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2021/08/18

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (12) 「摸稜案」の最初の物語

 

      「摸稜案」の最初の物語

 摸稜案の最初に收められた『縣井司三郞《あがたゐつかさぶらう》』の事件は、棠陰比事の最初の物語がその骨子となつて居るやうである。棠陰比事の物語は極めて短く事件も至つて簡單であるが、それを基として作つた『縣井事件』は極めて複雜で且巧妙に出來て居る。私はそれ故、馬琴が如何に想像力の發達した人であるかを示すために、先づ棠陰比事の物語を左に譯出しようと思ふ。

[やぶちゃん注:以下、訳文は底本では全体が一字下げ。]

『丞相向敏中が西京《さいけい》といふ所の裁判官をして居た時のことである。一人の行脚僧が、ある村にさしかゝると、日がとつぷり暮れたので、ある家に一夜の宿を求めたところ、主人が許さなかつたので、せめて門外に休ませてくれと賴むと、主人は澁々ながら承諾した。すると夜中に、その家に盜人がはいつて、一人の女に澤山の財寶を持たせ、垣を越えて出て行つたので、行脚僧は自分に盜人の嫌疑がかゝつては困ると思ひ、夜の明けぬ先に出立して、野中をずんずん急ぐうち、誤つて古井戶の中に落ちこんだ。ところが、ふと、氣がついて見ると、先刻盜人と同行した女が、同じ井戶の中に切り殺されて居たので、はつと思つて逃げようとしたけれども、深い井戶のことゝて、どうすることも出來なかつた。そのうちに夜が明けると、件の家の主人は盜難に氣づいて追跡して來たが、やがて古井戶を發見して、中に居た僧を捕へ、役所に訴へ出た。行脚僧の衣の裾には生々しい血がついて居たので、役人たちが、嚴しく責め立てると、行脚僧はとても罪を免れることは出來まいと覺悟して、女と共に彼の家にしのび込んだが、發覺を怖れて女を殺し、井戶の中へ投げ込まうとした拍子に自分も誤つて落ちこんだと自白した。賍品《ぞうひん》[やぶちゃん注:「贓物」(ぞうもつ)におなじ。]と女を殺した刀とは井戶の傍へ置いたけれども、何人が持ち去つたか自分は知らないと說明したので、役人たちはそれを眞實の自白だと思つた。たゞ裁判官の向敏中だけが、賍品と刀の無いのに不審を抱いて、色々に僧を問ひつめると、僧も包み切れずに、何事も囚緣と諦めて無實の罪を背負ひ込んだ旨を告げた。そこて向敏中は部下の役人に意を含めて、眞實の盜賊の行方を搜させたところ、部下のものが、村の茶店に休憩して居ると、老婆が茶を出しながら、この頃捕へられた行脚僧はどうなりましたかと訊ねた。役人が僞つて昨日死刑に處せられたよと答へると老婆は嘆息して、若し本當の賊が出たらどうなりますかときいた。そこで役人は、僧が殺された以上たとひ眞犯人が出てもかまひなしだと告げると、老婆は、それならば申しますが、あの女を殺したのは此村の誰それですよと敎ヘた。役人は忽ちその者を捕へ、行脚僧は放免されたのである。』

 縣井事件では、この物語の趣向は、後の部分に出て來るだけであつて、中心となる事件は全く別の趣向である。

[やぶちゃん注:「棠陰比事」の原文は標題「向相訪賊錢推求奴」(目録は頭の「向相訪賊」)で「中國哲學書電子化計劃」の影印本のこちらから次のページにかけてで、本文は僅か二百十二字である。因みに、岩波文庫の本訳版では、後に宋代の鄭克(ていこく)という法学者の評言が附帯しており、そこでは、裁判官はあくまでも「推定無罪」の立場で裁きに向かわねばならないという旨を記している。素晴らしい! また、以下の示される「靑砥藤綱摸稜案」の巻頭を飾る「前集 卷之一」の「縣井司三郞禍(わざはひ)を轉じて福(さひはひ)を得たる事」は国立国会図書館デジタルコレクションの「近代日本文學大系第十六卷」(昭和四(一九二九)年国民図書刊)のここから視認出来る。但し、これ、第二巻を丸々「縣井の中」「縣井の下」として続けて終わる、これまた、非常に長い作品である。以下の読みはそれを見て附してある。]

