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2021/08/16

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 五馬 三馬 二馬の竒談(8)~完遂!

 

 文政元年戊寅[やぶちゃん注:一八一八年。]の冬のころ、老侯、又、駿馬を求得(もとめえ)て、「錦帆(きんはん)」と名づけ給ふ。

 則、撫養(ぶやう)の方(かた)を替へて、其厩(むまや)に屋を葺かず、又、板をしも敷(しく)こともなく、只、その牧にありけん如く、馬の、まにまに、せられたり。

 かくて二年の春二月、

「錦帆馬(きんはんば)を試みよ。」

とて、長臣礪﨑氏(かきざきうぢ)【左兵衞廣晃。後に、あらためて「采女」といふ。】を乘せて鎌倉に遣し給ふに、其月の十四日・十五日の兩日に、往返(わうへん)、既に両度(りやうど)に及べり。こは、未曾有の事なれば、老侯、特に歡びのあまり、解に其記を求め給ひき。

「おのれは、わきて、漢文を、ようせず、能文(のうぶん)の儒者、おほかるに、この義は、ゆるし給へかし。」

と、頻に推辭(いなみ)まうしゝかども、

「あだし人には望みなし。とにもかくにも、綴りてよ。」

と、のたまはするに、免れがたくて、俄に創(そう)して、まゐらせたり。然るに、きのふ、ゆくりなく、その草稿を探り出しつ。いと、をこがましきわざながら、錄して、數(かず)に充(みつ)るのみ。

[やぶちゃん注:「礪﨑「左兵衞廣晃」「後に」「采女」不詳だが、蠣崎氏は松前氏とイコールで、戦国時代から蝦夷を本拠とした大名の氏族である。ウィキの「蠣崎氏」によれば、糠部郡蠣崎(青森県むつ市川内町)を領して「蠣崎氏」を称した家系があり、その子孫であるとの説がある。『江戸時代に松前と改姓したが、庶流の中には引き続き』、『蠣崎と名乗る者もいた。本姓は源氏で、清和源氏(河内源氏)義光流で甲斐源氏の庶流と称した。実際には陸奥の土豪が甲斐源氏武田氏を仮冒したとする説もある』とあった。

 以下の「駿馬錦帆記」の漢字の順列・返り点・句点位置は必ずしも底本に従わず(おかしなところが相当数あって訓点に従っても正常な訓読が出来ない)、吉川弘文館随筆大成版を参考に、私の判断でいじってある。必ず、底本と吉川弘文館随筆大成版を比較して見られんことを望む。

 

