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2021/08/01

芥川龍之介書簡抄108 / 大正一〇(一九二一)年(三) 湯河原湯治前後 十一通――表面上は何でもない書信群――しかし――この時――芥川龍之介に何が起こっていたか?――

 

大正一〇(一九二一)年九月九月二十日・田端発信・南部修太郞宛(葉書)

 

拜啓君はまだ御在京にやボク四五日中に湯河原へ行かんと思ふ御同行如何但し外に伴れを誘ふ可らず僕閑靜を愛する故なり 以上

 

[やぶちゃん注:南部修太郎は複数回既出既注ここでは実は背景で最も重要人物となる。]

 

 

大正一〇(一九二一)年九月二十三日・田端発信・南部修太郞宛(葉書)

 

朶雲奉誦僕は二十七日か八日でないと出られぬその前二十四日にあひたい同日午後二時丸善に來られたし(二時より三時)

 

[やぶちゃん注:太字「丸善」は底本では傍点「◦」附き。

「朶雲」「だうん」と読む。五色の垂雲の意で、他者の書簡の敬称。]

 

 

大正一〇(一九二一)年九月二十四日・田端発信・下島勳宛

 

拜啓 いちじく沢山に頂戴致し難有く御禮申上候

     卽興

   これやこの子規のみことが痔をわぶとうまらに食せし白無花果ぞ

   井月も痔をし病めらば句にかへて食しけむものをこれの無花果

                  頓首

  九月廿四日

 空 谷 先 生

二伸 院展ちよと覗き候へども碌な畫は無之、大觀、溪仙、浩一路、古徑なぞ僅に見るに足るべく候はむか それよりも美術協會の參考品に山雪の眞鶴の幅ならべあり候これは立派なものに候

 

[やぶちゃん注:この書簡は何時書かれたものか。或いは、二十四日の午前中に書かれたものかも知れないと考えている。翌日には年譜で下島が龍之介を訪れているからである。下島の家はごく近く、郵便ではなく、家人に託して送ることが多かったようである。――何故、そんなことを気にするのか?――今回の公開記事の最後を見られたい。こんな呑気な礼書を――二十四日の夜に――芥川龍之介が書き得たとは、私にはどうしても、思えないからなのである。

「痔」芥川龍之介も慢性的に悩んでいた病いであった。

「院展」第八回院展はこの九月一日から二十九日まで開催されていた。龍之介が鑑賞に赴いたのは、私は二十三日以前と考えている。

「溪仙」冨田溪仙(明治一二(一八七九)年~昭和一一(一九三六)年:本名は鎮五郎(しげごろう))は福岡県博多生まれの日本画家。初め狩野派・四条派に学んだが、それに飽きたらず、仏画、禅画、南画、更には西洋の表現主義を取り入れ、デフォルメの効いた自在で奔放な作風を開いた(当該ウィキに拠った)。

「浩一路」近藤浩一路(こういちろ 明治一七(一八八四)年~ 昭和三七(一九六二)年:本名は浩(こう))は山梨県生まれの水墨画家・漫画家。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「古徑」小林古径(明治一六(一八八三)年~昭和三二(一九五七)年:本名は茂(しげる))は新潟県高田生まれの日本画家。詳しくは当該ウィキを見られたい。龍之介が並べた作家の中では、今もよく知られているのは彼であろう。

「山雪」狩野山雪(かのうさんせつ 天正一八(一五九〇)年~慶安四(一六五一)年)は江戸初期の九州肥前国生まれの狩野派絵師。京狩野の画人狩野山楽(光頼)の婿養子で後継者。本姓は秦氏。諱は光家。鳥を好んで描いた。当該ウィキに、鶴の襖絵ならある。]

 

 

大正一〇(一九二一)年九月二十六日・田端発信・南部修太郞宛(葉書)

 

拜啓出發日廿八日の所卅日に御延期下さるまじくやごへんじなくば卅日お存候(汽車は十一時何分にや?)

