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2021/08/23

芥川龍之介書簡抄128 / 大正一四(一九二四)年(九) 五通(参考・一通/参考・河童図)

 

大正一四(一九二四)年九月二十五日・田端発信・佐藤春夫宛

 

冠省、小病小閑を得、この手紙をしたためる。濱木綿の畫ありがたう。それから女性の隨筆で例の短尺の件、十二ケ月の事を君に傳へ忘れたのを知り、大いに恐縮した。君はもう書き了つたか。僕はまだ百枚ばかり殘つてゐる。この頃なる可くものを書かずに飯を食ふ工夫をしてゐるが、それは却つてものを書くより骨が折れる事になりさうにて所詮は賣文到死かと思つてゐる。目下支那游記の校正中。床の上にて校正の傍ら別紙抒情詩一篇を作る。御愛誦御隨意たるべし。この頃諸詩人の集を讀み、つらつら考ふる所によれば、どうも日本の詩人は聾だね。(歌人は例外)少くも視覺的效果に鋭い割に聽覺的效果には鈍感だね。君はさうは思はぬか? 長歌、催馬樂、今樣などのリズムもどうももう一度考へ直して見る必要がありさうだ。夜來秋雨。墜葉處々黃なり。ワギモコによろしく。(夜長如年把燭寢顏を見よや。)

    九月二十五日     澄 江 子

   曾 枝 亭 先 生

 

   風きほふゆふべなりけむ、

   窓のとにのびあがりつつ

   オルガンをとどろとひける

   女わらべの君こそ見しか。

   男わらべのわれをも名をも

   年月のながるるままに

   いまははた知りたまはずや。

   いまもなほ知りたまへりや。

 

[やぶちゃん注:この抒情詩篇に登場する「女わらべの君」は明らかに吉田彌生の面影である。

「小病小閑を得」芥川龍之介軽井沢(九月七日帰京)で罹患した風邪の症状が思わしくなく、この五日前の二十日まで横臥していた。

「女性の隨筆で例の短尺の件、十二ケ月の事を君に傳へ忘れたのを知り」これにはちょっと説明がいる。しかも採用していない書簡をここで示さないと話がすっきりしてこない。されば、例外的にその書簡、四ヶ月前の佐藤春夫宛芥川龍之介書簡を、まず、この注の中で以下に電子化することとする。採用する気はなかったことは変わりはないので、注は本文に入れ込む(太字にした)。

   *

大正一四(一九二四)年五月十七日・田端発信・佐藤春夫宛

冠省ここに下山霜山[やぶちゃん注:「しもやまそうざん」(現代仮名遣)と読む。書画商。詳細事績未詳だが、共著で「新撰俳句大觀」(大正五(一九一六)年実業之日本社刊)があり、以下の謂いから見ても、俳句も捻ったらしい。]と言ふものあり。今度作家十二人に短尺を書かせ、大いに私腹を肥やさんとす。就いては君にも彼を儲けさせる一人になつて貰ひたきよし、僕から賴んでくれろと言ふ。それを引受けしはずつと前なれど、荏苒[やぶちゃん注:「じんぜん」。物事が延び延びになるさま。]として今日手紙を書くに至る。尤も小山内氏[やぶちゃん注:既出既注の小山内薫。]より前にちよつと手紙の行つたことと思ふ。正直に言へば、この擧は千枚や二千枚の短尺を書かされる事故、必しも樂ならざるべし。然れども君にはひつて貰へば啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]下山霜山の喜びのみにあらず、僕や室生犀星も同じ地獄に君と相見する底の[やぶちゃん注:「體(てい)の」に地獄の「底」を掛けた洒落であろう。]惡魔的歡喜あらん。君の外に書かされる連中は泉[やぶちゃん注:鏡花。]、德田[やぶちゃん注:秋声。]、永井[やぶちゃん注:荷風。]、里見[やぶちゃん注:弴。]、長田(幹)[やぶちゃん注:長田幹彦。]、久米[やぶちゃん注:正雄。]、小山内、久保田[やぶちゃん注:万太郎。]、上司[やぶちゃん注:小剣。]、室生、僕の十一人なり。書くものは俳句。何分よろしく願ひ奉る。下山むやみに急いでゐれば、電報位打つかも知れず。それも前以て斷り奉る。この頃田端に萩原朔太郎來り、田端大いに詩的なり。僕は軒前に竹三百竿を植ゑた。矢竹[やぶちゃん注:私の『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 猪 三 猪の禍ひ』の「矢竹」の注を参照。因みに「早川孝太郎の「猪・鹿・狸」には極めて好意的な芥川龍之介の書評「猪・鹿・狸」がある。]は三百竿二三坪にをさまる。風流下圖の如しと知るべし。頓首々々[やぶちゃん注:ここに底本(岩波旧全集)編者による『〔ペンの小さき畫あり〕』が、絵は省略されて存在しない。]

