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2021/08/31

甲子夜話 卷三十五 15 分福茶釜(フライング)

 

[やぶちゃん注:本話は、現在、電子化注の作業中である『曲亭馬琴「兎園小説」(正編・第五集) 古狸の筆蹟』(山崎美成の発表)の「茂林寺の守鶴を始めとして、いつも、いつも、法師の姿になれるも、をかしからずや」の注を附すに、こちらを電子化するに、如くはなし、と考えたので、遙かなフライングであるが、電子化することとした。「つぶやき」も何時もと異なり、詳細な注とした。

 

35-15 分福茶釜

「池北偶談」に、僧の鶴に化して飛去しこと見ゆ。吾國にも上野の茂林寺にて貉の僧となりて、後に飛去りしことあり。始は僧にもせよ鶴の飛去るは有るべきが、貉の飛ぶは何なることや。この貉は人と化して名を守鶴と云ける。鶴と云こと飛に緣なきにあらず。世に謂ふ分福茶釜と云ふは、この僧の嘗て所持の釜なり。緣記[やぶちゃん注:ママ。]あり。こゝに附出す。今館林侯の領邑なり。

南昌府驛路精舍。去ルコトㇾ江不ㇾ遠。溪水𢌞繞、修竹萬个、風景淸幽。康煕初忽偉丈夫。襆披シテ來宿。貌甚雄奇ナリ。居止旬日、語西音。自カラ風土、欲ㇾ爲ントㇾ僧。難ㇾ之。曰。吾橐中有百金。盡以相付セン。但仰饘粥。於ㇾ此レリト矣。乃從ㇾ之。遂落髮。每日粥飯外、卽面壁シテ不ㇾ語。或竟夕不ㇾ臥。亦不ㇾ經ㇾ禪。如クナルコトノㇾ是六七年、初メヨリ不ㇾ解ㇾ衣。或窃ルニ兩臂、皆有銅圏ㇾ之。莫ㇾ測ルコト也。一日與儕輩江上。有數人ㇾ舟ㇾ岸。望シテ、趨前シテ揖スレバ、則揮シテㇾ手ムルㇾ之耳。語移シテㇾ時。戊申歲、忽沐浴シテㇾ佛、遍レテ寺僧云。明日當シト二涅槃。衆皆不ㇾ信。至ㇾ期ㇾ臺ㇾ坐。少頃ニシテ火自鼻中、煙焰滿ㇾ空。有白鶴頂中、旋空際。久フシテㇾ之始。大衆皆見。周伯衡時南昌憲副。述其事化鶴ノ記