 

[やぶちゃん注:太字「卅日」は底本では傍点「◦」附き。]

 

 

大正一〇(一九二一)年九月三十日・消印十月一日・田端発信・支那北京崇文門内八寶胡同大阪每日通信部内 松本鎗吉樣・九月三十日 日本東京市外田端四三五 芥川龍之介

 

拜啓

度々御手紙難有う いつも早速御返事さし上ぐ可きのところ北京以來の腹下し未に恢復仕らず 寢たり起きたり致し居候爲失禮ばかりしてゐます何事もずぼらの小生故不惡御寬恕下さい陳先生の書確に落手いろいろ難有うございましたなほ南宗畫集一册さし上げますから 何卒陳先生へ御屆け下さいそれから僕の枯木の圖御仕立ての由恐縮ながら嬉しく存じてゐますもう一度北京へ行つてその表裝を見たいが腹下しが少々恐しい 君は北京に住みながらちつとも腹を下しませんか(僕のゐた内にやつたのは腹下しプロパアとは認めません 此處に質問する腹下しとは二週間以上の腹下しであります)小生の紀行御よみ下さる由 面白かつたら本社へ向けオモシロイオモシロイと電報を打つて下さい 本社では旅行服米國記も僕の紀行も同じだと思つてゐるやうですお松さんは健在ですか波多野君はやはり「紙上の建築」を樂しんでゐますか僕もこの頃書齋でも造らうかと思つて「紙上の建築」を時々試みてゐます中野先生は相不變肥つてゐるでせうナ辻さんとは例の原稿の爲二三度書面を往復しました

   ぬば玉の黑き扇に鼻をよせ、臭しと云ひし鎗吉なれは。

   大寺の丹塗りの梢仰ぎつつ、餓了と云ひし鎗吉なれは。

   初夏の夜をすかしみ、鎗吉は乃木將軍をほめやまずけり。

   燕京に秋風立てば鎗吉も、白きズボンを脫ぎにけらずや。

     乃木夫人を憶ふ

   いにしへの賢き妻がいばりせし、狹山の小萩今かちるらむ。

   鎗吉はますらをなれば聽戲にも、馬前撥水を愛すと云へり。

   なれ故に無賴の客も燕京を、美(ハ)しと見にきとなが妻に云へ。

   なが妻をいまだ見ざれば礼(ヰヤ)のべむ、心甲斐なしとなが妻に云へ。

これは手紙代りに三十一字を並べたものと御思ひなさい 今になると僕も山東を見なかつたのは心惜しい 波多野先生によろしく 頓首

    九月三十日      芥川龍之介

   松本鎗吉樣

 

[やぶちゃん注:「松本鎗吉」大阪毎日新聞社北京支局員(北京通信部所属)であること以外は不明。岩波版新全集の人名索引に載る人物であるが、旧全集の芥川書簡にはこれを含めて彼宛の二通(「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈)」の岩波旧全集書簡番号「九二二」書簡。天津発信)のみがあるだけで詳細事績は未詳。但し、リンク先の今一通を読んでも、芥川が北京滞在中に極めて好感を持って接することが出来た人物であったのであろうことは窺われる。なお、ネット検索では、ここにも登場する波多野乾一との共著になる論文「支那政党史稿」(東亜同文会調査編纂部編『支那』第八巻第十五号・大正六(一九一七)年・東京・東亜同文会刊)や、「支那問題の解剖 」(昭和一七(一九四二)年・東京・興亜書院刊)、同年刊行の「支那の新姿」(弘道館)、戦後も「毛沢東伝」昭和二一(一九四六)年高山書院刊)、「中国人の特性と生活」昭和二二 (一九四七)年明倫閣刊)等の多数の著作をものしていることが判る。

「陳先生」不詳。

「腹下しプロパア」proper。ここは気候や食物(特に食用油の違い。フィリピンではヤシ油によるそれを「ウェルカム・バゥワー」(歓迎の腹下し)と称する)或いは急変した環境に一時的に適応出来ないことによって生ずる「固有な・厳密な・限定的な下痢」の意であろう。