駿馬錦帆記

松前老侯使者副ㇾ予曰。吾老君性愛ㇾ馬。頃購得良馬因徵叟其記是以傳ㇾ命。予謹對曰。昔者秦少浮序八駿。杜甫賛韓幹馬。八駿韓幹卽𤲿馬也。若李伯樂相馬經及劉禹錫說驥。雖ㇾ云生馬。而非一馬爲ㇾ之者。解之寡聞。加ㇾ之昧于馭法何以能ㇾ之。然懇命不ㇾ可得而辭。敢問老侯之愛ㇾ馬。爲武備乎爲畋獵乎。又唯爲衣以文繡一。置以華蓋。席以露牀。啗以棗哺。以倣楚莊之顰乎。天下不ㇾ憂ㇾ無千里之駒。千里之駒。獨苦於不ㇾ遇伯樂。貴使所謂良馬者何也。曰四蹄疾如飛禽乎。曰三鬃𩭟如貞松乎。逸態稜々爲虎文者乎。駿骨超然擬神龍者乎。甞所ㇾ牽於大宛乎。抑所ㇾ出ㇾ自月支乎。願聞其詳矣。使者莞爾笑曰。僕也以ㇾ叟爲通達洒落之士。不ㇾ憶言之悖于此夫善騎者。知ㇾ驥而取ㇾ之。猶明君知ㇾ賢而用ㇾ之。安俟伯樂。然後求良馬之爲哉。齊景公馬有千駟。而孔子譏ㇾ之。楚莊王馬以士禮。而優孟諫ㇾ之。吾老君亦以爲話柄。大約馬之用。在載而馳。奔蹄速爲ㇾ良。遲爲ㇾ蹇。蹇驢服駕無ㇾ用。是以人々却ㇾ之。良馬武事有ㇾ用。是故人々求ㇾ之。雖則求ㇾ之。然良馬難ㇾ致。非良馬之難一ㇾ致。知ㇾ之之難也。骨法卓然。未ㇾ足以爲一レ良。毛色鮮明。未ㇾ足以爲一ㇾ良。飾以錦繡。置以銀鞍。非ㇾ所以愛一レ馬。加ㇾ之以衡扼。齊ㇾ之以月題非ㇾ所以養一レ馬。吾老君毫無ㇾ取焉。唯考其臧否。而擇ㇾ馬養ㇾ馬。厩櫪中如牧馬一般。蓋隨馬性也。是以馬力壯勇。驚馳如ㇾ意。褊藩甞有駿馬一瞬。得之薩摩侯封内喜入野。至享和元年五月九日斃。老君乃請山本北山其顚末。一瞬冢記是已。今之所ㇾ獲。不ㇾ讓於一瞬。名曰錦※[やぶちゃん注:「※」=「馬」+「風」。以下の「※」も同じ。]。是馬出於下總州葛飾郡小金原中野。其園人吉野嘉橘。養ㇾ之七八年矣。奔蹄神速。不群馬。村翁牧童。曽稱龍種。吾老君聞而徵ㇾ之。其牽來之日。初見ㇾ之。全身薄黃。卽騧馬也。其高勝常馬四寸。年紀八歲于此。左右稱ㇾ良。老君慾ㇾ試ㇾ之。卽命家臣蠣﨑廣晃。遠到于鎌倉。時二月十四日。廣晃跨錦※馬。曉天【寅三㸃。】出ㇾ邸。辰牌【辰鼓過六分。】到鎌倉。謁鶴岡神廟。是日申牌【申正鼓。】還ㇾ邸。明曉【十五日寅一㸃。】廣晃鞭錦※馬一。復赴鎌倉。巳牌【巳鼓過八分。】謁鶴岡神廟。進退如ㇾ昨。社人安田進吾。謂廣晃曰。江府騎馬之士。約往返一日而詣本宮者。爲ㇾ不ㇾ尠矣。其名簿歷々在於此。然同人同馬而連日造於此者。未之有也。宜竹帛以藏神庫。歎賞不ㇾ已【明日神主大伴氏、與廣晃書。以慶賀焉。】。此夕【戌二㸃。】廣晃還ㇾ邸。邸在江戶下谷三絃塹上。至相摸州鎌倉郡鶴岡八幡宮。坂東道一百里又二町。【天朝之制。揣里數段町。六十間爲一町。一町卽三十六丈也。昔者關東。六町爲一里。謂之坂東道。今則三十六町爲一里。坂東道一百里又二町者。今之十六里又二十六町也。下谷三絃塹至日本橋三十町。日本橋至品革驛二里。品革至河崎驛三里四町。此間有餘戶二十六町。加以爲云云。河﨑至程谷一里九町。程谷至戶塚驛二里。戶塚至鎌倉四里六町。土俗私以五十町一里有往々有ㇾ之。謂之田舍道。戶塚至鎌倉亦復如ㇾ此。因以爲三里。其實則四里六町也。三絃塹至鎌倉鶴岡社頭。十六里又二十六町。卽坂東道一百里又二町也。】両日路程。無慮四百里而有ㇾ餘也【以今之里數。卽六十六里三十二町。】。而錦※馬。四蹄無一蹶。廣晃亦不敢曰一レ勞。其詰旦使於簑輪鄕某侯。亭午返命。進退自若。僕所聞見類如ㇾ此。敢請叟文ㇾ之則足也。夫予聞ㇾ之。瘦膝交進。不ㇾ覺灸痂之潰[やぶちゃん注:以上の太字部分は底本にはなく、吉川弘文館随筆大成版にあるものを挿入した。後の部分も同じ。]喟然嘆曰。善哉老侯之愛ㇾ馬也。能養ㇾ士。然後養ㇾ馬。是以其食足矣。其食足。則其材美矣。非獨其馬有千里之蹄。其家臣亦有千里之能。可ㇾ謂士馬之養得其方矣。因語使者曰。解先人亦有馬癖。甞善一條駄法。解也不幸。髫歲喪ㇾ親。犬馬之齡。五十有三。不ㇾ知鞭駒爲何等之物。雖狗才愧驥德。將ㇾ始ㇾ自ㇾ隗。冀稱先人之遺志。使者欣然竟去矣。明日乃綴是記未ㇾ遑ㇾ易ㇾ稿。使者再來。誅求甚急。纔補誤脫以呈焉。文政二年己卯春三月飯台瀧澤解撰

