう。]

 

 

大正一三(一九二四)年七月二十七日・輕井澤発信・久米正雄宛(絵葉書・山本有三・高田保と寄書)

 

   靜脈の浮いた手に杏をとらへ(グリインホテルにて)   龍之介

 

   落葉松の山に

   白塗りのホテル

   平らか

                   龍

來い來い

 

[やぶちゃん注:以上の二つの詞章は、私は孰れも新傾向俳句と見做して、「やぶちゃん版芥川龍之介句集 四 続 書簡俳句 (大正十二年~昭和二年迄)附 辞世」に採用している。

「山本有三」既出既注

「高田保」(明治二十八(一八九五)年~昭和二十七(一九五二)年)は劇作家・随筆家。早稲田大学英文科卒。大学時代に宇野浩二と知り合っている。映画雑誌記者を経て、浅草オペラの代表格「金龍館」文芸部に入った。大正十一(一九二二)年に帝国劇場の戯曲懸賞に応募した「案山子」が入選、昭和四(一九二九)年には丸山定夫や山本安英が結成した新築地劇団に加わるも、翌昭和五(一九三〇)年には検挙されて転向、昭和八(一九三三)年には『東京日日新聞』へ入社(同期に大宅壮一)するが、昭和十三(一九三八)年に退社して新国劇の脚色家兼演出家として活躍した。戦後は昭和二十三(一九四八)年から『東京日日新聞』に随筆「ブラリひょうたん」を連載、軽妙な文体で、鋭い時事批評を展開、『昭和の斎藤緑雨』と称せられた(以上は主にウィキの「高田保」によった)。

「グリインホテル」この前年八月一日に開業した「グリーンホテル」。ここ(千ヶ瀧)にあった(今昔マップ)。

 なお、「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」に採用している、この翌日の七月二十八日に輕井沢から室生犀星宛で送った絵葉書には、

 左團次はことしは來ねど住吉の松村みね子はきのふ來にけり

という短歌を記している通り、この前日――かの片山廣子(「松村みね子」は翻訳家としての彼女の当時のペン・ネーム。雨の日に見知らる少女が持っていた傘に記された名であったと本人が述べている。後にこの筆名を彼女は使わなくなった)が鶴屋旅館に入ったのであった――「住吉」は大阪市南西部にある、現在の住吉区と住之江区の一部を指す旧地名(古くは「すみのえ」と呼んだ)。住吉神社を中心に美しい松原があったことから「松」の歌枕で、廣子のペン・ネーム「松村」を引き出すための枕詞に過ぎない。さらに言っておくと、その書簡には、「二伸」があり、そこで「クチナシの句ウマイナアと思ひましたボクにはとても出來ない」と龍之介は書いている。この犀星の「クチナシの句」は不詳であるが、私はドキッとしたのである。何故なら、犀星は、実は既に知人であった廣子を「梔子夫人」(「無口な」の意を利かせた掛詞)と秘かに呼んでおり(また、最初に廣子に恋情を抱いたのは龍之介ではなく、自分だ、と犀星が応じたという話もある)、これ以降、芥川もその符牒を盛んに用いていたから、この犀星の「クチナシの句」は、既にして廣子を言外に詠んだものである可能性が高いと私は考えている。

 

 

大正一三(一九二四)年八月十三日・軽井澤発信・東京市外田端四三五 芥川富貴樣 芥川儔樣

 

おばさんとおばあさんと無精を云はずに來なさい切符を買つて送つてもよろしい晝は八十五度位になれど朝夕は非常に涼しい 中央公論まだ出來ず弱つてゐる 十六七日頃かへるつもり、ぜひ來なさい 來れば二三日近所を御案内申上げ候

                   龍

コノオンナノコハオトコノコガネマシタカラ、シヅカニオシナサイト、イツテヰルノデス

   ヒ ロ シ ニ

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介はこれ以前にも芥川家宛(八月十日(年次推定))及び養父芥川道章宛(八月十三日(同前))で、養母儔(とも)と伯母フキを軽井沢に来るようにと書信している。本書簡は、宛名がこの二人になっている点、及び、「フキ」の名を漢字で「富貴」と記している点で、トビッキリの特異点であるために、特に採用した。私は多くの龍之介の研究書を見てきたが、龍之介を最も愛し、彼もそうであった「フキ」の名が漢字で「富貴」であることを明記したものは殆んど目にした記憶がないからである。

 

 

大正一三(一九二四)年八月十三日・輕井澤発信・芥川文宛(絵葉書)

 

こちらは涼しいと云ふよりも夜は非常に冷える三十錢の懷爐を買つた。ビオフェルミンはみんなのんでしまつた。但し藥屋は聖ルカもある。橫文字の本を二十圓ばかり買つた。岡から結婚屆の印をとりに來たら(ホショウ人の)捺つてやつてくれ同じ宿に原善一郞もゐる。片山廣子女史もゐる

                   龍

 

[やぶちゃん注:「聖ルカ」かの聖路加国際病院の聖路加軽井沢診療所のことであろう。場所は不詳。

「岡から結婚屆の印をとりに來たら」既出既注。この直前の六月二十五日、芥川龍之介・文夫妻は岡の結婚式の媒酌(龍之介は仲人はこれが初めてであった)を勤めていた。相手も龍之介の幼馴染みで染物屋「大彦」の跡取り野口功造・真造兄弟の姪であった。しかし、姑との仲が上手く行かず、翌年の春に女児を出産後、直ちに離婚し、その前後、鬱憤冷めやらぬ栄一郎がお門違いの仲人芥川龍之介に八つ当たりして、龍之介の神経を悩ますこととなった。

