曲亭馬琴「兎園小説」(正編) ひやうし考
[やぶちゃん注:本記事は、本カテゴリの冒頭注で示した「曲亭雜記」の活字本(渥美正幹編・明治二三(一八九〇)年刊)に載り、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから視認出来る。されば、ここではそれを底本として電子化し、画像も添える。読みは必要と判断したものだけを採用した。なお、比較すると、吉川弘文館随筆大成版とは、表記や文脈に微妙な違いがあることが判った。なお、図は吉川弘文館随筆大成版とは全く異なり、キャプションにも異同があるが、私は「曲亭雜記」所収のものが、遙かにいい出来であると考える。吉川弘文館随筆大成版の見開きにギュウ詰めになったそれを最後に掲げておく。なお、吉川弘文館随筆大成には、仰々しい複写についての但し書きが示されてあるが、これは孰れもパブリック・ドメインの相似類話の異なった画像を比較して戴くための引用であり、複写権に抵触するものではない。そもそもが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解であり、当該書のそれは、明らかに新たに近々に編集されたり、描き直されたものではないから、著作権自体が発生しようがない。向後、同書の画像を使用するケースが出てくるが、そこでは、これは繰り返さない。]
○ひやうし考 著作堂手稿
定家卿「鷹三百首」、「武藏野の駒に付(つけ)つゝ引(ひく)繩の打(うち)ならびたる小鷹犬(こたかいぬ)かな」といふ歌の注に云、『關東は馬上にてつかふに、くつわの音、高ければ、鳥、よせぬゆゑ、「ひやうし」といふ木をあてゝ乘る。』となり。「引繩(ひくなは)」とは、犬の「やり繩」の事、口のとまりたる犬なれば、鷹にならべる、といふ歟と見えたり。【この書、「第一春」・「第二夏」・「第三秋」。右の歌は「小鷹の部」第二首めにあり。】此「ひやうし」といふものを、こゝろ得がたく思ひしに、奧の松前(まつまひ)にては、馬に轡(くつは[やぶちゃん注:ママ。])をもちひず、「ひやうし」といふものをかけて乘る、とありと、傳へ聞きしかば、このごろ、興繼(おきつぐ)をもて、松前老君に問(とひ)まつりしに、老君、すなはち、家臣船尾吉藏といふものに、「ひやうし」一具をつくらしつ、手筒(てかみ)一通を取そへて賜はせし、その書に云、
[やぶちゃん注:以下の書簡引用は底本では全体が一字下げ。]
此ひやうし拵(こしらへ)候は、舊領松前より西在(にしざい)、五里はなれ候て、ヱラマチ村の百姓なり。村役にて一ト年、中間奉公に出候。然處、築川(やなかは)へ引取候節より、故鄕へ不ㇾ歸(かへらず)。當年まで江戸屋敷に勤居候。下々(しもしも)ながら、志(こゝろさし)有ㇾ之もの故、當春取立、大小さゝせ候身分にいたし候。當時は船尾吉藏と中候。此もの、村方に居候時は、馬十二ばかり持(もち)、これを渡世にいたし候。當地へ參り候は、三十一歲のとき也。當年は四十歲になり候。古風の荒(あら)ものとて、馬に乘り候は、裸馬(はたかうま)、子供の時より、得もの也。山谷(さんこく)を馬塲(ばゝ)同樣にこゝろ得候もの也。此ものに拵させ候故、正眞なり。
「ひやうし」は、イタヤといふ木にて造る。綱はシナをよりて用ふ。イタヤもシナも、ここゝ許に無ㇾ之レ故、麻にて、よらせ候。【以上、手簡。】
「ひやうし」の事、これによりて、はじめて、つばらかなる說を得たり。今、そのものを展覽に備ふるをもて、こゝに圖せず。諸君、圖せんとならば、席上にても、うつし易かるべし。おもふに、馬に「ひやうし」をかくること、定家卿のころまでは、松前のみならで、關東にては、おさおさ、ありけんかし。よりて、又、按ずるに、「義經記」、「土佐坊夜打(ようち)の段」に、『草摺(きさずり)の、しころなる「ひやうし」、鎧(よろひ)の札(さね)、よきに』云々、といふこと、見えたり。「平義器談」【下卷。】に、これを引て、「ひやうし」・鎧、つまびらかならず。