 

[やぶちゃん注:底本も吉川弘文館随筆大成版も以上の訓点以外のものは附帯しない。全くの我流で訓読する。長いので、段落を成形した。一部に勝手に敬語を用いた。面倒なので、本文内に注を入れ込んだ。「じっくり読むのでないから、五月蠅い」という学ぶ気のまるでない御仁のために、下線を引いて、飛ばして読めるようしておいた(リンクを附したものには引いていない)。

   *

 

   駿馬「錦帆」の記

 

 松前老侯、使者を予に副(そ)へて曰はく、

「吾が老君、性、馬を愛す。頃(このごろ)、良馬を購(あがな)ひ得られ、因りて叟に其の記を徵(しる)すこと、是れを以つて、命じ傳ふ。」

と。

 予、謹んで對して曰はく、

「昔は、秦少游[やぶちゃん注:北宋の詩人で政治家であった秦観(一〇四九年~一一〇〇年)か、彼の字(あざな)は少游である。底本では「少浮」だが、全然、掛かってこないので、吉川弘文館随筆大成版の「少游」を採用した。]、「八駿」[やぶちゃん注:紀元前十一世紀頃の周王朝の穆王が所有していたとされる中国の伝説に登場する八頭の駿馬「穆王八駿(ぼくおうはっしゅん)」を絵にしたものか。但し、秦観との関係は不明。思うに、知られたもので、柳宗元に「觀八駿圖說」があるんだがねえ?]を序し、杜甫は韓幹の馬を賛す[やぶちゃん注:韓幹(七〇六年頃~七八三年)は盛唐の画家で詩人王維に画才を見出されて王維は彼のパトロンとなった。人物画や鞍馬画に長けており、まさに馬の画法は後世に大きな影響を与えた。]。「八駿」・「韓幹」は、卽ち、𤲿(ゑが)ける馬なり。李伯樂が「相馬經」[やぶちゃん注:「伯樂相馬經」(はくらくそうばきょう)は伯楽(紀元前七世紀頃:春秋時代の人物。姓は孫、名は陽、伯楽は字。郜(こく)の国(現在の山東省菏沢市成武県)の人。馬が良馬か否かを見抜く相馬眼(そうばがん)に優れていた)の著とされる。]及び劉禹錫(りゆううしやく)「說驥」[やぶちゃん注:中唐の知られた詩人劉禹錫(七七二年~八四二年)が書いた馬の飼育その他について書いた随筆。]のごとし。生きたる馬と云ふ雖も、一馬をして、之れを爲す者は非ず、解(とく)[やぶちゃん注:馬琴の本名。]は之れ、寡聞なり。加之(しかのみならず)、馭法に昧(くら)く、何を以つてか、之れを能くせんや。然れども懇ろなる命を、得て辭するべからず。敢へて問ふ、老侯の馬を愛さるるは、武備の爲めか、畋獵(てんれふ)[やぶちゃん注:狩り。]の爲めか。又、唯だ、文繡を以つて衣(ころも)とし、置くに華蓋を以つてし、露牀[やぶちゃん注:竹で作った涼しくするための床。]を以つて席とし、啗(くら)ふに棗(なつめ)・哺(ほじし)を以つて以つてし、楚莊の顰(ひそみ)に倣ひて爲(な)さんとせらるるか。天下は千里の駒の無きを憂へず、千里の駒は、獨り、伯樂に遇はざるを、苦しむのみ。貴使の、所謂(いふところ)の、「良馬」とは何ぞや。曰四蹄の疾すること、飛ぶ禽(とり)のごときを曰ふか。曰三つの鬃𩭟(たてがみ[やぶちゃん注:二字目の意味は不明。誤魔化した。])貞(ただ)しき松のごときなるを曰ふか。逸態[やぶちゃん注:素早く走る姿。]の稜々として虎の文を爲せる者か。駿骨の超然として神龍に擬せる者か。甞つて、大宛に牽かせるものか。抑(そも)、月支(げつし)[やぶちゃん注:中央・東・南アジアにかつて存在した民族月氏及びその国。]より出されしものか。願はくは、其の詳らかなるを聞かさせんことを。」