「旅行服米國記」不詳。

「お松さん」不詳。

「波多野君」波多野乾一(明治二三(一八九〇)年~昭和三八(一九六三)年)は大阪毎日新聞社北京支局員(特派員)。後に北京新聞主幹・時事新報特派員等を歴任した。戦後は「産業経済新聞」の論説委員として中国共産党を研究、本家の中国共産党からも高く評価された(以下の江橋崇氏の記事を参照)という「中国共産党史」等の著作がある。彼はまた中国人も吃驚りの京劇通で、「支那劇五百番」「支那劇と其名優」「支那劇大観」等の著作がある。また、榛原茂樹(はいばらしげき)のペン・ネームで麻雀研究家としても著名であった。その京劇とその麻雀が結んだ名優梅蘭芳と由縁(えにし)を記した「日本健康麻雀協会」のサイトの江橋崇氏の「波多野乾一(榛原茂樹)と梅蘭芳」は必読である。

「中野先生」中野吉三郎(明治二二(一八八九)年~昭和二五(一九五〇)年)は中国民俗研究家。福岡生まれ。号は江漢。大正三(一九一四)年(翌年という記載もあり)に二十六歳で北京に定住、北京連合通信社を設立して、約三十年間、在中した。「北京日記抄 四 胡蝶夢」で芥川も語っている支那風物研究会を主宰し、『支那風物叢書』を刊行、同叢書の一つとして民俗学的にも考現学的にも優れた一九一〇年代から一九二〇年代の卓抜な北京案内記「北京繁昌記」全三巻(大正一一(一九二二)年~大正一四(一九二五)年刊)や、古書店の梗概に合理的性交の秘法や支那に於ける不老回春術及び秘薬を解説、とある発禁本「回春秘話」(昭和六(一九三一)年萬里閣書房刊)等、誠に興味をそそる著作が多数ある。昭和一四(一九二九)年には玄洋社(明治一四(一八八一)年に総帥頭山満ら旧福岡藩士を中心によって結成された大アジア主義を標榜する右翼団体)の一員として支那満蒙研究会機関誌『江漢雑誌』も創刊している。

「辻さん」辻聴花。中国文学者辻武雄(慶応四・明治元(一八六八)年~昭和六(一九三一)年)の号。上海や南京師範学校で教鞭を採り、京劇通として知られ、現地の俳優達の指導も行なった。ネット検索でも中文サイトでの記載の方が頗る多い。上海游記 十 戲臺(下)」参照。

「例の原稿」筑摩全集類聚版脚注に、『辻聴花の「支那芝居」の原稿であろう。芥川の斡旋によって、支那風物研究会から出版の運びとなった』とある。やはり、北京日記抄 四 胡蝶夢」を参照されたい。

「餓了」中国語。「ウァラ」。「腹が減った」。

「燕京」(えんけい/えんきょう)は北京の古称。「安史の乱」の首謀者の一人史思明がこの地を「燕京」と称したが、五代の後晋の時、契丹に割譲され、遼は「燕京析津府 」(せきしんふ)と称し、「南京」と号した。遼末、宋は燕京攻撃に際して「燕山府」と改称、この地を実際に占領した金の譲与を受け(一一二三年)、一時、保有したが、すぐに金に奪われ、金は再び「燕京析津府」と改称して「中都」と号し、城域を拡大した(一辺約 五キロメートルの方形)。現在の北京の南西部に相当する。元代には「大都」と称されて首都となり,明は「北平」、後の成祖永楽帝の時(一四二〇年)に「北京」と改称され、清にもそれが受け継がれた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

に秋風立てば鎗吉も、白きズボンを脫ぎにけらずや。

「いばり」小水。

「狹山」不詳。乃木希典の妻静子(安政六(一八五九)年~大正元(一九一二)年九月十三日)の生まれは薩摩国鹿児島郡鹿児島近在塩屋村(現在の鹿児島県鹿児島市甲突町)生まれ。明治五(一八七二)年の数え十四歳の時、海外留学から帰国した長兄定基に呼び寄せられる形で、家族揃って東京赤坂溜池の湯地定基邸に転居し、麹町区の麹町女學校(現在の千代田区立麹町小学校)を卒業、数え二十歳で乃木希典と結婚した。