往昔茂林寺に守鶴といふ老僧あり。應永年中、開山禪師にしたがつて館林に來り、茂林寺十世岑月禪師まで隨從す。此僧有德碩學にて又能書なり。茂林寺七世月舟禪師の時會下の衆僧千人にこへ、法幢さかんなること他にたくらぶるなし。然るに茶釜小さくして茶行わたらざるをなげきければ、守鶴いづくともしらず一ツの茶がまをもち來り茶をせんじけるに、晝夜くめどもつきることなし。人々ふしぎにおもひ其故を問。守鶴曰。これは分福茶釜とて何千人にてのむとも盡ることなし。殊に此釜八ツの功德あり。中にも福を分ちあたゆるゆへ、分福茶釜といふ。壱度此釜にてせんじたる茶にて喉を潤す輩は、一生かはきのやまひを煩ふ事なく、第一文武の德を備へ、物にたいしておそるゝことなく、智惠をまし諸人愛敬をそへ、開運出世し、壽命長久なるべし。此德うたがふべからずとなり。それより年月をへ、十世岑月禪師の代にいたり、或時守鶴一睡のうち手足に毛はへ、尾見えたりなど、たれとなくさゝやきければ、守鶴早くさとり、方丈に向つて曰。我開山禪師に隨しより當山にあること百弐拾餘年になりぬ。然るに今化緣つきてしりぞき侍る。我誠は數千載をへたる貉なり。釋尊靈就山にて說法なし給ふ會上八萬の大衆のかずにつらなり、それより唐土へわたり、又日本へ來りすむこと凡八百年。開山禪師の德にかんじ、隨從せしより、今に至るまで由來の高恩言語にのべがたし。今はなごりをおしまんため、源平八嶋のたたかいを今あらはして見せ申さんと、一つの呪文をとなふるうちより、寺内たちまちまんまんたる海上となり、源氏は陸、平氏は船、兩陳[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。「陣」。]たがひにせめたたかふ有樣、恰も壽永の陳中にあるがごとし。人々ふしぎと見るうちに、あとかたもなくきえうせぬ。又釋尊靈山會上說法のていを拜せ申さん。しかしかりの戲れごとなり、とふとしと思ひ給ふことなかれとて、又も呪文をとなふれば、庭上梢紫雲たな引、空に花ふり音樂きこえ、七寶のようらく、千しゆのせうごん、ありありと釋尊獅子の寶坐に說法あれば、あまたの御弟子羅漢たち、かふべをうなだれ聽聞のてい、今見ることのありがたさよと、皆一同にふしおがめば、守鶴今はこれまでなりと、正體あらはし貉となりて飛さりぬ。方丈はじめ一山の僧俗、みどり子の母にわかるゝごとく、なげきしたはぬはなし。其のち神に祭り、守鶴宮とて一山の鎭守となり、今にれいげんあらたなり。扨守鶴能書なりといへども、筆跡皆うせて直堂の札のみのこれり。今打碑して人にあたふ。是をかけおけば、惡魔をはらひよろづの災難をのぞく。信ずべし。又茶釜の茶にてねり丸する守鶴傳の妙藥あり。その功神のごとし。右にいふごとく守鶴むじなとなり、飛さるといへども、まことは是羅漢の化現なりといふ。實に左もあるべし。百有餘年のうちの善功善行、子弟をおしへ、俗をみちびく。皆よのつねの人のよくおよぶところにあらず。とうとむべし、敬ふべし。

          上州館林靑龍山茂林寺

■やぶちゃんの呟き

「分福茶釜」(ぶんぷくちやがま)と茂林寺についての学術的考証は、榎本千賀(ちか)氏の論文「茂林寺と分福茶釜」(『大妻女子大学紀要』一九九四年三月発行)がよい。こちらからPDFでダウン・ロード出来る。

「池北偶談」清の詩人にして高級官僚であった王士禎(おう してい 一六三四年~一七一一年)の随筆。全二十六巻。「談故」・「談献」・「談芸」・「談異」の四項に分ける。

「上野の茂林寺」群馬県館林市堀工町にある曹洞宗青龍山茂林寺(もりんじ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。公式サイトはこちら。以下、当該話は、巻二十五の「化鶴(くわかく)」で維期文庫のこちらで電子化原文が確認出来る。また、「中國哲學書電子化計劃」のこちらでは影印本の当該箇所が視認出来る。静山の写した漢文(かなり正確)を訓読しておく。不足していると私が判断した部分に独自の句読点・送り仮名を附し、一部は従わずに、私の読みで示した箇所がある。読みやすくするために段落を成形した。

   *

 南昌府[やぶちゃん注:現在の江西省南昌市。]驛路の旁らに精舍有り。江(かう)を去ること遠からず。溪水、𢌞繞(くわいねう)し、修竹(しゆちく)萬个(ばんこ)、風景淸幽たり。

 康煕[やぶちゃん注:一六六二年~一七二二年。]の初め、忽ち、偉丈夫有り。襆披(ぼくひ)して[やぶちゃん注:旅姿で。]來宿す。貌、甚だ雄奇なり。

 居止すること、旬日、語は西音を操る。自(みづ)から言ふ。

「此の地の風土を愛し、僧とたらんと欲す。」

と。

 之れを難ずるに、曰く、

「吾が橐中(たくちゆう)[やぶちゃん注:袋。]に百金の裝(さう)有り。盡(ことごと)く以つて相ひ付せん。但だ、饘粥(せんしゆく)を仰ぐのみ[やぶちゃん注:ただ、日々の斎料(ときりょう)の粥を頂戴したいだけである。]。此に於いて足れり。」