と。

 使者、莞爾として笑ひて曰はく。

「僕や、叟を以つて『通達洒落(つうたつしやれ)の士』と爲せり。憶せざる言は、此れに悖(もと)る。夫(そ)れ、善き騎者は、驥を知りて、之れを取る。猶ほ、明君の賢を知りて之れを用ふるがごとし。安(なん)ぞ伯樂を俟(ま)たんや。然る後に、良馬を求め、之れを爲さんや。齊景公、馬、千駟(せんし)[やぶちゃん注:四千頭。或いは四頭立馬車千台。]有り。而して、孔子、之れを譏(そし)る。楚莊王、馬に士の禮を以つてす。而して、優孟[やぶちゃん注:楚の荘王に仕えた倡優(しょうゆう:宮廷附きの道化師)の名(芸名であろう)。]、之れを諫む。吾が老君も亦、以つて、話柄を爲されり。

『大約、馬の用は、載りて馳せるに在り。奔・蹄・速の良を爲す。遲きものは、蹇(けん)[やぶちゃん注:足の具合が悪いこと。]と爲し、「蹇驢服駕(けんろふくが)」にて、用ふること、無し[やぶちゃん注:これは「楚辭」の王褒「九懷」の「株昭」の一節を用いたものである。「蹇驢服駕」とは「足を引きずっている驢馬を車に繫ぐこと」を意味する。因みに吉川弘文館随筆大成版では「服」を「股」とするが、誤りである。]。是れを以つて、人々、之れを却(す)つ。良馬は武事に用有り。是の故に、人々、之れを求む。則ち、之れを求むと雖も、然かなる良馬は致(まね)き難し。良馬の致き難きには非ず。之れを知るの難なり。骨法は卓然たり[やぶちゃん注:真の奥義というものは恐ろしゝ頭抜けたものである。]。未だ以つて良と爲(す)るに足らず。毛色の鮮明も、未だ以つて良と爲るに足らず。飾るに錦繡を以つてし、置くに銀の鞍を以つてするも、以つて馬を愛す所に非ず。加之(しかのみならず)衡扼(かうやく)を以つてす[やぶちゃん注:「衡軛」は牛馬の頸を結びつけるための横木。]。之れを齊しく、月題を以つてす[やぶちゃん注:「月題」が判らない。月ごとにしか厩を掃除しないことか。或いは、月に一度しか馬を厩から出さないことか。]。馬を養ふ所以(しよい)に非ず。』

と。吾が老君、毫(ごう)も取ること無し。唯だ、其の臧否(ざうひ)を考へらる。而して馬を擇(えら)び、馬を養ふ。厩櫪(きゆうれき/むまや)の中(うち)、牧の馬(むま)の一般に同じ。蓋し、馬の性(しやう)に隨ふなり。是れを以つて、馬、力、壯勇たり。驚馳(きやうち)すること、意のごとし。