 伊勢國鳥羽の湊に、縣井魚太郞《あがたゐなたらう》といふ商人があつて、毎年鰹節や茶や山田の塗折敷《ぬりをしき》などを持つて船で鎌倉に行商し、大小の武家を得意先として𢌞り乍ら、凡そ半年ほど逗留するのが例であつた。彼はその性質が至つて實直で商人に似合はず和漢の學に通じて居たが、少しもその才を誇ることがなかつた。

 ところが魚太郞と同鄕の商人に金剌利平二《かなざし りへいじ》といふ男があつた。この男もやはり、魚太郞と同じく鎌倉の行商に出たが、うはべは濶達に見せて居ても、心の中は非常に吝嗇で、魚太郞の商品よりも高かつたけれども、口先がうまいために商賣は繁昌した。そして魚太郞と同じく和漢の學に通じて居たので、人々は彼の話に釣り込まれ、いつとなく丸めこまれる程であつた。

 あるとき縣井魚太郞と金剌利平二とが同船して鎌倉に行く途中、魚太郞は何となく塞ぎ込んで居たので、利平二がその理由をたづねると、魚太郞の言ふには、實は自分には小太郞といふ男の兒があつたが、先年母の大病の時、佛菩薩に祈願して、母が平癒しますれば、小太郞を出家させますと誓つたところ、幸に母が平癒したので、小太郞が八才のとき寺に遣したが、程なく住持と共に筑紫へ行つてしまつて、今年で三年になるが何の音沙汰もなく、母は先年死んえ、女房は去年女の子を設けたが生れて間もなく死に、その後また女房は姙娠して、今八ケ月であるから、女房のことを思つて氣が勝れないといふのであつた。これを聞いた金剌は大に同情し、實は自分の女房も今八ケ月の身重であるから、思ひは同じである。かうして同じ商賣をして居る以上、いつそ生れる兒同志を許嫁にして親戚の緣を結ばうではないかといひ出したので魚太郞は大に喜んで、その場で親戚となることに決した。

 かくて二人が前後して鎌倉から歸ると、縣井の女房は男の兒を生み、金利の女房は女の兒を生んだので、男の兒を司三郞《つかさぶらう》、女の兒を十六夜《いざよひ》ともけて許嫁とならしめ、兩家はめでたく親威となつた。ところが司三郞、十六夜が七歲のとき、縣井魚太郞は重病にかゝつて、とても恢復の見込が立たなかつたので、金刺利平[やぶちゃん注:ママ。]を枕元に呼んで、鎌倉の得意先を讓り、司三郞のことをくれぐれも賴んで、程なく死亡した。利平二は約束を守つて魚太郞の遺族を親切に待遇し、司三郞に學問を授けたので、十一二歲の頃には司三郞は大ていの書物を讀むほどになつた。

 その頃鎌倉では北條顯時が、金澤なる稱名寺のほとりに文庫を建て、各方面の圖書を蒐集して學問所を開いたので、全國の各地から、多くの學徒が集つて來たが、適當な學頭がなくて困つて居たところ、金刺利平二は商人に似ず學問が勝れて居たので、顯時は利平二を召して、學頭になる氣はないかと話した。利平二は大に喜んでその場で御受けを致し、すぐさま鳥羽へ歸つて事情を話し、女房と十六夜と、老僕の繁市《しげいち》と、その娘の弱竹《わかたけ》とを連れて鎌倉へ參り、金澤文庫のほとりに大きな邸宅をかまへ、若黨十人あまりを召使つて金刺圖書の名を貰ひ學顛としての威嚴を示した。はじめ人々は、彼が商人であることを知つてあまり寄りつかなかつたが、上流の人々にぼつぼつ金を貸したりしたので、後には執權時宗にも見參し得る程の勢力となつた。