と。

 乃(すなは)ち、之れに從ふ。

 遂に落髮す。

 每日の粥飯の外は、卽ち、面壁して語(ご)せず。或いは竟夕(きやうせき)[やぶちゃん注:一晩中。]臥さず。亦、經を誦し、禪に參ぜず[やぶちゃん注:ここは連用中止法で、「経も読まず、~」である。]。

 是(か)くのごとくなることの、六、七年、初めより、衣を解かず。或いは窃(ひそ)かに兩の臂(ひ)を視るに、皆、銅圏有りて、之れを束(そく)す[やぶちゃん注:「両の腕に銅の輪があって、それでもってぎゅっと締めている」の意か。]。測ること莫し[やぶちゃん注:それら理由は推察してみてもさっぱり判らなかった。]。

 一日(いちじつ)、儕輩(せいはい)[やぶちゃん注:同じ修行僧ら。]と晩に江上(かうしやう)に立つ。數人有りて、舟を泊め、岸に登る。之れを望見して、大きに驚き、趨前して[やぶちゃん注:素早く前方へ進んで、]、揖(しふ)すれば、則ち、手を揮(き)して、之れを止むる[やぶちゃん注:この「揖」は「楫」(かぢ)の意ではあるまいか? 空舟が流れ出そうになったのを、舟に飛び乗り、楫を揮(と)って戻したのであろう。]。「語(こと)の移る時を耳(き)きたり。」とて[やぶちゃん注:ここは維期文庫のそれで訓読してみた。]、別れ去る。

 戊申(ぼしん)の歲、忽ち、沐浴して、佛に禮し、遍(あまね)く寺僧に別(れをい)ひて云はく、

「明日(みやうにち)、まさに涅槃すべし。」

と。

 衆、皆、信ぜず。

 期(とき)に至り、臺に登りて、坐を敷く。少頃(しやうけい)にして[やぶちゃん注:暫くして。]、火、鼻中より出で、煙焰(えんえん)、空に滿つ。

 白鶴有り、頂(うなじ)の中(うち)より、飛び出で、空際(くうさい)に旋繞(せんねう)す。

 之れ、久ふして、始めて沒す。

 大衆、皆、見る。

 周伯衡[やぶちゃん注:不詳。]、時に南昌憲副たり。其の事を述べて、「化鶴(くわかく)の記」を作る。

   *

これは仙道で言う「屍解仙」である。

「應永」一三九四年から一四二八年まで。

「開山禪師」茂林寺公式サイトのこちらによれば、開山は大林正通(だいりんしょうつう)で、応永三三(一四二六)年、『正通は守鶴を伴い、館林の地に来住し、小庵を結び』、『応仁二』(一四六八)『年、青柳城主赤井正光(照光)は、正通に深く帰依し、自領地の内八万坪を寄進し、小庵を改めて堂宇を建立し、青龍山茂林寺と号し』『た。正光(照光)は、自ら当山の開基大檀那となり、伽藍の維持に務め』たとある。

「茂林寺十世岑月禪師」「しんげつぜんじ」。「信濃史料」に、「慶長二 後陽成天皇、高井郡常樂寺住持壽淸天庵ニ、岑月圓光禪師ノ號ヲ援ケラル」(ADEAC」の画像資料を視認した)とある。そのクレジットは慶長二(一五九七)年十月十八日であるから、百六十九年である。但し、以下の茂林寺公式サイトの解説では十世を天南正青とする。まあ、伝説であるから、齟齬や史実を云々するまでもあるまいと思う。