 褊藩(へんぱん)[やぶちゃん注:領地が狭い藩。]、甞つて、駿馬「一瞬」有り。之れ、薩摩侯の封内の喜入野より得たり。享和元年[やぶちゃん注:一八〇一年。]五月九日に至りて斃(たふ)る。老君、乃(すなは)ち、山本北山に請はれ、其の顚末を識させしむ。『「一瞬冢(いつしゆんづか)」の記』、是れのみ。

 今、之(ここ)に獲(え)し所のもの、「一瞬」に讓らざるなり。名は「錦※」[やぶちゃん注:「※」=「馬」+「風」。以下の「※」も同じ。仮に「きんぷう」と読んでおく。]と曰ふ。是の馬、下總州(かづさのくに)葛飾郡(かつしかのこほり)小金原の中野より出づ[やぶちゃん注:千葉県松戸市小金原(グーグル・マップ・データ)。]。其の園人は吉野嘉橘(かきつ)。之れを養ひて、七、八年たり。奔蹄・神速にして、群馬とは俱(とも)にせず。村翁・牧童、曽つて「龍種(りゆうしゆ/たつのこ)」と稱せり。

 吾が老君、聞きて、之を徵(ちゃう)さる。其の牽き來れるの日、初めて之れを見らる。

 全身薄黃、卽ち、騧馬(くわば)なり[やぶちゃん注:口先が黒く、黄色い毛色の馬。]。其の高(たけ)、常馬より勝れて、四寸(よき)[やぶちゃん注:一メートル三十三センチメートル。「寸(き)」は馬の背丈(文字通り、頸の後部の跨る背の前部まで)を示す専用の助数詞で、標準の高さを四尺(一・二一メートル)とし、それよりも一寸(すん)高い物から一寸(ひとき)と数えていった。因みに、中世までの日本産の馬の大きさは想像以上に小型であった。例えば、義経の「鵯越え」の発案に、畠山重忠は反対しているが(大事な馬の脚が折れる危惧があるという理由である)、決行された。その際、重忠は自分の愛馬を背負って徒歩で崖を下っているのである)。]。年紀、此のとき、八歲なり。

 左右、「良き。」と稱せり。

 老君、之れを試みんと慾され、卽ち、家臣蠣﨑廣晃(かきざきひろあき)に命ぜられ、遠く鎌倉に到らせらる。

 時に二月十四日、廣晃、「錦※馬」に跨り、曉天【寅の三㸃[やぶちゃん注:午前四時頃。]。】、邸(やしき)を出づ。辰の牌(こく)【辰の鼓(こ)の過ぎ六分。[やぶちゃん注:午前八時六分か。]】、鎌倉に到る。鶴が岡の神廟(しんべう)を謁し、是の日の申の牌【申の正鼓。[やぶちゃん注:午後四時。]】、邸に還る。

 明くる曉(あかつき)【十五日の寅一㸃。[やぶちゃん注:午前三時。]】、廣晃、「錦※馬」に鞭(むちう)つて、復た、鎌倉に赴き、巳の牌【巳鼓過八分。[やぶちゃん注:午前十時八分か。]】鶴岡の神廟に謁し、進退、昨(きのふ)のごとし。

 社人安田進吾、廣晃に謂ひて曰はく、

『江府の騎馬の士、約(およ)そ、往返(わうへん)一日にて、本宮(ほんぐう)に詣(まう)ずる者は尠(すくな)からず爲(な)せり。其の名簿、歷々、此(ここ)に在り。然るに、同人・同馬にて、連日、此れを造(な)せる者は、未だ、之れ、有らざるなり。宜しく、竹帛(ちくはく)に錄し、以つて神庫に藏(をさ)むるべし。』

