曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 駒込富士之山來幷加州御屋敷氷室之事
[やぶちゃん注:前と同じく文宝堂の発表。]
○駒込富士之山來幷加州御屋敷氷室之事
江戶本鄕加州御屋敷氷室の場所は、慶長八癸卯年六月朔日、雪ふりたる所也。其雪、富士の形につもりたるゆゑに、其所へ淺間の宮を造立し、每年六月朔日、まつりをなす。其比、本鄕に桔梗屋何がし、水野兵九郞、源右衞門といふもの三人にて、萬の事を取りはからひけるとぞ。其後、右淺間の宮の所も、加州御やしきへ圍ひこみとなりても、以前のごとく參詣ありて、御屋敷の御門を出入しけるを、「いかゞしき。」とて、同所御弓町眞光寺へ淺間の宮を引き移されしが、「此地、不淨なり。」といふ夢の告ありしによりて、程なく駒込の原へ遷座あり。今の「駒込の富士」、これなり。駒込へうつされしは、寬永三戌年なり。享保二年六月朔日より、鐵砲洲船松町より每年五月晦日の夜、「かけ念佛」にて、駒込富士へ萬度を一本持ち來りて、これを納むる事、今にたえず。此事はいかなるゆゑにか。猶、たづぬべし。
此一條、本鄕六町目駿河屋喜太郞話なり。
[やぶちゃん注:「江戶本鄕加州御屋敷」現在の東京大学本郷キャンパス相当。
「慶長八癸卯年六月朔日」グレゴリオ暦一六〇三年七月九日であるから、積もるほどの降雪というのは、ひどく稀れな異常気象である。
「加州御やしきへ圍ひこみとなり」徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開府したのは慶長八(一六〇三)年二月十二日であるから、この降雪の当時のこの場所は、加賀藩の氷室ではあったものの、未だ加賀藩上屋敷の敷地内ではなかったということになる。以下の「駒込の富士」の☜部も参考になる。
「いかゞしき」藩邸内に町人が自由に入るというのはいかがなものか。
「同所御弓町眞光寺」天台宗富元山瑞泉院眞光寺の寺自体は、現在は東京都世田谷区給田に移転しているが、墓地地と薬師堂及び露座の十一面観音像が旧地(東京都文京区本郷四丁目。グーグル・マップ・データ)に残されてある。「人文学オープンデータ共同利用センター」の「江戸マップβ版」の「御弓町」で、切絵図で旧寺域が確認できる。「天台宗東京教区」公式サイトの同寺のページ(現在地の地図有り)によれば、移転(東京大空襲により焼失)は戦後のことで、特に、この寺の薬師如来像は『「本郷薬師」と称され』、『多くの人々の信仰を集め、毎月』八日・十二日・二十二日の『縁日は江戸三縁日と呼ばれる程、賑わいました。この賑わいは、明治・大正・昭和初期まで続き、泉鏡花の「婦系図」、樋口一葉の日記にも賑やかな情景が描写されています。この薬師如来は、慈覚大師の一刀三礼の彫刻によるものと伝えられています』とある、非常に知られた寺であったことが判る。
「駒込の富士」現在の東京都文京区本駒込五丁目にある駒込富士神社。祭神は無論、木花咲耶姫。当該ウィキによれば、『建立年は不明。拝殿は富士山に見立てた富士塚』『の上にある。江戸期の富士信仰の拠点の一つとなった。現在に至るまで「お富士さん」の通称で親しまれている』。『天正元』(一五七三)年、『本郷村の名主の夢枕に木花咲耶姫が立ち、現在の東京大学の地に浅間神社の神を勧請した』寛永』五(一六二八)年、『加賀前田氏が屋敷(上屋敷になったのは明暦の大火』(明暦三年一月十八日~二十日(一六五七年三月二日~四日)『以降)』(☜)『をその地に賜る』(されば、富士型がここに移ったのも加賀藩が絡んでいると考えてよいだろう)『にあたり、浅間社を一旦、屋敷の外の本郷本富士町』『に移し、その後』、『現在地に合祀した』。『江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人(えどはっぴゃくやこう、こうちゅうはちまんにん)」といわれるほど流行した富士講のなかでも、ここは最も古い組織の一つがあり』、『町火消の間で深く信仰された。火消頭の組長などから奉納された町火消の纏(まとい・シンボルマーク)を彫った石碑が数多く飾られている』。『初夢で有名な「一富士、二鷹、三茄子」は、周辺に鷹匠屋敷があった所、駒込茄子が名産物であった事に由来する。「駒込は一富士二鷹三茄子」と当時の縁起物として川柳に詠まれた』。『「一富士二鷹 三茄子」は江戸時代中期の』享保一八(一七三三)年に『江戸で刊行された』節用集(日曜実用本)「悉皆世話字彙墨寶(しつかいせわじいぼくはう)」(儒学者中村平五三近子(なかむら へいご さんきんし 寛文一一(一六七一)年~元文六・寛保元(一七四一):幼時に山崎闇斎から直接に教えを受けている)著)に、『駒込富士神社にまつわる縁起物を詠った川柳「駒込は 一富士二鷹 三茄子」が文献上最古の記述として掲載されている。しかし、「一富士二鷹三茄子」を紹介する文献は同時代に数多く見られ、その中でこの時代より前』『に広く流布していたことが解説されている』。『縁日の山開き』(現在は六月三十日から七月二日まで)『では土産の駒込ナスが名物だったが、現在では周辺の宅地化により』、『茄子の生産は全くなく、土産の茄子も売られていない。鷹匠屋敷跡は現在、駒込病院が建っている』。今は『駒込天祖神社が当社を兼務しており、授与品や朱印は天祖神社の方で行う。また、氏子地域も無い』とある。
「寬永三戌年」一六二六年。しかし干支は誤りで「丙寅」である。干支の誤りは、鈔的には著しく史料としては価値が減衰する、寛永の戌年は寛永十一年(甲戌)がある。
「享保二年」一七一七年。
「鐵砲洲船松町」(ふなまちつやう)は現在の中央区湊三丁目。駒込富士神社までは実測で八キロメートルはある。
「かけ念佛」念仏講などの講中で、鉦や木魚を叩き、高声で掛け声して念仏を唱えること。「かけねぶつ」とも読む。
「萬度」長い柄取り付けて捧げ持つ行灯(あんどん)のこと。祭礼などで四角な木の枠に紙を張って箱形に作り、「何々社御祭禮」などと大書し、その下に町名や「氏子中」・「子供中などと書き、これに花などを飾る。古くは棒の先に白幣を付け、その下に大神宮の一万度の御祓箱を結びつけたが、後には大きい傘に短い幕を廻したものなどもある。「万灯」(まんどう)とも呼ぶ。]
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