    五月十七日      芥川龍之介

   佐 藤 春 夫 樣

   *

次に、岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注を見ると、「女性の隨筆で」という部分が明瞭となる。則ち、この月の雑誌『女性』の『九月号掲載の佐藤春夫』の随筆『「恋し鳥の記」は、「十二ケ月揃へ」た俳句を「短冊」に書くべく依頼された』という芥川の依頼した事実から『書き出されている』のであるが、実は以上の注で出した前の書簡では『「十二ケ月の事」は記』し忘れていた(以上で石割氏の注は終わり)ことを、この随筆を読んだ龍之介が思い出したのであった。しかも自分は、まだ、百枚も残っているというのである。恐らく、佐藤は下山から連絡が行き、「十二ケ月揃へ」の句という条件を理解していたのであろう。なお、新全集の宮坂年譜では、この短冊について、九月二十五日の条に『文士真蹟短冊頒布会の短冊』と記している。

「支那游記の校正中」既出既注だが、再掲しておくと、この凡そ五ヶ月後の大正十四年十一月三日に改造社から刊行される中国紀行集成「支那游記」(「自序」の後、「上海游記」「江南游記」「長江游記」「北京日記抄」「雜信一束」の構成配置となっている。私の「心朽窩旧館」にはこの全篇の注釈付テクストが完備してある)。小穴隆一装幀。

「この頃諸詩人の集を讀み、つらつら考ふる所によれば、どうも日本の詩人は聾だね。(歌人は例外)少くも視覺的效果に鋭い割に聽覺的效果には鈍感だね。君はさうは思はぬか? 長歌、催馬樂、今樣などのリズムもどうももう一度考へ直して見る必要がありさうだ」この言説は非常に興味深い。所謂、定型抒情詩へと恐るべき執拗(しゅうね)き思い入れを以って傾いてゆき、遂には『芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」という夢魔』(リンク先は私のブログ・カテゴリ)の淵へと遠く去った龍之介の闡明であると思うからである。

「夜長如年把燭寢顏を見よや」中途半端なもので、こなれていないが、恐らくは、秋の「夜の長きこと 年のごとく 燭(しよく)を把(と)りて 寢顏を見よや」であろう。筑摩全集類聚版では『よながとしのごとくしよくをとつて』とルビするが、「夜長 年のごとく」は私には、それこそ龍之介ではないが、韻律に於いて甚だ戴けない。]

 

 

大正一四(一九二四)年九月二十五日・田端発信・中根駒十郞宛

 

冠省。先達渡邊君より尊臺御光來下さるやうに伺ひ居り候へば、御光來下さるものと相定め、この手紙したため申候。其角の句に曰、「爐塞ぎや汝を呼ぶは金の事」古今同歎とはこの事なり。何とぞ御光來の節はお金三百圓ばかり御融通下され度願上候。文章倶樂部のゴシツプによれば千葉の海に命を失はむとなされ候よし、それは小生にお金を渡さざる祟りなり。今度のお金も御延引なされ候に於ては自動車か電車に轢かれ御落命の惧有之るべき乎。急々如律令。急々如律令。[やぶちゃん注:最後の繰り返しは「きふきふによりつりやう」と読む。]

    九月二十五日     龍 之 介

   駒 十 郞 樣

 

