芥川龍之介書簡抄《追加》(63―2) / 大正五(一九一六)年八月二十八日谷森饒男宛(自筆絵葉書)
[やぶちゃん注:何となく「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)の書簡類を見ていたら、気になるものがあった。大正五(一九一六)年八月二十八日谷森饒男宛の自筆絵葉書とキャプションにある。
この谷森饒男(にぎお 明治(一八九一)年~大正九(一九二〇)年)は一高時代の同級生で、私のこの「芥川龍之介書簡抄」では、「芥川龍之介書簡抄50 / 大正四(一九一五)年書簡より(十六) 谷森饒男宛」を電子化注(岩波文庫「芥川竜之介書簡集」から)してあり、彼についての注も附してあるが、実は彼の名は、旧全集では、恒藤恭宛書簡に多く彼の名を見出せるものの、岩波旧全集の一九七八年第一刷(これが私の所持するもの。最後の芥川龍之介の正字正仮名全集である)には、谷森饒男宛書簡は、同全集の書簡索引を見ても一通も掲載されていないのである。
そこで、「もしかして!」と思った。
私の所持する同旧全集の二刷が出た際(一九八三年三月)、同僚の国語教師がそれを買ったのを見せて貰ったところ、作品や書簡の一刷以後に発見されたものが、十六ページに亙る「拾遺」として追加されていることに気づき、それをコピーさせて貰って、ファイルに保存してあるのである。
それを見たところ、あった。書簡の旧通し番号「一六四八」番である。
私は実は、この書簡は以前に読んで知っていた。それは、孰れも字余りの変則的な俳句であるが、句として採り上げ、「やぶちゃん版芥川龍之介句集 三 書簡俳句 (明治四十三年~大正十一年迄)」に挙げてあるのである。
しかし、上記冊子の自筆絵葉書画像を見て、これが私の一刷の旧全集になかったことに気がつくのが、かくも遅くなったのであった。
されば、ここで、追加して採り上げることとする。画像は前記冊子のものをトリミングした。なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である。
本文は以上で述べた三十九年前のやや黄色くなりながらも、ちゃんとしているコピーと、上記画像を比較して現物通りに、活字化してみた。但し、書信の後半は恐らく、表書きのどこかに続けて書かれているものらしく、見えないので、コピーに従い、配置は前半に合わせて読み易くしておいた。後半は字空けの部分があるので、それが行末外にならないように配慮して改行してある。
中央の砂山にあるのが、「濱菊」(キク目キク科ハマギク属ハマギク Nipponanthemum nipponicum )なのであろうか。およそそのようには見えないが――立体派なら――さもありなん、だ。
因みに、この自筆絵葉書を書いた三日前の八月二十五日、龍之介は塚本文に例の求婚の手紙を出しているである。]
大正五(一九一六)年八月二十八日・千葉県一の宮発信・東京市牛込區弁天町 谷森饒男樣・千葉一の宮一宮館 芥川龍之介(自筆絵葉書)
先達は
手紙をあり
かたう
立つ秋を
濱菊ひよろ髙く
さきにけり
砂に蒸す午日や
菊のしぼむ匀
僕は久米と二人でここ
でヴ●イ・ド・ポエムをやつて
ゐる 海へはひる余暇には
未來派の絵をかいたり 立体
派の俳句を作つてゐる あまり
だべるので隣の客がにげ出した。
余程あてられた■と見える
もう少し僕等のヴイ・ド・
ポエムを紹介するとねまきも
おきまきも一枚で通している
小便は一切寮雨 砂にしみこ
むから宿屋のものに見つけら
れる惧なし 夜は蚊帳に穴が
あいてゐるので蚊やりせんこ
うをどんどん蚊帳の中にいぷ
す このせいか每朝おきると
鼻の穴の中がいぷり臭い 九
月のはじめまでゐるつもり
[やぶちゃん注:「ヴ●イド・ポエム」(「●」は或いはうっかり「・」を打ってしまったものを慌てて潰してそれがデカくなってしまったもののように思われる)「ヴイ・ド・ポエム」はフランス語の‘vie de poème’で、「詩の生活」の意。
「寮雨」「れうう」。「寮」=宿(離れの一軒家)から直接に「雨」の如く、降らすことを言っているのである。]
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