の小萩今かちるらむ。

「聽戲」観劇。

「馬前撥水」不詳。

 この書簡を書いた翌日の十月一日に南部修太郎とともに湯河原へ静養に出かけた。九月二十八日出発を三十日に変更後、さらに再度この日に変更している。新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、『湯河原では、中西屋旅館に滞在し、湯に入ったり、散歩、読書、句作、さらには楽焼などをして気ままに過ごした』とあり、四日夕刻には、龍之介が事前に誘っていた『小穴隆一、小沢碧童が訪れ、六日まで滞在』した。この時に撮った写真が二枚あるが、孰れも龍之介は口をやや強くつぐんで、表情が暗い。『体調は徐々に回復していたが、神経衰弱』(芥川龍之介の自称。後の書簡を参照)『のせいで熟睡するには至らなかった』(十月八日の条)とある。湯河原から南部とともに東京へ帰ったのは十月二十五日頃であった。――神経衰弱?――その元凶は何か?……

 

 

大正一〇(一九二一)年十月十日・湯河原発信・齋藤貞吉宛(絵葉書)

 

その後引つゞき病氣のため湯河原へ湯治に來て居ます僕は元來筆不精の處病氣になつた爲餘計怠けるすまないが勘忍して呉れ給へ 頓首

    十月十日           龍

   吾(ア)を待つと小夜のハルクに立ちわびし汝を思ひかなしむ吾(アレ)は

   押し照るや月を愛(カナ)しみ吾(ア)と共に草路を行きし貞吉なれは

お前の文章をよんだどうも難有うあれは中々うまい御世僻でも何でもなく中々うまいお前は新聞記者になつても飯が食へるちよいと感服した

 

[やぶちゃん注:「齋藤貞吉」既出既注

「ハルク」hulk。水上に浮かぶ機能は持っているが、水上の本格的航行はできない船のこと。ここでは貞吉を安徽省蕪湖唐家花園に訪ねた際(「長江游記 一 蕪湖」の冒頭を参照)、大型旅客船と桟橋を結ぶ中継ぎの小舟のことであろう。

「押し照る」一面に照る。照り渡る。]

 

 

大正一〇(一九二一)年十月十日・湯河原発信・湯河原発信(推定)・岡榮一郞宛(絵葉書、南部修太郎と寄書)

 

湯にはひり樂僥きをやき本を讀み煙草をすひてをるぞと思へ。

時々は念佛も申す湯の中に南部ののろけ聞き居る時は。

 柚の本の島麻呂トハカリ名マコトハ 我鬼山房主人

骨ばめる我鬼の裸形(らぎやう)を見る時は我はも悲し病ひ身なれども

榮一郞先生 梧右           修太郞再拜

田端なる我鬼の聖人(ひじり)は旅出して榮一郞も寂しかるらん

 

[やぶちゃん注:南部修太郞はパブリック・ドメイン。]

 

 

大正一〇(一九二一)年十月十二日・湯河原発信・塚本八洲宛(絵葉書)

 

每日湯にはひつたり本をよんだりしてくらしてゐます體は大體好いやうです唯神經衰弱が癒らないのに困つてゐますこちらは今日やつと日の目を見ました柿はやや赤らみ蜜柑はまだまつ靑です今山の方へ散步に行つて歸つて來ました 頓首

         中西内   我   鬼

   かぎろひの夕澄み渡る薄明り靑垣山はなかぞらに見ゆ

コレハ實景デス景色ハ中々ヨロシイ

                     芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「塚本八洲」妻文の実弟。]

 

 

大正一〇(一九二一)年十月十二日・湯河原発信・香取秀眞宛(絵葉書)

 

拜啓每日湯にひたつてゐます甚泰平です但神經衰弱は容易に癒りさうにも思はれません暇つぶしに畫を描いたり樂燒を試みたりしてゐます樂僥の一輪ざしなぞは琅玕洞に出品すればまづ安くとも二十七圓五十錢位ですナ 頓首

   世の中のおろかのひとり自がやける樂の茶碗に茶をたうべ居り

   世の中のおろかのひとり翁さび念佛すと思へ湯壺の中に

 

[やぶちゃん注:「琅玕洞」(らうかんどう(ろうかんどう))は明治四三(一九一〇)年に東京の神田淡路町に開店した日本初の画廊。参照したサイト「ジャパンアーカイブズ」のこちらに昭和三二(一九五七)年に正宗得三郎が描いた絵が載る。