と、歎賞、已まず【明日(みやうじつ)、神主大伴氏、廣晃に書(ふみ)を與へ、以つて慶賀せしむ。】。此の夕(ゆふべ)【戌二㸃。[やぶちゃん注:午後七時。]】、廣晃、邸に還る。邸は江戶下谷三絃塹(さんげんぼり)上(うへ)に在り[やぶちゃん注:俗称「三味線堀」。現在の台東区台東二丁目附近であろう。御徒町駅の南東直近。]。相摸州(さがみのくに)鎌倉郡(かまくらこほり)の鶴岡八幡宮に至るまでは、坂東道(ばんどうみち)[やぶちゃん注:「坂東路(ばんどうみち)」「田舎道(いなかみち)」とも称し、古い特殊な路程単位である。即ち、安土桃山時代の太閤検地から現在までは、通常の一里は現在と同じ三・九二七キロメートルであるが、以下で馬琴も説明している通り、この坂東里(「田舎道の里程」の意で、奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づくもの)では、一里=六町=六百五十四メートルでしかなかった。これは特に鎌倉時代に関東で好んで用いたため、江戸時代でも江戸でこの単位をよく用いたものと思われる。]にて、一百里、又、二町なり[やぶちゃん注:六十五・六一八キロメートル。]。【天朝の制は、里數を揣(はか)るに、段・町を以つてし、六十間を一町と爲す。一町は、卽ち。三十六丈なり。昔は關東にては、六町を一里と爲せり。之れを「坂東道」と謂ふ。今、則ち、三十六町を一里と爲す。坂東道の「一百里」、又、「二町」とは、今の「十六里」、又、「二十六町」なり。下谷三絃塹より、日本橋に至れるは、三十町。日本橋より品革驛(しながはえき)は、二里。品革より河崎驛(かはさきえき)は、三里四町。此の間、餘(よ)の戶(こ)[やぶちゃん注:行政区分としての町。]は二十六町、有り。加以(しかのみならず)云云(しかじか)と爲す[やぶちゃん注:「それだけではなく」としつつ、以下の町の間は、くだくだしくなるだけで不要なので略す、という謂いであろう。]。河﨑(かはさき)より程谷(ほどがや)に至りては、一里九町。程谷より戶塚驛に至るは、二里。戶塚より鎌倉に至るは、四里六町。土俗、私(わたくし)に、五十町以二一一里有往々有ㇾ之。謂之田舍道。戶塚至鎌倉亦復如ㇾ此。因以爲三里。其實則四里六町也。三絃塹至鎌倉鶴岡社頭。十六里又二十六町。卽坂東道一百里又二町也。】[やぶちゃん注:試みに、三味線堀附近から、ここに示された宿駅を考慮して、鶴ヶ岡八幡宮までを比較的旧道沿いに実測してみたところ、五十六キロメートルはあった。経過時間が確認出来る二つの内、一番早かった一日目の往路が僅か四時間であるから、時速十四キロメートル、二日目の往路が七時間で時速八キロメートルであったことになる。馬は現在のサラブレッドで最大時速六十~七十キロメートル出せるが、これは数分間しか維持出来ない。通常歩行では時速約十三~十五キロメートルであるが、それもまた維持出来るは一時間程度とあるから、この馬は並の速さではない。しかも延べ二百キロメートルもの距離を二日に分けて走っているのである。]両日の路程は、無慮(おほよそ)四百里にて餘り有るなり【今の里數を以つては、卽ち、六十六里三十二町なり。[やぶちゃん注:二百六十二・六九キロメートル。]】。而して「錦※馬」は、四蹄(してい)、一つの蹶(けつ)[やぶちゃん注:躓くこと。]も無し。廣晃も亦、敢へて勞りを曰はず、其の詰旦(きつたん)[やぶちゃん注:翌朝。]、簑輪鄕の某侯へ使ひし、亭午(ていご)[やぶちゃん注:正午。]に返命せり。進退、自若にして、僕[やぶちゃん注:使者の自称。]の聞見さるる類ひは此くのごとし。敢へて請ふ、叟(さう)[やぶちゃん注:相手の馬琴を指す。]、之れを文(ふみ)よ。則ち、足れるなり。」

