曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 高松邸中厩失火之事
[やぶちゃん注:長くはないが、全体にベタで続いている箇所が多く、だらだらして読み難いので、段落を成形した。太字は底本では傍点「ヽ」。]
○高松邸中厩失火之事 松羅舘記
文化八年乙酉[やぶちゃん注:おかしい。文化八年は辛未である。文化八年が正しいなら一八一一年だが、最後に「文政乙酉」とあるから、元号の誤りである。文政八年乙酉は一八二五年。]二月廿三日の夜、小石川御門内なる高松の邸の厩より、失火せしよし、聞えしかば、沼田は【逸平次[やぶちゃん注:「いつぺいじ(いっぺいじ)」と読んでおく。]といふ馬役なり。】いかに燬[やぶちゃん注:「き」。火災。]をのがれし歟、
『書籍・卷物などは、いかにしけん。』
と思ひつゝ、ひと日、二日と過ごす程に、あちこちより、風說、聞えて、
「馬、あまた、燒殺せし。」
といふに、うちもおかれず、物なれたる人を遣して、その安否を問はせしに、家の内のものどもは、恙もあらず候へども、さきの日、
「見よ。」
とて、
「寄せられし鑣[やぶちゃん注:「くつわ」或いは「くつばみ」。]は、皆、燒けたり。」
とて、燒け殘りたる卷物の紙に包みて、返してけり。
抑[やぶちゃん注:「そもそも」。]、
「わが此鑣は、古書に載せたることもありや、よく見て、考へ給ひね。」
とて、沼田に預けおきしなり。しれる人に問はまほしさに、今、圖する事、左の如し。
木村默老云、
[やぶちゃん注:以下は、図の前までは、底本では全体が一字下げ。]
此銜[やぶちゃん注:「はみ」。]二つは、小子も以前藏弃[やぶちゃん注:「ざうき」。整理せずに所蔵していた。]せり。師傳にては、朝鮮國の調馬轡なりと云ふ。甞て乘馬にかけ試みしに、用ひ樣によりて、大に益あり。存するなり。
「唐山馬櫛」と云ふものも、疑ふらくは、非唐山之物歟。蘭人ケイヅルなる者の書ける書册中に、此物、見えたり。
全體、此沼田逸平次、國勝手へ申付たる節、在國にて委敷儀は不知ども、此書面とは相違のある樣に存ずるなり。
[やぶちゃん注:図のキャプション(反時計回りで)。
この大輪を上にしたること、「月山のハミ」と云ひ、下にしたるを、「山月のハミ」といふとぞ。
櫛ノ「ウラ」。
鑣は此外にふたつあり、今、畧す。
唐山馬櫛。以鉄造之。
なお、以下の「いひおこせり。」までは底本では行頭からで、字下げなし。]
この時、沼田が口狀に、「和君も、はやく、柳川へかへり給へ。長居は、實に、おそれあり。われら、けふまで、江戶にあらずば、この災をのがるべきに。」と、かごとがましくいひおこせけり。
[やぶちゃん注:以下「いへるなり。」までは底本では一字下げ。]
沼田は、おとゝし、家老の處分にて、
「國勝手たるべし。」
といひつけられしに、目黑にまします老君の聞こしめして、
「今、故もなく、逸平次を國勝手たらしめて、子どもが馬術の師範には、誰をかする。」
と問はせたまふに、老臣等は、閉口して、今に何の沙汰もなく、そがまゝ、江戶におかるゝなり。
予も去歲[やぶちゃん注:「いんぬるとし」。]の十二月、國勝手をいひつけられしに、いさゝかの故ありて、發足の延引すなれば、扨、しかじかと、いへるなり。
[やぶちゃん注:以下、底本では「怪有なる事になん。」までは、行頭からべったり。]
風說、とかくに定かならねば、
『みづから安否を問はん。』
と思ひて、其日の黃昏に、沼田がり、おとづれしに、宿所は、なほも、上屋敷にて、假住居なる玄關には、冑の鉢・鐙・挾箱の鐵物・藥鑵の類の燒けたるを、處せきまで、積みかさねたり。かくて沼田が子息源太郞、出で迎へて、
「かゝる仕合、賢察を給へかし。おもてだちたるおん屆は、人馬ともに、そこなはず候とは申しゝかども、人にも、馬にも、怪我あれば、心ぐるしくこそ。」
といふ。
嘆息の外、なかりけり。
そのとき、あるじ逸平次は、麻上下の下のみを着て、いそがはしく立ちいでつゝ、
「見給ふごとく、かゝる仕合、今朝しも、使を給はりしに、今、又、みづから訪はせ給ふ。おんこゝろばへ、淺からず。いとよろこばしく候。
といふ。