「原善一郞」既出既注。あの厭な奴も一緒だったか。

 さて。新全集の宮坂覺氏の年譜には、八月五日の条に、『犀星の部屋で、片山広子を交えて談笑し、犀星には片山を「いつか二人で晩食に呼ばうよ」などと語る』とあり、八月八日の条には、『夜、片山広子・総子親娘、室生犀星と四人で散歩をする』とあり、さらに、八月十三日の夜には、『室生犀星、片山広子・総子親娘、鶴屋旅館主人と自動車で碓井峠へ月見に行』っている。そうして、この辺りで、遂に決定的な龍之介の片山広子への激しい恋情が芥川龍之介の内に宿ることになったのである。八月十九日には、『片山広子、鶴屋旅館主人と追分(おいわけ)に出かけ、美しい虹を見る』『(この』時の『虹は、のち』に『堀辰雄』の『「楡の家」にも描かれた)この頃から』、芥川龍之介は『片山広子に「愁心」を感じ始めており』、冒頭注で示した通り、八月十九日には『小穴隆一に「無暗に本をよんでゐるしかしもう一度廿五才になつたやうに興奮してゐる」』と書き送り、『佐佐木茂索にも「僕、此処へ来てから短篇を一つしか書かず 本ばかり読んでゐる しかももう一度廿五才になつたゆな興奮を感じてゐる」』(八月二十日消印)と書信しているのである。さらに、★この思いが、全くの龍之介の一方的な片思いに過ぎなかったわけではなかった★ことが、永い間、幻しとして公開されていなかった、片山廣子の同大正一三(一九二四)年九月五日附片山廣子芥川龍之介宛書簡によって明らかになったのである。 同書簡は私の「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」を見られたい。

 

 

大正一三(一九二四)年九月二十五日・田端発信・小酒井光次宛

 

冠省過日は高著を頂戴いたし難有く存じます又拙作をおよみ下さるよし御厚志を忝く存じます伊藤女史より御病臥のむね伺ひましたが季候不順の節どうか一層御大事にお體をおいたはり下さいとうに御禮の手紙をさし上げる筈の所、ついつい延引し申訣ありません小生も持病の胃腸を患ひ、床の上に日を送つてゐる始末であります

     卽景

   朝寒や鬼灯のこる草の中

御一笑下さらば幸甚です 頓首

    九月二十五日     芥川龍之介

   小 酒 井 先 生 侍史

 

[やぶちゃん注:「小酒井光次」(こさかいみつじ)は医学博士にして推理小説家であった小酒井不木(明治二三(一八九〇)年~昭和四(一九二九)年)。私の『カテゴリ「小酒井不木」始動 /小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附)(1) 序・目次・「はしがき」・「日本の犯罪文學」・「櫻陰、鎌倉、藤陰の三比事」』の冒頭注を参照されたい。彼は若い頃から結核に罹患していた。]

 

 

大正一三(一九二四)年十月十一日(年次推定)・田端発信・石原新之助宛

 

冠省御手拜見しました兎に角强盜と云ふものは恐しいものに違ひありませんわたしも大いに恐しく感じました殊にその靑年强盜が甚だ强盜的訓練を缺いてゐるのを發見した時は一層恐しく感じたものですそれから金をやつたのは勿論怪我でもさせられるのはいやだと思つた結果です尤も强盜は五十圓出せと云ふのですが五十圓やるのは困りますから、然る可く交涉を重ねた末、二十圓に値ぎりました兎に角わたしの經驗によれば、强盜にはひられたり何かしても、餘り狼狽はしずにすみますが恐しい事は確かですまづ、ちつとも恐しくなかつたと云ふ人がゐたら、噓をついてゐるとお思ひなさい少くともわたしならばその人を噓つきだと思ひます勿論强盜をつかまへても、强盜に道を說いて聞かせてもその人は必ず怖しかつたのに違ひないと思ふのですね尤も恐しさの持續する時間は人によつていろいろ違ふ筈ですが、――わたしなどはその後考へて見ると、三分以上は確かに恐しかつたやうですなほ又金をやる事の可否は生命を失ふのをいやだとすれば可否の問題ではなくなる訣でせうわたしは由來手紙の返事などは滅多に書かぬ人間ですが餘りあなたの手紙が靑年らしい質問故、これだけの事を書きましたどうかこれを例とせずに下さい右とりあへず御返事まで 頓首

    十月十一日       芥川龍之介

   石 原 新 之 助 樣

 

[やぶちゃん注:実は芥川家には、この年の、軽井沢へ発つ十三日前の七月九日の午前三時頃、便所から強盗が侵入し、龍之介ら家人は短刀を突きつけられ、二十円を奪われていた。参照した新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、この書簡の五日前の十月六日に犯人が逮捕されたが、その『犯人は一六歳の早稲田実業本科生で』あったとある。

「石原新之助」不詳。熱心な読者の一人かと推察される。恐らく、前注の犯人逮捕の新聞記事を受けて、作品を愛読していた龍之介へ書信を出し、この人物が恐らく犯人とごく近い年齢であったことから、龍之介は例外的に返書をしたものと推察される。]

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