 これに引きかへ、縣井司三郞とその母は、金刺に去られてから、何の音沙汰もなかつたので、二人は苧《そ》を績《つむ》いだり、磯網を編んだりしてその日その日を貧しく生活せねばならなかつた。司三郞は母に孝行する傍、學問に餘念なかつたので、年を經るに從つて、金刺圖書などよりも遙かに上達することが出來たのである。かくて、司三郞が十八歲の時、母は我が子り將來を憂ひ、ある日司三郞に向つて、貯へた十貫文の金を渡し、鎌倉へ行つて金刺に身を任すやう勸めたので、司三郞は母と共に、鎌倉へ參り、一先づ旅宿に落ついて、翌日司三郞一人で、金刺圖書を訪問した。

 ところが圖書は司三郞の姿を見てあまり喜ぶ樣子もなく、今日は忙しいから、追て沁汰する迄宿に居るがよからうと告げて、すげなく歸してしまつた。圖書の妻はその時屛風の蔭から司三郞の姿を見ると、男振りもよく、動作も立派なので、司三郞が歸つてから、何故もつと親切にしてやらなかつたかと詰《なじ》ると、圖書は、娘十六夜を北條殿の一族のものへ與へたい願であるとて、却つて妻を叱るのであつた。

 一方司三郞は旅宿へ歸つて、圖書の不機嫌てあつたことを母に告げたが、母は圖書の内儀の心を信じて、まだ四五貫文の金が殘つて居るから、金刺圖書から呼出しのある迄待つやうにすゝめた。ところが三十日經つても圖書からは使ひが來ないので、司三郞は不安に感じ、每日、金澤文庫のほとりを徘徊して、學徒たちの講書の聲をきいて心を慰めて居た。

 ある日の夕方、彼が金刺の第宅《やしき》[やぶちゃん注:原文の読み(右ページ九行目)に従った。国書刊行会版では『ていたく』とする。]の後ろを通ると、丁度、その時、十六夜は腰元の弱竹と二人で庭に出て居たが、弱竹に敎へられて、司三郞の姿を見て、大いに顏をあからめ、司三郞もその時十六夜の姿に心を奪はれてしまつた。で、その後司三郞は毎日金剌の第宅の裏をとほつて居たが、そのうちに弱竹の媒介で、ある夜人目をしのんで、十六夜の許に一夜を明し、あくる朝、別れ際に十六夜は、玳瑁《たいまい》の笄《かうがい》と、白銀《しろがね》の指環[やぶちゃん注:原文の読み(右ページ後ろから二行目)は「ゆびのわ」だが、梗概だから「ゆびわ」でいいだろう。]を、生活の助けにもといつて司三郞に與へた。司三郞は、今後、每晚訪ねて來ることを約東して歸つたが、どうした譯か、十日ばかり姿を見せなかつた。

 話變つて、金剌圖書の第宅から百歩ぱかり東の坊に、一軒の質店があつた。主人は子母家利三郞《しぼやりくらう》と呼れて、裕福に暮して居たが、司三郞と十六夜とが會合してから丁度十日過ぎた夜、件の質店へ一人の行脚僧がたづねて來て、一夜の宿を求めた。小僧たちは夜も大分更けたことであるから、宿を斷ると、僧はせめて軒下でも貸して頂きたいと言つて其處にしやがんで朝を待つた。するとその夜二人の大男が質店に盜みにはひつたので、これを見た僧は大に驚いて、自分に嫌疑のかゝることを怖れ、あたふた軒端を逃げ出したが、あまり急いで野中の古井戶に落ちこんでしまつた。(この邊、棠陰比事の趣向である。)