[やぶちゃん注:「中根駒十郞」既出既注。「新潮社の大番頭」の異名を持った彼に芥川龍之介はひっきりなしに金を無心していることもそちらで書いた。あまりに度々なために、ここでは、いつもの低姿勢懇請型ではなく、とんでもない呪詛脅迫型を採っているが、面白いものの、やはりちょっと厭な感じが拭えない。龍之介は養父・養母・伯母フキ・妻文・子ども二人(後に三人)の生活を一手に支えねばならず、どうしても、金に対しては、ある種、「せこい」というか「ずる賢い」一面があった。そうして、そのせびる方法が、一種、慇懃無礼であったり、トリッキーに細かかったりして、相手を眩ませるのである(恐らく、実質的にこの時までに、本来は芥川龍之介自身が負担すべきものを多額に払わされたのは、大阪毎日新聞社であると私は思っている。特に中国特派では、巧妙な龍之介の要望を受け入たために、相当額の不要な支払いをしていると私は感じている。ただ、芥川龍之介の死後を考えると、芥川龍之介全集を遺書(リンク先は「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」)で破棄された新潮社が、結果して長期的展望から言って最大の損失者であったとは思う。それを受け入れた新潮社は大したものだと、心底、私は思っている。

「渡邊君」芥川龍之介の通い書生渡邊庫輔。

『其角の句に曰、「爐塞ぎや汝を呼ぶは金の事」』これは「爐開(ろびら)き」の誤りであろう。私の柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 其角 三」に(漢字を正字化した)、

  三年成就の圍に入

 爐開や汝をよぶは金の事   其 角

とあるからである。「圍に入」は「かこひにいる」で「爐開き」のこと。冬になって初めて囲炉裏(いろり)又は茶事の炉を開いて用いること。茶の湯では、十月の終わりから十一月初めにかけて行う。また、その行事で、季題としては冬である。対する「爐塞(ろふさ)ぎ」の方は、冬の間、使ってきた囲炉裏を春になって塞ぐこと。茶の湯では、炉を塞いで、風炉(ふろ:茶の湯で釜の湯を沸かすための火鉢状の道具)にすることで、季題は春である。投函日は九月末であるから、後者に誤ったか、或いは意図的に季節を合わせるために季題を変えたかである。しかし、金がかかるのは、「爐塞ぎ」よりも、年末の掛け取りとダブって「爐開き」の方であろうから、この変更は無効である。

「千葉の海に命を失はむとなされ候よし」不詳。或いは、海水浴で溺れかけたというようなことか?

「急々如律令」(きゅうきゅうにょりつりょう:現代仮名遣)は、漢代の公文書で、本文を書いた後に、「この主旨を心得て、急々に、律令のごとくに行なえ」という意で、書き添えた語で、後に、転じて、道家や陰陽家の「咒(まじな)い」の詞(ことば)となり、また、「悪魔は速やかに立ち去れ」の意で祈禱僧が咒いの詞の末に用いた。その後、武芸伝授書の文末などにも書かれて、「教えに違(たが)う勿(なか)れ」の意を表わしたりもした。]

 

 

大正一四(一九二四)年十一月一日・田端発信・南條勝代宛

 

オケイコハサハリアル故コノ次ノ月曜日マデノバシテ下サイ

  (これは三十一文字の手紙です)

 十一月朔          芥川龍之介

南條勝代樣

 

[やぶちゃん注:完全な戯歌で、詩想も永遠なる零であるが、短歌形式である以上、採用した。

「南條勝代」(生没年未詳)新全集の「人名解説索引」によれば、二歳から十八歳までをヨーロッパで過ごした女性で、『如何なる経緯かは不明だが』、芥川龍之は大正一四(一九二五)年九月頃から、翌年の四月頃まで、彼女を自宅に呼んで、『日本文学一般についての個人教授をしている』とある。]

 

 

大正一四(一九二四)年十一月二十五日・田端発信・小手川金次郞宛

 

冠省かまぼこ澤山ありがたう存じました河童の圖は野上さんの御馳走になつた時に誰の畫帖とも知らずにかきました次手を以て河童の歌を一首御披露いたします 頓首

   ワガ愛ヅル河ノ太郞ヲ畫ニカケリコハクナクトモ少シコハガレ

    十一月二十五日    芥川龍之介

   小手川金次郞樣

 

