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2021/08/17

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) あやしき少女の事

 

   ○あやしき少女の事   文寶亭 錄

新肴町嘉兵衞店大工傳吉儀、先月廿五日朝五時比、七歲に罷成候娘「かめ」と申す者を連れ、弓町大助店忍冬湯と申す藥湯渡世致し候榮吉方へ入湯に罷越候處、十一、二歲位に相見え候女子、髮ゆひ候者、右女子同樣に入湯いたし居、右「かめ」と、友達の樣に、心やすく咄などいたし、傳吉歸り候節、娘「かめ」には、よきものを遣し可申間、殘し置候樣、申候に付、何の心も不附殘し置、傳吉、罷歸り申し候處、しばらく過ぎて、右之女子、「かめ」を連れ、傳吉宅へ參り。なれなれ敷いたし、右かめの髮など、ゆひ遣し、菓子抔、遣し候に付、住所相尋候得ば、右之「忍冬湯向米屋の娘」之由申聞、夫より、直に「かめ」をつれ。木挽町芝居に參り、歸りに。同人伯父のよし、同所二丁目裏屋へはいり、「かめ」へ古き丹後島の帶壱筋、木綿島子供前埀壱つ、黑縮緬おこそ頭巾壱、右三品を吳れ、相歸し申候。又候[やぶちゃん注:「またぞろ」。]、翌朝、德利へ、酒壹合程、入、持參、「母より遣候」趣、申候。卽刻、又々、酒少々、德利へ入れ、「めざし鰯」一くし持參、自分と、かんをいたし、たべ、傳吉方に有合候淺漬香の物を貰ひ、たべ、「是は何方にて何程に買ひ候哉」と承り、相歸り、又候、間も無之、右淺漬一本、調ひ、持參、自分、洗ひ、一寸位づつ、大きく、きり、不作法にたべ、相歸り申候に付、不思議に存じ、同夜、傳吉妻「いく」と申者、右之忍冬湯向米屋へ禮に參り候處、「一向相知れ不申」候。猶、又、翌朝、廿八日早朝に、右之娘、參候間、住所、再應、相尋候得共、彼是申し、紛し候に付き、右「いく」・同人忰兼次郞と申す十六歲に相成候者、兩人にて、「行先を見屆可申」と申合、右娘、歸り候節、跡をつけ參候處、南橫町より、西紺屋町河岸へ、足早に參候間、『見屆可申』と存候内、何方へ參候哉、見失ひ、一向行方相知れ不申候に付、右町内を、近邊とも、再應、承り合候處、右の少女、此節、處々へ參り、娘の子の髮など、ゆひ遣し候に付、宿を承り候へ共、家々にて、替り候名前のみ、申候」儀に付、全く、狐狸の成す業にも可有之哉。此節、專ら處々方々にて、右體の取沙汰御座候に付、此段申上候以上。

 子十二月十一日

  新肴町名主後見 西紺屋町名主 彌五右衞門

右書上げのまま寫し、こは、文化元甲子年の事なり。

 

[やぶちゃん注:私は既に、高校国語教師時代のオリジナル古典教材としての教案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」によって、古典の授業で何度も実際に扱った。そちらでは、私の現代語訳も附して詳細注も施してあるが(但し、原文は高校生対象なれば、新字表記である)、今回はその注を元に、ブラッシュ・アップして、以下に注する。元は高校生向けの注なので、不要なものもあるが、私の教師時代の思い出として、項目はカットせずに示した。

「文寶亭」「兎園小説」の冒頭に添えた大槻修二氏の序によると、亀屋久右衛門、本名不詳。飯田町で薬種を商い、後に二代目蜀山人の号を継いだ、とある。

「新肴町(しんさかなまち)」現在の銀座三丁目の西。この中央の区画(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「店」(たな/ここでは連濁して「だな」)貸家。江戸時代、長屋全体には所有する大家の名前や通称地名等を付けて呼んだ。

「儀」(主に文章語として)人を示す体言に添えて、「それについて言えば」の意を示す。特に訳す必要はない。

「罷成候」(まかりなりさふらふ)町方役人に提出するための上申書であるため、全文が候文の丁寧表現であり、また、その殆んどの場面で、庶民の行動が謙譲表現になっている。この「罷る」は単に自己側の行動を卑下した謙譲表現である。「なる」は準公式文書の改まった表現であって、全体を訳すと「参りました」となる。