是は、譽(ほめ)たる詞(ことば)にて、威毛(おとしけ)などのことには、あらず。是は辨慶が、馬に乘りて、土佐坊を召しにゆくときの有樣をいふなり。草摺のしころなるといふによりて見れば、馬のあゆむにつれて、ひやうし、よく、草摺の鳴(なる)音あるを、いへるにや。古(いに[やぶちゃん注:ママ。])の鎧は、草摺の裏に、革をも、布をも、あてねば、馬のあゆむにつれて、草摺、おどりて、音、あるべしと、いはれたれども、此「ひやうし」も、馬の足搔(あかき)の拍子にはあらで、馬には「ひやうし」をかけ、さて又、鎧は札よきを着たる辨慶がありさまをいへるもの歟。さらずば、當時、鎧の草摺を、馬の「ひやうし」に模したる威しざま、ありて、それを「ひやうし鎧」といひしかも、しるベからず。いづれまれ、安齋翁は、馬に「ひやうし」かけたることを、しらずや、ありけん。そは、千慮の一失なるベし。扨、かの「鷹三百首」にも、「義經記」にも、「ひやうし」とのみありて、正字、詳(つはらか[やぶちゃん注:ママ。])ならず。眞名(まな)には「鑣子(ひやうし)」と書くべきにや。よのつねなるを、「くつわ」といひ、「木鑣(もくひやう/キノクツワ[やぶちゃん注:右/左のルビ。])」を「ひやうし」【卽。「鑣子」なり。】といひけん。關東の方言なるべし。しかれども、軍陣夜討(ぐんじんようち)のをり、人すら枚(ばい)を含むといへば、馬には、必、この「ひやうし」は、關東にのみ限るべきにあらねど、關東は軍陣夜討の時ならでも、鷹狩などの折、多く、馬に是をかけたるなるべし。野作人(えぞひと)は、今も、裸馬に乘る故に、馬には「ひやうし」をかくると、いへり。當初、關東騎馬の形勢、これらによりてしるベし[やぶちゃん注:「鑣」は音「ヒョウ」(現代仮名遣)で、訓は「くつわ・くつばみ」で、馬の口に銜えさせる金具で、主には手綱を附けるのに用いる馬具の意。]。
ついでにいふ、「南留別志(なるべし)」五に[やぶちゃん注:荻生徂徠が書いた考証随筆。宝暦一二(一七六二)年刊。元文元(一七三六)年「可成談」という書名で刊行されたが、遺漏の多い偽版であったため、改名した校刊本が出版された。題名は各条末に推量表現「なるべし」を用いていることによる。四百余の事物の名称について、語源・転訛・漢字の訓などを記したもの。]、『「火の用心」とよぶは、「火あやうし」といふことなり。「本朝文粹」に見ゆ。「拍子木」も「火危木(ひあやふしき)」なり。』と、いへり。夜行翁は【和名「火アヤフシ」。】、「和名妙」にも見えたれど、「ひやうし木」を「火危木」なりといはれしは、信じがたし。「易」ノ「繫辭下傳」に、『重門擊テㇾ析ヲ、以待ツ二暴客ヲ一。蓋シ取レリ二諸ヲ豫ニ一。』と見えたる。析(たく)は、「ひやうし木」なり、こは、唐山(からくに)の制度なるものから、天朝にも、いにしへより、かゝる例(ためし)あるべし。しかれば、「ひやうし木」を、夜行翁の擊つものとのみせんは、非なり。其(その)形、元來、馬の「ひやうし」に似たれば、やがて「鑣子木」といへる俗語ならん。物には「鑣子木」とも書り。これらは、後世、文字、ひらけしより、字を、あてたるなり。愚按も、必とはしがたけれども、こは試にいふのみ。
[やぶちゃん注:以下底本では「正月十四日なり。」まで、全体が一字下げ。]
右の考は、拙者「玄同放言」禽獸の部、名馬の條下に、しるしつけんとおもふこと、久し。しかれども、その書、いまだ、稿を續(つが)ざりければ、こゝに略抄す。遺漏、なほ、あるべし。早春、俗事、蝟集(いしふ)して、筆をとるいとまなきを、けふのまとゐに、ものせんとて、已牌(このとき)より、机案(きあん)にむかひて、亭午(まひる)には、はや、稿し果(はて)たり。かの『兵ハ貴フ二拙速ヲ一。不ㇾ貴ハ二久而後ニ巧ナルヲ一。』と、いへることのこゝろにも似たらんかと、そゞろに自笑して毫(ふで)をとゞむ。時に乙酉春正月十四日なり。[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、ここの次行に「瀧澤解識」の識字が下方に打たれてある。]