「自が」筑摩全集類聚版脚注では「しが」と読んで、「己(おのれ)が」の意である旨の記載がある。]

 

 

大正一〇(一九二一)年十月十三日(年月推定)・湯河原発信(推定)・東京市本鄕片町百三十四 小穴隆一こと一游亭樣・十月十三日(絵葉書)

 

「ホラ、アンナニ水ガ流レテルネ、赤イ花ガ、オヤ 鷄ガカケテキマシタ 岩ガ澤山アルネエ」――これは廊下に母親の子供をだましてゐる言葉です 実際の景色は室内の僕には見えません唯これを聞いてゐると 僕の想像には奇體な風景畫が浮かびます 御なぐさみ迄に 頓首

               我   鬼

 

 

大正一〇(一九二一)年十月十月十六日・湯河原発信(推定)・東京市本鄕片町百三十四 小穴隆樣・十月十六日 我鬼(絵葉書)

 

紙どうもありがたう僕その後おひおひ健康恢復、但し未に安眠出來ぬのに苦しみ居ります仕事は全然せず唯秋の深くなる山色を眺めてゐるばかり湯河原の主よりもよろしくとの事 頓首

 

[やぶちゃん注:最後に述べる。この、

九月二十四日の午後五時或いは六時過ぎ、芥川龍之介は衝撃的な事実を目の当たりにした

のであった。

 まず、高宮檀「芥川龍之介の愛した女性――「藪の中」と「或阿呆の一生」に見る」(彩流社二〇〇六年刊)から引く。

   《引用開始》

 小島政二郎(まさじろう)『長編小説 芥川龍之介』は《芥川が支那から帰って来たのは、確か夏だったように覚えている。だから、秋だったろう。どこで落ち合ったのだろうか、芥川と南部(なんぶ)と私と三人で、どこかで飯を食うつもりで逢った。が、まだ晩飯を食うには、時間的に早い午さがりだったので、芥川の云い出しで、丸善へ入った》と述べている。

 芥川が四ヶ月におよぶ中国旅行から田端の自宅へ帰ったのは、大正十(一九二一)年七月二十日ころである。そして同年九月二十三日付けの芥川の南部宛ての葉書に《僕は二十七日か八日でないと出られぬその前二十四日にあひたい同日午後二時丸善に来られたし(二時より三時)》とあることから、三人が落ち合ったのは九月二十四日午後二時ころであったことがわかる。

 小島と南部修太郎は当時、佐佐木茂索や瀧井孝作らとともに「龍門(芥川龍之介の門下の意昧)の四天王」と呼ばれた、慶応出身の作家であった。以下に小島の回想をつづける。

 本探しに熱中している芥川に、南部が「ちょいと買い物をしてくるから――」と言って、階段を降りて行った。丸善から出た芥川と小島のふたりは、日本橋のうまい物屋が軒を並べている細い横町(通称「食傷新道(しょくしょうじんみち)」)にある中華亭という、店名とは裏腹の日本料理屋へ入った。

 《二人とも透き腹にうまい物を食べて、いゝ気持になって梯子段を降りて行くと、下の奥の座敷から、南部と○○子(しげ子のこと――高宮注)とが肩を並べて現れた。(中略)

 芥川も流石に意表を衝いたこの出会いに表情を変えた。南部も○○子も、表情を変えたことは云うまでもない。が、芥川は表情を堅くしたが、それ以上ではなかった。

 しかし、南部の方は顔の色を変えて、見ていられないくらいヘドモドした。目のやり場に困っていた。○○子は南部の蔭に姿を隠してしまった。私が南部の次ぎに彼女を見た時には、彼女は視線を落としていた。》

 小島は同時代人の目撃証言として芥川としげ子、南部の三角関係を記している。

 小穴隆一は《「藪の中」は芥川龍之介みづから彼自身のこころの姿を写したものだ》(「『藪の中』について」『芸術新潮』昭和二十五年十一月)と述べている。その《こころの姿》とは、この小穴の随筆や瀧井孝作「純潔―『藪の中』をめぐりて」、前掲の小島の小説などから、前述の三角関係にたいする芥川の苦悩であると解されている。