[やぶちゃん注:「小手川金次郞」(明治二四(一八九一)年~?)は、結果から言うと、最後まで一人長生きした夏目漱石の直弟子で大分県北海部郡臼杵町生まれの野上弥生子の弟である。弥生子の父角三郎(酒造業にして資産家で「第二十三国立銀行」監査役)の弟(弥生子の叔父)である小手川金次郎は「フンドーキン醤油」の創業者で、当主である兄角三郎の酒造の空いている時期の「麹むろ」を使用して、醤油・味噌の製造を手掛け、金次郎の次女のテツを角三郎の長男次郎(弥生子の異母兄)に嫁がせ(但し、後に離婚)、兄角三郎の次男武馬を養子に貰って、二代目金次郎とした、とウィキの「野上弥生子」にある。この二代目が、この宛名の相手である。生年は「名古屋大学大学院法学研究科」公式サイト内の「日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース」で確認した。

「野上さん」野上弥生子の夫で英文学者にして能楽研究者でもあった野上豊一郎(明治一六(一八八三)年~昭和二五(一九五〇)年)。当該ウィキによれば、『大分県臼杵市出身。臼杵中学、第一高等学校を経て』、明治四一(一九〇八)年に東京帝国大学文科大学英文科を卒業』した。『同級生に安倍能成・岩波茂雄・藤村操が』おり、前二者とともに『夏目漱石に師事した』(藤村操は漱石が「君の英文学の考え方は間違っている」と叱った直後に自殺しており、それは後年の漱石の精神疾患の原因の一つとも言われている。また操の妹の夫となったのが安倍能成である)。『東京帝大卒業後、国民新聞社の文芸記者とな』ったが、明治四二(一九〇九)年に『法政大学講師となり』、大正九年(一九二〇)年には『同大学教授とな』った。『予科長・学監・理事を歴任し、森田草平・内田百閒・井本健作など漱石門下の文学者を教授陣に招聘』するなどしたが、昭和八(一九三三)年に『学内紛争(法政騒動)で辞職』(但し、昭和一六(一九四一)年に復職している)、昭和一四(一九三九)年には『文学博士の学位を受け』た。『終戦直後の』昭和二一(一九四六)年、『法政大学総長に選ばれ、戦争で被害を受けた大学の復興にあたった。総長在任中』『に脳出血のため』、『世田谷区成城の自宅で死去』した、とある。

「河童の圖は野上さんの御馳走になつた時に誰の畫帖とも知らずにかきました」「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)にここで言っている河童図と指示するものをトリミングして以下に示す(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。

 

Kappazu

 

ただ、カメラの寄りが近過ぎるか、冊子編集の過程で上下を少しカットしてしまったものらしく、特に上部は河童が押さえ込まれているようで、甚だ残念である。所持する二〇〇九年二玄社刊の日本近代文学館・石割透編「芥川龍之介の書画」によれば(こちらで見られんことをお薦めする。カラーで、河童の肌の色や背負った葭の穂の墨痕も細部まで観察出来、全体に破綻なく絶妙で、その河童に表情は、一種、鬼気たるものをさえ感じさせる一枚である)、この河童図は現在は日本近代文学館蔵で、状態は紙本・軸装・墨書、サイズは二十八・五✕四十八・五センチメートル、署名は御覧の通り、「澄江堂」である。]

 

 

大正一四(一九二四)年十二月二十九日・田端発信・小手川金次郞宛

 

冠省この間はかまぼこを頂き難有く存じます早速となりのいもじ秀眞先生に御裾わけして頂だい仕りました早速御禮申上げるつもりでしたが、新年號なるものにひつかゝり居候爲、ついつい今日に相成り甚恐縮に存じてゐます次手に河郞の歌を御披露します

   橋の上ゆ胡瓜なぐれば水ひびきすなはち見ゆるかぶろのあたま

   わがめづる河の太郞を𤲿にかけり怖くなくとも少し怖がれ

御一笑下さい

    十二月二十九日    芥川龍之介

   小手川金次郞樣

 

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