鑣子の事、その圖なくば、この書を見ん人の思ひまどふこともあるべし。程經て、後興繼に畫(ゑがゝ)して、こゝに載するもの、左の如し。
一「ひやうし」の事、松前にてはイタヤをして造るといふ。
[やぶちゃん注:底本では以下の割注で終わるまでは全体が二字下げ。但し、『追考・「北海隨筆」に云……』以下の部分は、吉川弘文館随筆大成版では、全体の最後に配されてある。]
イタヤは、漢名、いまだ考へ得ず。木蘭(もくらん)の和名、イタ井といへり。木蘭、卽、木蓮(もくれん)なり。これ歟。猶、たつぬベし。
「北海隨筆」に云、『楓(かへで)を蝦夷人(えぞひと)はタラベニと云ふ。松前にてはイタヤといふ。本邦の楓より大葉なりと、いヘり【下卷、「夷言」の條に見えたり。】。これにて、イタヤは、楓なるよしを、しるものから、猶、心もとなければ、此頃、松前の醫師牧村右門、訪來(とひき)し折、此一條を擧(あげ)て、質問せしに、牧村が云、「イタヤは、卽、楓の事也。その葉は、よの常の楓より大きく、その樹は松前に多くあり。蝦夷地には、いよいよ多かり。依て、松前にて薪にすなるは、皆、イタヤなり。」と、いへり。よりて、おもふに、「大和本草」に、その葉を圖したる大楓のたぐひなるべし。又、「ひやうし」の綱によるといふ、シナの事をたづねしに、牧村が云、「シナといへるも、木の皮なり。その皮をもて、索(なは)にすれば、麻よりも、つよし。シナは松前にて、文字(もじ)には「板」に作るものあり。當否はしらず侍り。」といふ。【今、按ずるに、「正宇通」、『极、音「桀」、驢背上木負ㇾ物也。「※」、卽、作ㇾ「笈」。[やぶちゃん注:「※」=「木」+(つくり:〈上〉「亠]+〈下〉「公」。但し、吉川弘文館随筆大成版では、『㭕』である。しかし、「正字通」を見たが、どこをどう引いたのか判らなかった。また、同版では「极」を「板」としてある。むちゃくちゃやな。]』と。かゝれば、シナの木に「极」とかけど、その義にかなはず。當に「拷」に作るべし。】
[やぶちゃん注:以下、底本では、サイズの割注までは全体が一字下げ。]
長サ曲尺(かねじやく)にて八寸六分、横幅上ミにて一寸三分弱、下モにて一寸六分、綱をとほすの穴、三ツ、そのうち、上と中央(まんなか)の穴は、方なり。[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版ではここに割注があって、『中央の穴は、少し大きし。』とある]下の穴は圓なり。表は中を高くす。裏は平齊(たひら)なり。裏のかたは、馬の頰にあつればなり。但シ、木の厚サ【上の方は中にて五分なり。端にては二分五厘。下の方にては、中にて六分なり。端にては四分。】[やぶちゃん注:サイズの詳細部分は二行割注になっている。]。
一木環(もくくわん)二ツ。造る所の木、左の如し。
[やぶちゃん注:以下の二つの解説は底本では全体が二字下げ。]
内一ツは、其形、半(なから)、扁(ひらめ)なり。長さ二寸一分。扁の肩あり。下まで一寸五分、綱をとほす穴の長サ一寸、横六分なり。
又、一ツは、其形、方、也。長サ二寸六分、横幅一寸六分[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、『一寸二分』となっている。]、木の厚サ各五分、綱をとほす穴二ツ、その穴の徑り六分、穴の四方を、クリて、なだらかにす。綱の摺れて、きれぬ爲なり。
一うなぢ綱、長サ二尺四寸餘。【これを、わがねて、ふたつにす。長サ各一尺二寸餘、むすびめ、二ツあり。】
一手綱(たづな)の長さ、木環(むくゝわん)より、別につくるもの、およそ七尺九寸。上の「ひやうし」を貫くもの、長サ一尺九寸許。これらの綱は一すぢづゝ用ふ。
[やぶちゃん注:ここに以下の五頁に亙る図が載る。キャプションを電子化した。]
[やぶちゃん注:既に示した国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正し、かなり念を入れて清拭した(同書はパブリック・ドメイン)。キャプション。反時計回りで、続けて示す。