   《引用終了》

以下、高宮氏は後の「藪の中」を解析して、同作が芥川龍之介が知らぬうちに、南部修太郎と秀しげ子を共有していたことを元にした小説であることを述べておられる。「藪の中」の「金澤武弘」の名が南部修太郎のアナグラムであるという説には、やや留保したいが、高宮氏の探索は微に入り、細に入って、非常に面白いので(例えばそこでは「藪の中」の「眞砂」という名の真相をも明らかにしておられ、これは驚天動地の内容である)、以前にも述べたが、是非、一読をお勧めしておく。

 さて、私は高宮氏が引いた小島政二郎の「長編小説 芥川龍之介」(昭和五二(一九七七)年読売新聞社刊)の初版を所持しているので、やや長くなるが(小島の著作権は存続している)、重要な記載なので、以下に引用する。同書の「二十八」章、芥川龍之介の女性関係を語る途中からである。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

   《引用開始》

 私は時を別にして、芥川の方からも彼女[やぶちゃん注:秀しげ子のこと。以下の『□夫人』は彼女のことである。]のことを聞いている。しかし、彼女の手前勝手の二三については聞かされたが、それも、女房の手前勝手にサンザン手を焼いていた私には、芥川が云う程には思えなかった。アカの他人の私と、そうでない人に対してとは、そこに大変な違いがあったろう。

 それに、芥川は私と違っていゝ奥さんを貰い当てていたから、□夫人の手前勝手の受げ取り方が相当開きがあったのだろうと思う。兎に角、□夫人の手前勝手には相当悩まされていた。もう一方の動物的本能[やぶちゃん注:芥川龍之介の「或阿呆の一生」の秀しげ子について記した「二十一 狂人の娘」を参照。リンク先は私の古いサイトの電子化。]については、小穴に向ってのようには私には一ト言も口にしなかった。

 しかし、彼女の動作を見ていて、芥川好みではないかも知れないが、世間並みの口舌(くぜつ)なら相当面白い女だろうと想像していた。いろいろ手が込んでいて、飽きずに、いろいろ纒わり付いて来る私との会話から想像して――。肉体的にも、一ト息で参らなさそうな、よさを持っていそうな気がした。

 私はそんな風に二人の仲を想像していた。よもや芥川が小穴に訴えたような意味で持て余しているとは思わなかった。

 小穴の手記によると、芥川は「支那へ旅行するのを機会にやっと夫人の手を脱した。モの後は一指も触れたことはない」と云っている。彼が支那へ行ったのは大正十年の春だった。その後いつのことだったか、

「僕は〇〇子を南部に譲ったよ」

 芥川がそう云ったのを聞いた。その時の彼の表情を私は覚えていない。なぜ、そんな事を私に云ったのか、それも分らない。私と南部とは、同じ三田出の友達というに過ぎない。 思うに、□夫人が南部の彼女になった以上、二人が連れ立っているところを私が見ることが屢々あるだろう。その時、余計な心配を私にさせないためだったのだろう。

 芥川が支那から帰って来たのは、確か夏だったように覚えている。だから、秋だったろう。どこで落ち合ったのだったろうか、芥川と南部と私と三人で、どこかで飯を食うつもりで逢った。が、まだ晩飯を食うには、時間的に早い午(ひる)さがりだったので、芥川の云い出しで、丸善へ入った。

 芥川の本の買いッぷりの激しさを見たこれが二度目だった。私は二三冊欲しい本を買ってしまうと、もう用はなかった。芥川は棚から本を技き出すと、パラパラとぺージをめくって五六行読んで、興味がないと、もとの棚へ返す。面白いのにぶつかると、一定の場所へ置いておく。忽ち十冊、十二冊と本の山が出来て行った。それでも、まだ止めようとしないで、次の棚の前へ移って行く。

 南部はシビレを切らして、

「ちょいと買い物をして来るから――」

 そう云って、階段を降りて行った。私も途方に暮れたが、外に仕様もないので、芥川のあとに付いて本棚の中の本を覗いていた。しかし、もう買いたい本もないし、二時間以上も立ち詰めだから疲れて来た。