 一方、金刺の裏庭では腰元の弱竹が、今夜こそは司三郞が來るかと、夜更まで待つて居たところ、垣の外に跫音がしたので、さては司三郞であろうと思つて呼びかけると、意外にも一人の大男がぬつとはひつて來た。弱竹は大に驚いて『盜賊《ぬすびと》、盜賊』[やぶちゃん注:原文では「賊あり、賊あり」(右ページ一行目)と叫んでいるが、その後(二行目以下に複数あり)で「盜賊」が出、それにかく読みが振られているので、それを採用した。]と叫ぶと、賊は刀を拔いて弱竹を切り殺し、次で十六夜の室にはひつて、衣栢調度を手當り次第に奪つて立ち去つた。

 やがて金刺圖書の家では大騷動となり、老僕の繁市は娘弱竹の死骸を抱いて歎き悲しみ、人々は盜賊の行方を搜したが、もとより知れる筈はなかつた。あくる日弱竹の葬式をすましてから、圖書は繁市に向ひ、自分はどうも司三郞が怪しいと思ふから、娘の菩提のためにも、司三郞の樣子をさぐつて見よと告げるのであつた。翌日繁市が司三郞の旅宿を窺はうと思つて出かけると、道て與野四郞《よのしらう》といふ小間物賣に出逢つたが、與野四郞が、頭に玳瑁の笄をさし、左手に銀の指輪をさして居たのに不審を抱き、かねて十六夜のものだと知つて居たので、繁市は與野四郞に向つて、それをどうして手に入れたかと訊ねた。すると與野四郞は、昨日ある旅宿の前をとほると、中から若者が出て來て之を買つてくれといつたから買つたのだと告げた。それを聞いた繁市はその若者が司三郞であることを知り、與野四郞を巡れて來て、圖書にその委細を告げた。

 金刺圖書目の前に十六夜の所持品を見て、弱竹を殺したのは司三郞にちがひないと思ひ、妻が諫めるのをもきかずに、鎌倉へ行つて、主の顯時に事の次第を告げ、文注所へ訴ヘたのである。

 靑砥藤綱は訴への文書を讀んで、圖書と與野四郞とに事情をたづね、彼等を退《のか》せてから、直ちに人を遣して司三郞の逮捕に向はしめた。かやうなこととは夢にも知らず、司三郞は十日前から母親が急病に罹つたので、晝夜その枕元に附きつて居たが、そのうちに旅費が盡たので、昨日、通りかゝつた小間物屋に、十六夜から貰つた笄と指環を賣り、今日その金で藥を買ひに出かけると、途中で捕手のために縛《から》められてしまつた。

 司三郞が文注所へ引張られて來ると同時に質屋利九郞が先頭になつて、一人の法師に繩をかけ、この法師は先夜私の家に泊めてくれと申して來ましたが、斷つたところ、その夜家内へしのび入つて、多數の品を持ち去り、行方不明になつて居ましたが、天罰を免れることが出來ず、三四町[やぶちゃん注:約三百二十七~四百三十六メートル。]彼方の古井戶の中に落ちて居ましたから、引き連れて參りましたと訴へ出た。

 藤綱は先づ司三郞を召し寄せて訊問し、この僧は多分汝の同類であろうときめつけた。そこで司三郞は自分の生立《おひたち》を始め、金刺圖書との關係や、笄と指環は十六夜から貰つたことなどを述べた。藤綱は之をきいて打ち笑ひ、然らばどうして十六夜に面會したかとつき込むと、司三郞ははたと返答に行き詰つた。

 そこて藤綱は一方の法師に向ひ、その身許をたづねると、法師がいふには、自分は筑前のもので景空《けいくう》と申しますが、此度《このたび》師父に別れて東國に行脚しましたところ、路銀がなくなつたため惡心を起し、質屋をはじめ、金剌の家にしのび入りましたが、その時女に見つけられましたので一刀のもとに切い殺しました。ところが逃げのびる途中で誤りて井戶に落ち、かうして捕へられましたが、すべて私一人の仕事で、こゝに居る若人とは關係のないことですから、どうかこの若人をゆるしてやつてくれと、意外な自白をした。