と。

 夫(それ)、予、之れを聞き、

瘦せし膝を交(あは)せて進み、灸の痂(あと)の潰るるを覺えもせず[やぶちゃん注:以上の太字部分は底本にはなく、吉川弘文館随筆大成版にあるものを挿入した。後の部分も同じ。]、喟然(きぜん)して[やぶちゃん注:溜息をついて、]、嘆じて曰はく、

「善きかな、老侯の馬を愛すや、能く、士を養ひ[やぶちゃん注:ここは特にその家臣の内でもこの見事な説得を述べた使者(後で「長尾友藏」と出る)の磨かれた才智を讃えているのである。]、然(しか)る後、馬を養ふ。是れを以つて、其の食、足れり[やぶちゃん注:私の心の内は感動で盈ちたというのであろう。]。則ち、其の材の美なり。獨り、其の馬千里の蹄(ひづめ)の有のみに非ず。其の家臣も亦、千里の能(のう)有り。『士馬の養(やしな)ひ』の、其の方(はう)を得たると謂ふべし。」

と。

 因りて、使者に語りて曰はく、

「解(とく)の先人も亦、馬癖有り。甞つて一條の駄法を善くす。解や、不幸にして、髫歲(うないがみのとし)[やぶちゃん注:七、八歳の童児の髪を項(うなじ)の辺りで結んで垂らしたもの。]に親を喪(なく)す。犬馬の齡、五十有三。鞭(べん)・駒(く)の何等の物たるかを知らず、狗才(くさい)の驥德(きとく)に愧(は)ずと雖も、將に、隗(くわい)より始めんとす。冀(ねがはく)は、先人の遺志を稱さん。」

と。[やぶちゃん注:「先人」瀧澤馬琴解(とく)の実の父のことを言っている。旗本であったが、馬琴が九歳の時に亡くなった。]

 使者、欣然として竟(つひ)に去る。明日、乃(すなは)ち、是の記を綴れり。未だ、稿を易くする遑(いとま)あらず。使者、再び來りて、誅求(ちゆうきふ)、甚だ急なり。纔かに誤脫を補ひ、以つて呈せり。文政二年己卯(つちのとう/きばう)春三月飯台瀧澤解撰[やぶちゃん注:「飯台」「飯台陳人(はんだいちんじん)」。馬琴の号の一つ。]

   *]

 

 この記文(きぶん)の事、その年の春三月十六日に、老侯の使者【長尾友藏。】來訪して命を傳(つとふ)るにより、同月十八日に創しつゝ、廿日に、これを、まゐらせにき。駿馬の名、はじめは「錦帆」と書かれしを、予がこの記を綴るに及(および)て「帆」を「※」に作れり。使者、この義を詰(なじ)りしかば、予、答へて、

「『※』は『帆』と通ふ義あり。且、字書に、『水行曰ㇾ「帆」。陸行曰ㇾ「※」』とも候。駿馬の爲(ため)には、舟帆(しゆうはん)の『帆』たらんより、その字、『馬』に從はんこそ、勝(まさ)れるやうに覺え侯。いかゞ侍るべからん。」

といひしを、使者、やがて歸りまゐりて、

「云々。」[やぶちゃん注:「しかじか」。]