 ハッキリしないが、丸善には腰を掛けるところがなかったように思う。幸い二階のどこかに風月堂のパーラーがあったので、そこで紅茶とケーキを食べて一ト休みしていると、五時だか六時だかの、閉店のベルが鴫り出した。

 芥川の傍へ行って見ると、店員が遠慮しながら、本の並べてある台の上へ白い掩(おお)いを掛けている。芥川の見ている棚だけ残して、あとの棚のガラス戸に鍵(かぎ)を掛けていた。

 やっと芥川の本選(えら)びが終わった。凡そ二十冊ぐらい積み上げてあったろうか。

 外(そと)はまだ明るかった。待っている筈の南部は、丸善の前にはいなかった。

「要領の悪い奴だな」

 暫く立って待っていたが、現われなかった。

「どこで買い物をすると云っていた?」

「さあ、何とも云っていませんでしたぜ――」

 しょう事なしに、二人は京橋近くまで丸善側を探して歩いた。その辺から、高島屋側に移って、また丸善の前あたりまで戻って来た。

 結局、南部とは逢えずじまいだった。正直、お腹は減って来たし、夕方の風は寒くなって来たし、跡味はよくなかったが、二人だけで飯を食うことにした。

 白木屋と西川蒲団店との間に、細い横町があって、そこを食傷新道(しょくしょうじんみち)と云っていた。大小さまざまのうまい物屋が軒を並べていた。中に、中華亭という、有名な日本料理屋があった。

 そこへ上がった。

 二人とも透き腹にうまい物を食べて、いゝ気持になって俤子段を降りて行くと、下の奥の座敷から、南部と○○子とが肩を並べて現われた。[やぶちゃん注:ここで「二十八」が終わり、以下、「二十九」。章番号をカットし、一行空けで続ける。]

 

 この時の、二人の――芥川と南部の態度の違いを、私は咄嵯に、非常な興味を以って見ないではいられなかった。

 芥川も、流石に意表を衝いたこの出合いに表情を変えた。南部も○○子も、表情を変えたことは云うまでもない。が、芥川は表情を堅くしたが、それ以上ではなかった。

 しかし、南部の方は顔の色を変えて、見ていられないくらいヘドモドした。目のやり場に困っていた。○○子は南部の蔭に姿を隠してしまった。私が南部の次ぎに彼女を見た時には、彼女は視線を落していた。

 四人は足を留めたまゝだった。こっちは一ト足先きに出ていたから、そのまゝ玄関に出て、雪駄の上に足を卸(おろ)した。考えて見れば、中華亭ほどの料理屋が、二タ組の客を同時に帰すという法はなかった。

 そのまま私達は振り返りもしず、大通りへ出た。変な出合いだから、南部を待ち合わす気にもならず、私も、芥川も、何か口を利く気分になれないまゝに日本橋を渡った。

 私はソッとうしろを振り返って見たが、南部達の姿は見えなかった。察するに、彼等は食傷新道を私達とは逆に、裏通りの方へ出て行ったのだろう。

「それにしても、南部の何という知恵のなさだろう」

 と私は胸のうちで思った。どうせ目本橋界隈(かいわい)で飯を食うなら、私達が贔屓にしている中華亭を選ぶなんて、どうかしている。

 洋食よりも日本料理の好きな芥川が、ここを選ぶのは知れているのに――

 南部は山の手生まれだから知らないにしても、○○子なら、近くに春日(かすが)もあれば大和(やまと)もあることぐらい知っているだろう。芥川に逢って、あんなにドギマギするくらいなら、中華亭へ来るべきではなかった。第一、私達が日本橋で食事をするのは分り切っていたのだから、銀座なり築地なりヘ避けるべきであった。

 丸善で私達を騙(だま)しているのだから、どこで○○子と逢う約束をしたのか知らないが、逢ったらさっさと日本橋をあとにするのが常識だろう。それとも、ハッキリ譲られたのだから、譲られた証拠を芥川に見せて置きたかったのだろうか、偶然のようにして――