「茂林寺七世月舟禪師」月舟正初(げつしうしょやうしよ)。茂林寺公式サイトの「分福茶釜と茂林寺」に、『寺伝によると、開山大林正通に従って、伊香保から館林に来た守鶴は、代々の住職に仕えました』。『元亀元』(一五七〇)年、『七世月舟正初の代に茂林寺で千人法会が催された際、大勢の来客を賄う湯釜が必要となりました。その時、守鶴は一夜のうちに、どこからか一つの茶釜を持ってきて、茶堂に備えました。ところが、この茶釜は不思議なことにいくら湯を汲んでも尽きることがありませんでした。守鶴は、自らこの茶釜を、福を分け与える「紫金銅分福茶釜」と名付け、この茶釜の湯で喉を潤す者は、開運出世・寿命長久等、八つの功徳に授かると言いました』。『その後、守鶴は十世天南正青の代に、熟睡していて手足に毛が生え、尾が付いた狢(狸の説もある)の正体を現わしてしまいます。これ以上、当寺にはいられないと悟った守鶴は、名残を惜しみ、人々に源平屋島の合戦と釈迦の説法の二場面を再現して見せます』。『人々が感涙にむせぶ中、守鶴は狢の姿となり、飛び去りました。時は天正十五年(一五八七)二月二十八日。守鵜が開山大林正通と小庵を結んでから』、『百六十一年の月日が経っていました』。『後にこの寺伝は、明治・大正期の作家、巌谷小波氏によってお伽噺「文福茶釜」』(ぶんぷくちゃがま)『として出版され、茶釜から顔や手足を出して綱渡りする狸の姿が、広く世に知られる事になりました』とある。リンク先の上にその茶釜の写真があり、現在も本堂北側の一室に安置されてあるとある。

「會下」「ゑげ」「ゑか」。「会座」(えざ)に集まる門下の意で、禅宗・浄土宗などで、師の僧のもとで修行する所を指す。

「法幢」(ほふどう(ほうどう))は、原義は「仏法」(仏法を敵を圧倒する猛将の幢(旗鉾(はたほこ)に喩えたもの)。禅宗では説法があることを知らせるために立てる幟(のぼり)の意もある 。

「たくらぶる」「た比(較)ぶる」。比べる。平安末期以降の用語。

「此釜八ツの功德あり。中にも」㊀「福を分ちあたゆるゆへ、分福茶釜といふ。壱度此釜にてせんじたる茶にて喉を潤す輩は」㊁「一生かはきのやまひを煩ふ事なく」㊂「第一文武の德を備へ」㊃「物にたいしておそるゝことなく」㊄「智惠をまし」㊅「諸人愛敬をそへ」㊆「開運出世し」㊇「壽命長久なるべし」で八つある。

「百弐拾餘年」自称の割に過小表現である。

「化緣」(けえん)は「衆生を教え導く因縁・化導(けどう)の因縁」或いは「仏菩薩の教化を受ける衆生の側の力・教えが説かれるためにもともと衆生の持っている機縁」の意。

「靈就山」(りやうじゆせん)は漢訳語は「靈鷲山」(りょうじゅせん:現代仮名遣)が一般的。インドのビハール州のほぼ中央に位置する山(この中央附近)で、大乗経典にでは、釈迦が「観無量寿経」や「法華経」を説いたとされる山として知られる。サンスクリット語では「グリドラクータ」、パーリ語では「ギッジャクータ」。

「會上」「ゑじやう」。会座のほとり。場。

「唐土」「もろこし」と訓じておく。

「日本へ來りすむこと凡八百年。開山禪師の德にかんじ、隨從せし」数えで単純換算すると、西暦で六二七年で、本邦へ彼が渡ってきたのは、推古天皇三十四年となり、これは聖徳太子が亡くなった五年後、蘇我馬子の没した翌年に相当する。

「守鶴宮」現在、茂林寺境内に守鶴堂としてある。茂林寺公式サイトの境内案内のページを参照されたい(写真有り)。本堂の脇の建物には正通大和尚像と守鶴和尚の像もあるとある。

「直堂」(ぢきだう)は禅宗の寺院で衣鉢を看守する当番のこと。或いは僧堂の守り役を示すもの。この「札」の現存は、不明。

「打碑」拓本にすること。

「ねり丸」練(ね)り丸薬(がんやく)。

「その功神のごとし」「その功(こう)」(効能)たるや、「神」妙(しんみょう)なるに似たり。

「化現」仏・菩薩などが世の人を救うために姿を変えてこの世に現われること。

「實に」「げに」。

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