曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 耳の垢取
[やぶちゃん注:段落を成形した。発表者は輪池堂。]
○耳の垢取
慶長年中、唐山の漂流船一艘、水戶の浦に着きたり。
「異國の者か。」
と問ひければ、
「大明太原縣の者なり。」[やぶちゃん注:山西省太原市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)となるが、不審。とんでもない内陸である。]
とて、七人、乘組なり。
このよし、威公[やぶちゃん注:常陸水戸藩初代藩主にして水戸徳川家の祖徳川頼房(慶長八(一六〇三)年~寛文元(一六六一)年)の諡。彼は慶長一四(一六〇九)年末に常陸国水戸二十五万石に転封され、慶長十六年中に元服して頼房と称した。慶長二十年七月十三日(一六一五年九月五日)に元和に改元しているから、凡そその五年半の閉区間の出来事となる。]に申し上げ、かく、そのものどもに尋ねさせ給ふやう、
「汝等、國に歸りたくおもはゞ、送り遣るべし。此國に居りたくば、置くべし。」
と仰せ下されければ、御國に居りたきよし、願ふ所なり、と申すにより、みな、江戶に召して、藝能をたづねさせ給ひければ、王春庭三宮[やぶちゃん注:ママ。後で「三官」と出る。そっちが正しかろう。]といふもの、
「按摩・導引をなす。」
と申す。
「さらば。」
とて、御側勤のものに試みさせ給ふに、
「妙手なり。」
と申すにより、威公、御自ら、療をさせ給ふに、無比類[やぶちゃん注:「ひるゐなき」。]名人なり。
殊に、
「御耳の垢をとり、内を掃除する事、これまでなき術なり。」
とて、大に、おぼしめしにかなひ、日每に昵近して奉りければ、
「永く御舘にめしつかはるべし。然るうへは、此國の風俗になれ。」
とて、月代をそり、衣服を改め、遠藤氏の女をめとりて、「遠藤勘兵衞」と改めたり。
さて、男子出生しければ、名を賜はりて「造酒之助」[やぶちゃん注:「みきのすけ」の読んでおく。]と稱す。
是より、代々、當主は「勘兵衞」、總領は「造酒之助」といふ。
この造酒之助、成長せしかば、
「何役にても望み候へ。」
と仰せ下されしより、いかゞおもひけん、能役者を願ふ。
ねがひのごとく、仰せ、かうぶり、高安の弟子になりて脇師になりたり。
六世孫迄は嫡流にて有りしが、部屋住にて歿し、男子、なかりしかば、其弟を總領にして家をつがせしに、それも、男子、なかりしかば、從弟を養ひて、つがせたり。
英一蝶がかける「耳の垢とり」は、此乘組の内歟。もしは、王春庭が弟子にても有りしなるべし。
二代造酒之助、家督をとりて「勘兵衞」と改めけるは、義公の御代なり。
或時仰せ有りける家[やぶちゃん注:底本に編者傍注して『にカ』とある]は、
「汝が親は、太原の王氏なるに、『遠藤』をなのりて、『藤の丸の紋』付くるは、和漢の故事に、かなはず。今より、『太原』とかきて、『おほはら』と、なのるべし。紋も
如此、あらためよ。これ、「王」の字の古文なり。」
と仰せられしより、今に至るまで、これを用ふ。[やぶちゃん注:底本からトリミングし、清拭した。一ヶ所、汚れか、小さな点か不明な部分があったが、「王」の字の古字を一覧したところ、そのような点を有するものがなかったので、底本の汚損と考え、消去した。但し、ここに出るような「王」の古字体は見当たらない。]
王春庭、身まかりしかば、伊東子長應寺の後山に葬る。
その時、遺言にまかせて、衣服および隨身の器物を、のこらず、墓にうづめたりとて、家につたはるものは、琥珀の觀音一體有るのみなり。
五世の孫も長生にて、予が、わかゝりし時、八十有餘なりき。
すこぶる好事にて、
「我ならば、おやの遺言、そむきても、遣愛の物をうづめずして家に傳ふべきを。」
とて、常に歎息せしなり。
予、かつて、そのはかじるしを摺てたり。
「大明國王春庭三官」
と題せり。この文字は次の耽亭[やぶちゃん注:「耽奇會」の会合。]に出だすべし。
乙酉四月 輪 池
[やぶちゃん注:「王春庭三宮」「三官」は判らないが(字(あざな)や通称にはある)、山崎美成の随筆「海錄」の十五の四百十七に「明歸化人王春庭の事」があり、随筆「道聽」(作者は鯖江侯お雇いの儒者信齋大鄕良則)の三の三十六に「王春庭の碑」なるものがあると、こちらの「随筆索引」(PDF。岡島昭浩氏の電子化画像)で判った。前者は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で当該部が確認でき、そこでは「兎園小説」のこの記載を指示しつつ、『且、卜幽軒稿に、王春庭に代りて唐土へ贈る文一篇を載す、そのこと甚奇なり、可二併錄一』とあり、後者も「道聽塗說」が正式書名で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で活字本でここで読むことが出来、概ねこの本文と同じ内容が記されてある。ただ、作者大郷良則の菩提寺が以下の長応寺であることから、石碑を実見している点で確かなものである。ただ、そこには「三官」の名はない。
「高安」能の流儀の一つ。当該ウィキによれば、ワキ方と大鼓方があり、『ワキ方高安流は金剛流の座付として活動した流儀で、河内国高安の人高安長助を家祖とし、子の与八郎が金剛座の脇の仕手であった金剛康季(後に十世宗家となる)の養子に入って、家芸を興した。その後、初世高安重政(高安寿閑)が金春流のワキ方春藤友尊の女婿となって修行し、流儀を確立した。一説には春藤友尊を芸祖ともし、寿閑によって下掛りの芸風が完成され、本格的なワキ方の家として活動を行うようになったらしい』とある。
「伊東子長應寺」この寺は目まぐるしく日本中を移転した特異な寺で、現在は東京都品川区小山一丁目に現存している日蓮宗の寺であるが、江戸時代には寛永一二(一六三五)年から、ずっと、芝伊皿子(現在の港区伊皿子地区。泉岳寺の東北直近)にあったから、この「東」は誤記か誤判読か誤植と思われる。品川区が作成した「品川区史跡めぐり」のこちらのパンフレット(PDF)を参考にした。]
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