と申しゝかば、老侯、領き給ひしとぞ。

 かくて次の年にやありけん。聊(いさゝか)、所要の事有て、書肆(ふみや)より、「淵鑑類函」両三帙(ちつ)を借りよせつ。是彼(これこれ[やぶちゃん注:ママ。])と披閱(ひえつ)せしそが中に、第四百三十三卷「獸の部」、「馬の三」に、「古今註」を載せて、『曹眞有駛馬【駛、音「史」。卽。「駿」也。】[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版はこれを頭書とする。]。名驚帆。』といふよし、見たり。かゝれば、唐山(からくに)にて、魏の時、はやく、「馬」の名に「帆(ほ)」をもて、しつることは、ありけり。これによらば、「錦※」も、はじめのごとく、舟帆の「帆」に作るも、よしなきにあらず。拙文のうち、この故事を引きもらしたりしのみ、今しも堪(たへ)ぬ恨(うらみ)にぞありける。【右、「二馬」之二。】[やぶちゃん注:この割注は底本にはない。吉川弘文館随筆大成版で挿入した。以下の「追錄」というのは全体が一字下げ。なお、この「追錄」は吉川弘文館随筆大成版には後の「第六集」の中にほぼ同内容の追記として出てくる。少し表現が異なるので後にそれを示しておいた。]

 

追錄。「宛委餘篇」云、『呂布玉追。曹眞驚帆。曹洪白鶴。』。又、云、『驚帆、魏曹洪所ㇾ名駿馬也。馳馬吳孫權所ㇾ名快船也。二事正相及而又相對。出一時甚竒。』。この條の曹洪とあるは、曹眞の誤なるへし。駿馬(ときむま)に「帆」をもて名づけ、快船(はやふね)に馬をもて名づけし事、共に三國鼎立(ていりつ)にあれば、實に竒也。

□曲亭馬琴「兎園小説」正編第六集所収の「五馬 三馬 二馬の竒談」への附記

  前々會拙編中補遺附錄

「宛委餘篇」云、「呂布有赤兎。張飛有玉追。曹眞有驚帆。曹洪有白鶴。又云、驚帆魏曹洪所ㇾ名駿馬也、馳馬吳孫權所名快舫也。二事正相反。而又相對出一時甚奇【見第三八丁右。】。」。この條の「曹洪」とあるは、「曹眞」の誤なるべし。とき馬に「帆」をもて、名づけ、「はやふね」に「馬」をもて名づけし事、共に三國鼎立の時にあれば、實に奇なり。この事、季春の集合に出だせし拙編「錦※」[やぶちゃん注:「※」=「馬」+「風」。以下の「※」も同じ。]の條にいふべかりしを、うち忘れたりければ、追うて、こゝにしるしおくのみ。六日のあやめ、十日の菊、おくれて、いまだ遠くもあらぬを、見かへる人もあらんかとてなり。  解   再識

[やぶちゃん注:「宛委餘篇」明の官僚王世貞の著になる随筆。漢文部を訓読して見る。

   *

呂布に「赤兎」有り、張飛に「玉追」有り、曹眞に「驚帆」有り。曹洪に「白鶴」有り。又、云はく、『「驚帆」は、魏の曹洪が名づくる所の駿馬なり。馳(と)き馬にして、吳の孫權の名づくる所は「快舫」なり。二つの事、正に相ひ反す。而れども、又、相ひ對して、一時に出ずるも、甚だ奇なり。』と。

   *

南船北馬の中国ならではの馬のネーミングとして甚だ腑に落ちる。

「三國鼎立」中国の蜀・魏・呉による時代区分の一つで、三国が鼎立した二二二年から、蜀漢が滅亡した二六三年までを指す。]

 

[やぶちゃん注:以下の本条全体の跋は吉川弘文館随筆大成版にもある。但し、最後の馬琴の「著作堂解識」は底本にはないので、同版で補った。]

 

右「五馬」・「三馬」・「二馬」の拙編、おもひしよりは、ことの多くて、紙の數は、かさなりぬ。世にいふ「下手(へた)の長談義」なるべし。文政八年乙酉三月朔 著作堂解識

[やぶちゃん注:「長尾友藏」サイト「伊達の香りを楽しむ会」の「箱崎村の松五郎とその遺愛の馬、忠孝の名馬」(「五馬」の一の話の梗概と馬琴に伝わるまでの話が読みやすく記されてある)に『家臣長尾友蔵(所左衛門)』とあった。他に、「五馬」の二の話も「飼い主を噛殺した狂馬の話」として略述されてある。]

 

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