「ひやうし」の圖
このところ、馬の花つらにあつるをもて、絹の裂(きれ)にて、まくなり。
この索は細し。下の索の、なかば、す。二すぢつゝ、用るゆゑ也。いづれも右に同し。
馬にかくるに、長ければ、引つめて、みじかけれは、のばすべし。盈編脩短、このところをすきて、自由にす。
このところ、馬の頂にかくる。
この索は、ふとし。二すぢ、共に、大てい、一寸めくり也。
「盈編脩短」は「えいへんしうたん(えいへんしゅうたん)」というのは恐らく、この部分を微妙に引き延ばしたり、短くしたり、修正することを言っているように思われる。]
[やぶちゃん注:キャプション。
「ひやうし」を、馬にかくること、かくの如し。]
[やぶちゃん注:キャプション。「ひやうし」本体部は縦方向に示した。
ひやうし寸尺細注【はかるに、曲尺をもてす。この他も、みな、これにならふ。】
厚サ中ニテ五分、端ニテ二分五厘。
此間ノアキ、五分弱。 長サ八寸六分。
此穴、中央。
(「ひやうし」左下)此間ノアキ、六分。
(同真下左から右へ横書きのもの)横一寸六分。
(同下方右下)厚サ中ニテ六分。端にて四分。
(上に戻って反時計回りで)
左右へ、ひらくこと、三寸八分。
このところ、「ひやうし」のあなへ、入る。
これ、則、馬の鼻つらにあつるところ也。二すぢのつなをわけて、裂をあて、まくこと、かくのごとし。]
[やぶちゃん注:キャプション。上から下へ。
木環圖
厚サ五分弱。上下相同し。
(中央右)二寸一分。
(中央左)こゝより下まで、一寸五分。
(中央下・左から右へ横書きのもの)一寸二分弱。
(その下方)厚サ五分。
(最下方右)二寸五分。
(同左)穴ノ径リ六分。二ツ共ニ相同シ。但シ、四方ヲ、クリテ、ツナノ、スレ、キレヌタメニ、ス。
(最下部・左から右へ横書きのもの)一寸二分。]
[やぶちゃん注:キャプション。
同ウナヂ細寸尺
(上部)長サ「ひやうし」の穴まで、一尺二寸余。但シ、この長短は、馬の大小・肥瘦によりて、盈縮あるべし。
(下部右)この結ひ目の間、一寸。左右相仝じ。
(下部中央)この結ひ目の間、一寸六分。左右仝し。
なお、ここで冒頭で言った通り、吉川弘文館随筆大成版の画像(見開きページで総てが収まっており、以上の図とは全くタッチの異なるものであり、キャプションも異同がある)を比較対照するために、参考図としてトリミング補正したものを掲げておく。
異同のあるキャプションであるが、書体は底本のそれよりも遙かに読み易いので、それらを改めて電子化するつもりはない。御自分で比較されたい。]
[やぶちゃん注:以下、底本では二行目以降が一字下げ。]
一上ミの方、「ひやうし」を繫ぐ綱は、古いき絹の裂(きれ)をもて、綱をわけて、是を、まく。【馬の鼻つらにあたるところなるによりてなり。】左右へひらくこと、三寸八分。この他は、すべて、圖中に見えたり。右の内、中二ツの木環(もくくわん)は、さのみ、必要のものに、あらず。こは、只、綱のむすぼれぬ爲、又、よりの、もどらぬ爲也、といふ。
然らは、是も、有用の物也。必、なくは、あるべからず。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]
此「ひやうし」の圖說は、拙著「玄同放言」第三集に載(のす)べきもの也。是故に、しばらく、帳中の秘とすといへども、同好・親友の爲に、こゝにかさねて略抄す。
[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版にはここに『諸君、ねがはくば、この義をもて、他見をはゞかりたまはせといふ。』という、くだくだしい注意書きが記されている。どこかの書店の但し書きと似ているが、こちらの方が遙かにフェアだね。]
乙酉夏肆月初四 著作堂解再識
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