物のいひざま、眼ざしさへ、怒りをふくめるやうに見えたり。
逸平次、又、いふやう、
「きのふ、『見よ』とて、つかはされたる鑣も、殿[やぶちゃん注:「しんがり」。]に火中に入りぬ。今さらに面ぶせなり。殊さら、遺留物の唐鞍なども、灰になりて候はん。」
といふ。
「そは、ものゝ屑にも、あらじ。彼書籍・卷物なんどは、燒やしたる。」
と尋ねしに、
「さればとよ、非常の時の爲にとて、長櫃にいれたりしがまゝ、燒けて殘るものなり。只、これらのみならず、十二疋有りける馬を、馬は十疋、人、三人まで、燒殺して候なり。きのふ、高松へ飛脚を立たせて、一くだりは申しつかはし、けふ又、つばらに云々と申しつかはすべき爲に、飛脚の用意はしたれども、下役のものどもを、日に日によびて、問ひ質せども、そのたび每に、いふよし、たがひて、書きとゞむべくも、あらず。ほどほど、當惑至極せり。」
と、詞、せはしく、物がたれり。
「そは、やすからぬことなりけり。はや、その事を果し給へ。又こそ、來らめ。」
と別れを告げて、そがまゝに、まかりぬ。
猶、問はまほしき事はあれども、さる、いとまある時ならねば、思ひながらに、默止せり。
孔子の馬を問ひ給はざりしは、只、人畜輕重のわいだめ[やぶちゃん注:「辨別・分別」で「わきだめ」の音変化。古くは「わいため」とも。「区別・差別・けじめ」の意。]にこそあらめ。
いまの諸侯の厩には、馬一疋に、或は二人、或は一人、隷かぬはなし[やぶちゃん注:「つかぬはなし」。]。そが爲に奉公せんもの、預かられたる馬を殺して、わが身に恙なければとて、人には、面を、むけがたかるべし。
世の風說を傳へ聞くに、
「彼死したる三人のうちに、一人は馬の轡づらにすがりつゝ死してありし。」
といへり。これらは特に賞すべし。
予、甞て馬を好む癖あり。その馬を預けおくものを「馬持」といふ。俗には「別當」とよびなせり。されば、この別當には、あだし中間・小ものより、一しほに心をつけて、折々、よびて、酒などのませ、馬の事を問ひなどして、
「手いれを等閑になせそ。」
といふ。則、これ、子につけたる乳母にひとしく、子を愛する情に、近し。そを、十疋まで燒き殺したる沼田が意中、いかにぞや。いとも怪有なる事になん。
[やぶちゃん注:以下、底本では最後まで全体が一字下げ。]
此頃、黑澤竹所より、よせられし簡牘[やぶちゃん注:「かんとく」。書簡。]のはし書に、
「この比、高松藩失火之節、厩より出候事故、沼田逸平次、誠に丸燒、一向、諸道具等、持出し侯隙、無之候由、私も一兩度相尋申候、氣之毒成事仕候。殊に私は、貸置候書籍燒失、是非なき事なり。あなたよりも、貴藏の書、參り居候よし、如何候哉。多分、むづかしく候半と奉存候。」下略
文政乙酉春三月朔 松蘿山人
[やぶちゃん注:既に述べた通り、会員の一人「松蘿館」西原好和(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一五(一八四四)年:号は一甫(いっぽ))は筑後国柳河藩士。幼少より江戸で生活し、定府藩士として、留守居役・小姓頭格用人などを勤めた。文政七(一八二四)年五月から「耽奇会」に、後の「兎園会」にも参加したものの、この文政八(一八二五)年の翌月四月、驕奢遊蕩を理由としてか、「風聞宜しからず」によって、幕府から国元筑紫(柳河藩)への国元蟄居の譴責を受け、江戸を退去させられている。天保年間は柳河藩領南野(現在の柳川市大和町)に隠棲して終わった(ここでは当該ウィキに拠った)。冒頭の大槻氏の序の解説を参照。
「小石川御門内なる高松の邸」この讃岐高松藩上屋敷でこの附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「沼田」「逸平次」讃岐高松藩大坪流馬術師沼田美備(びび)。この人物、かなり知られた馬術家で、馬術書「騎格順道」であるとか、地獄極楽を舞台に馬術を主題とした滑稽な読本「冥冥騎談」などの著作がある。後者は「ADEAC」の「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース」には詳しい奇想天外な内容の梗概が載る。また、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらでは、彼の肖像画さえ見られる。絵師は栗原信充で、左手に『沼田逸平次美備【嘉永元年七月廿二日【七十八】】』とある。