 これをきいた藤綱はにこにこと笑つて、然らばその賍品[やぶちゃん注:原本では「ぬすめるもの」と読んでいるが、ここは梗概だから、前の「ぞうひん」でよかろう。]と刀とは何處にあるかとたづねた。この質問に僧ははたと行詰つたらしかつたが、暫くしてから言ふには逃げ出して井戶へ落ちたときに落してしまつたと答へた。藤綱は利九郞たちに向つて、井戶の近所に何か落ちては居なかつたかときくと、この頭陀袋と菅笠一枚きりでしたと答へた。藤綱はその二つの品を手に取つて暫らく檢べて居たが、やがて打ちうなづいて利九郞等を一先づ退かせた。

 あくる日藤綱は司三郞を召し出して、十六夜との關係について詰問したので、司三郞も今は包み切れずに密通の次第を物語つた。そこで藤綱は金刺圖書を呼ぴ出して十六夜と司三郞との關係を告げたが、圖書は大に怒つて娘は決してそんな淫奔《いんぽん》なものではないと言ひ張つた。そこで藤綱はたうとう十六夜を呼び出して訊問したところ、十六夜は非常に恥かしい思ひをしながらも、事實のまゝを申述ベた。圖書はこれを聞いて、事の意外に驚いたが、如何ともする術なくたゞ、畏《かしこま》つて居るより外はなかつた。

 これで司三郞に罪のないことはわかつたが、法師の景空の自白が信じ難かつたので、藤綱は圖書父娘を鎌倉にとゞめ、司三郞と景空を文注所に居らしめ、その間に、雜色《ざふしき》二人に計略を授けて金澤へ遣して眞犯人を捜させた。二人の雜色がある茶屋に憩ふと、茶屋の老婆は、先日捕へられた二人の犯人はどうしましたかとたづねた。(この邊棠陰比事の趣向である。)二人はこゝぞと思つて、二人とも由井濱《ゆゐのはま》[やぶちゃん注:原文(右ページ六行目)に従った。]で首を刎ねられ左と告げると、老婆はしきりに念佛を唱へたので、二人がその理由をたづねると老婆は眞犯人が外にある旨を告げた。そこで二人が僞つて、もはや眞犯人の名を告げても罪にはならぬと語ると、老婆は、我來八《がらはち》と與東太《よとうだ》といふ無賴漢の仕業だらうと言つた。そこで、忽ちその二人を捕へて吟味したところ、彼等は包み切れずに何もかも白狀して、賍品を提供したのである。

 これでもう殘る疑問は景空の虛僞の自白であるが、それは藤綱が景空の頭陀袋の中にあつた度帖《どてふ》[やぶちゃん注:「度牒」が正しい。「度」は「得度」の意。寺や師僧が得度した僧に書き与える身分証明書。]を見るに及んではつきり解決された。卽ちこの僧こそは、司三郞の實兄で、祖母の病氣平癒と共に出家し、後筑紫へ行つた小太郞てあつた。近ごろ夢見が惡かつたので師僧に乞うて郡里へ歸つて見ると、母と弟とは鎌倉へ移つたとの事で、又もや遙々たづねて來ると、圖らずも文注所で弟の司三郞に逢つたので、それといはずに弟を助けるため、無實の罪を自白したのである。

 かくて事件はめてたく落着し、景空は法華堂[やぶちゃん注:現在の源頼朝の墓と称するものの階段下、左手にあった頼朝の本当の廟所のこと。]の別當に補せられ、司三郞は金刺圖書に代つて金澤文庫の學頭に任ぜられ、十六夜と結婚することになり、司三郞の母はうれしさのあまり、日ならずして、大病も癒えた。

 縣井事件の紹介が意外に長くなつたけれど、讀者はこれによつて、棠陰比事の短い物語を骨子として曲亭馬琴が如何に巧妙に、その筋を立てたかを知られたであろうと思ふ。摸稜案は、數多い彼の作物中で、さほど有名なものではないが、物語作者としての馬琴の腕は、こゝにも十分に認め得られると思ふ。

 

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