 それにしては、あの狼狽ぶりは何であろう。まるで罪の現場を見られたような態度だった。私には解せなかった。

 解せなかったのは、芥川の態度にもあった。芥川は田端へ、私は上根岸へ帰るのだから、中華亭を出てからずっと一緒だった。電車に乗る気にならなかったのは芥川の方だった。芥川としては珍らしく不機嫌になってしまった。久保田万太郎の句に、「忠七、老いたり」という前書きがあって、

 

  永き日や機嫌のわるきたいこもち

 

 というのがある。忠七というのは、吉原の幇間(たいこもち)だ。「たいこもち」は商売柄客に不機嫌な顔を見せてはならないものだ。まして忠七ほどの一流の「たいこもち」は、猶更であろう。その忠七が不賎嫌なのは、年を取って病気か何かで――恐らく死病を煩(わずら)っていて、不機嫌だったのだろう。そういう意味で、「あわれ」である。芥川はこんな時、不機嫌になる人ではなかった。普通の時より一倍も二倍もお喋りになって、心中をそのまま表に現わさない人だった。その彼が、不機嫌になってプツリとも喋らなくなってしまったのだ。こんなことは、長い付き合のうちでないことだった。

「○○子は南部に譲ったよ」

 と私に云ったのは、相当前のことだった。噓だとは思わなかった。南部に芥川のものを取る度胸があるとは思えなかった。

 譲ったというのは、事実だと私は信じている。変な話だが――。でも、譲った女が、相手と仲よくしているのを見れば、未練が沸くものなのだろうか。私は女を譲った経験がないから、その辺の気持は分らないが――

 譲ったということは、愛情がなくなったことだろう。愛情のなくなった女が何をしようと、私なら未練も感じなければ嫉妬も感じないだろう。だから、その晩の不機嫌になった芥川の気持が私には分らなかった。

 しかし、不機嫌になったことは間違いなかった。しかし、そう云っては何だが、○○子が、知能と云うか、相当以上の教養と云うか、その種のものを持っていたとは思えない。これは噂に過ぎないが、この前長々と技萃した芥川の推敲に推敲を重ねて、一詩も得なかった彼の詩[やぶちゃん注:「二十六」で部分引用した『芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯 「澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.のこと。リンク先は私の詳注附きのサイト版。]に歌われた女性は、アイルランドの「シング戯曲全集」を翻訳した松村みね子[やぶちゃん注:片山廣子がアイルランドの作品翻訳に使ったペン・ネーム。]だと云われている。これは噂で、事実かどうか私は知らない。同じ軽井沢で何年も過ごしていながら、私は彼女を見たこともなかった。「彼と才力の上でも格闘出来る女」だと芥川自身書いている。

   《引用終了》

以上から、この衝撃的な邂逅はこの日付けで誤りはないと考えてよい。また、高宮や小島が述べている小穴隆一の記事も、既に「小穴隆一「二つの繪」(52) 『「藪の中」について』」としてブログで電子化注している。

 芥川龍之介の中国への旅は、一説に、不倫後に急速に冷めて、嫌悪すら感ずるようになりながら、執拗につき纏ってくる(龍之介の自死直前まで続いた)秀しげ子と距離を置くためであったともされる(但し、彼の中国旅行願望は、しげ子と出逢う以前から強くあったし、中国特派自体は社員(芥川龍之介は「社友」と言っている)であった大阪毎日新聞社側からの慫慂であったのだから、そうした「逃避」という意味合いはあったとしても、それは偶然的で副次的なものであったと私は考えている)から、秀しげ子への思いはこの時点で既に殆んど冷め切っていたと私は考えてはいる(小島も引用の中でも、この鉢合わせ事件の前に龍之介の冷めた気持ちは示されていたと述べている)。

 にしても、芥川龍之介の生涯の中で、この、友にして弟子とも認知していた南部修太郎との思いもかけない三角関係の偶発的暴露は、秀しげ子との不倫が彼女の夫に知られて、北原白秋のように姦通罪で訴えられることへの恐怖を抱いたこと(立証資料はないが、彼女の夫に事実を告白して示談にしたという説もある)と並ぶ、龍之介生前の危機的衝撃事件のピークの一つであったことは、最早、疑いようはないのである。彼のここでの神経衰弱とは、まさにこの事件によって、致命的に増悪した結果なのである。

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