「默老翁」既出既注だが、再掲しておく。木村黙老(安永三(一七七四)年~安政三(一八五七)年)は讃岐高松藩家老。砂糖為替法の施行や塩田開発などで藩財政を再建したことで知られる。馬琴と非常に親しくした友人で、馬琴との交際は江戸勤番中の、天宝年間から始まり、江戸詰が終わって高松に帰ってからも親交が続いた。蔵書家として知られ、浄瑠璃・歌舞伎・読本・合巻などの戯作に精通し、自身も大著の随筆「聞まゝ記」、戯作者の小伝「戲作者考補遺」などを書いている(以上は三宅宏幸氏の論文「木村黙老の蔵書目録(一) ―多和文庫蔵『高松家老臣木村亘所蔵書籍目録残欠』(上)」(愛知県立大学『説林』愛知県立大学国文学会編 ・二〇一八年三月)に拠った。PDFでダウン・ロード可能)。
「師傳」黙老の師匠の教え。
「唐山馬櫛」「たうざんばしつ」或いは「たうざんのむまぐし」か。「唐山」は中国の意。
「蘭人ケイヅルなる者の書ける書册」ハンス・ユルゲン・ケイズル(Hans Jurgen Keijser 一六九七年~一七三五年)は江戸中期に来日したオランダ人馬術家。本邦で最初に西洋式の騎法を公開演技した。享保一一(一七二六)年に来日、同年三月一日には将軍徳川吉宗の乗馬上覧に浴し、同十四年・十五年・二十年と四回に渡って実演した。「有徳院殿御実紀」には「幕府はケイズルを江戸に呼びよせて遊覧させ、また、斎藤盛安や馬役富田又左衛門らの幕士にも学ばせた」と記されている。約十年間の長きに亙って幕府と関係を持ち、オランダの馬術の紹介に努めた労として、彼のために江戸大川で花火が催されてもいる(ここまでは生年を除いて「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。講談社「日本人名大辞典」では上記の生年を明記し、来日した翌年には吉宗に洋馬を献上し、その後もたびたび江戸で洋式馬術を披露する一方、馬の飼養法・病馬治療法なども斎藤盛安らに教授したが、これを今村英生(えいせい)が「西説伯楽必携」として刊行したとあり、黙老の見たのも、この本であろう。なお、ケイズルは一七三五年十二月五日、日本からの帰国途上の船中で殺された(事件不明)とある。
「目黑にまします老君」高松藩江戸下屋敷は、現在の国立科学博物館附属自然教育園(旧白金御料地)にあった。「老君」は第八代藩主松平頼儀(よりのり 安永四(一七七五)年~文政一二(一八二九)年)は文政四(一八二一)年に婿養子頼恕(よりひろ:水戸藩第七代藩主徳川治紀(はるとし)の次男)に藩主を譲って、隠居していた。
「予も去歲の十二月、國勝手をいひつけられしに、いさゝかの故ありて、發足の延引すなれば、扨、しかじかと、いへるなり」これは発表者西原好和が、幕府からの譴責を受けて国元へ退去を命ぜられている事実を隠して、既に国元へ帰ることになっていたのだが、ちょっとした訳があって、遅れていたのを、来月に帰藩することに決めたものであると、誤魔化しているように感ぜられるが、如何?
「おもてだちたるおん屆は、人馬ともに、そこなはず候とは申しゝかども、人にも、馬にも、怪我あれば、心ぐるしくこそ」実際には三人と十頭が焼死しているわけだが、その事実を幕府に伝えれば、出火・消火・救助の管理が全く行われなかったとして、かなり重い処罰が担当者や藩に下されるためであることは言うまでもない。
「面ぶせ」「面伏(おもてぶ)せ」。恥ずかしくて顔を伏せるほどであること。不名誉。「おもぶせ」とも読む。「面目ない」に同じ。
「孔子の馬を問ひ給はざりし」「論語」の「郷党篇第十」の以下。
*
廄焚。子退朝曰、「傷人乎。」不問馬。
(廄(うまや)焚(や)けたり。子、朝(てう)より退(しりぞ)きて曰はく、「人を傷(そこな)へるか。」と。馬を問はず。)
*
「黑澤竹所」西原の知人らしいが、不詳。]
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