「弓町」(ゆみちやう)現在の中央区銀座二丁目三番から五番。新肴町の東北で道を介して接する。

「先月」十一月。末尾に「子十二月十一日」(「子」(ね)文化元年は以下に示されるように干支は甲子(きのえね/かつし)であるので、こう記載した。当時の年号記載では極めて一般的である。そもそも最近のことを記載し、それがアップ・トゥ・デイトに読まれるものであるならば、干支の十二支の部分をのみを記せば、まず誰も年を誤ることなかったからである)「文化元甲子年」のクレジットがある。グレゴリオ暦ではちょっとややこしい。上申書を差し出した「十二月十一日」は一八〇五年一月十一日であるが、事件の初回は旧暦十一月二十五日で、一八〇四年十二月二十六日に当たる。

「朝五時」「あさいつつどき」。「朝五ツ」は不定時法で、真冬であるから、丁度、冬至を過ぎた頃であるから、午前八時半前頃であろう。

「薬湯」(やくたう)薬風呂。薬草・薬石等を混入した風呂であるが、これは江戸期の湯屋(ゆうや=銭湯)であるので、蒸気の中に薫蒸した薬草等を入れたものである可能性もある。

「渡世」それを生業としていることを指す。営業。

「罷越候処」「まかりこしさうらふところ」。

「十一、二歳位に相見え」後にも多出する「相」(あひ)は漢文脈によく現れる用字で、ある動作や状態の場面において、何か対象が存在することを示しており、「互いに」という意味ではなく、訳す必要はない。

補説㊀

 ここでは「相見え」の部分に着目しておこう。この少女は実際には、子供っぽい顔であったのかもしれない。もっと年上の可能性が大きい。それは次の「髮ゆひ候者」という部分が根拠となる。これは当時の髪上げの習慣が十一歳が下限であったからこそ、このように述べていると考えられるからである。すなわち伝吉は専ら少女の髪形に引かれる形で年齢を推定をしているのである。

「居」(をり)これは、当時の湯屋の構造から、湯に膝まで浸かっていたか、板敷きに座っていたかの二様に取れるが、実際には、湯舟は、熱を逃がさないようにするため、上部に最低限の採光と換気のための、ごく小さな窓があるだけで、湯船は殆んど真っ暗で、一緒に入っている人間の顏も判らないほどであったから、後者で取るべきである。

「咄」「はなし」。

「節」(せつ)は「折・時」の意。

「娘かめには、よきものを遣し可申間、残し置候樣」ここは少女の言葉の間接話法。

「遣す」(つかはす)は「やる・与える・贈る」。これは本来、尊敬語である(「遣ふ」未然形+尊敬の助動詞「す」)が、現代語の「あげる」(「やる」の尊敬語)同様に、江戸期には敬語の意味を喪失していた。

「可申間」(まうすべきあひだ)は「~しようとしておりますので」。この助動詞「べし」は予定・予想の用法。

「何の心も不附」(なんのこころもつけず)。「こころつく」は他動詞下二段なので(四段ならば、自動詞)、①「心をとめる・執心する」、②「注意する・警告する」であるが、ここでは②で、「気にかけない」の意味である。そうすると、伝吉が、何故、気にかけなかったのかが、問題となる。これは、彼が、この少女を、自分の知らない、娘「かめ」の知り合いの友達だと早合点したからである。でなければ、不用意に娘を託すはずがないからである。父は大工で、しかもこの子は女の子であるから、「かめ」と遊ぶのは、家内でのことで、実際の「かめ」の親しい遊び仲間などさえも、およそまるで知らなかったに違いない。

「なれなれ敷」(しく)。「敷」は形容詞の活用語尾。よくこのように漢字表記した。文章からは、余り、そのような印象を受けないが、事実は伝吉一家がびっくりするような馴れ馴れしい行動があったか、若しくは、後述の翌日の小娘らしからぬ行動等が、この文書作成時の証言に影響したものかもしれない。

「菓子抔遣し」「抔」は「等」の異体字。ここでは、少女が菓子を与えていることに注意しておきたい。以下、この少女、子供にも関わらず、物持ちで、大人びた余裕もあるのである。

「相尋候得ば」「あひたづねさうらふえれば」。尋ねて見ましたところ。接続助詞「ば」は順接の確定条件なので、とりあえず文法的に正しく、「得」は「うれ」と已然形で読んでおく。但し、実際にはこれは、当時は「さうらえば」と読んでいた。

「右之忍冬湯向米屋」「みぎの、にんとうゆ、むかひ、こめや」。

「夫」「それ」。

「直に」「ただちに」。「ぢきに」と読んでもよい。

「木挽町」(こびきちやう)は現在の銀座四丁目の歌舞伎座がある場所を中心に北東から南西にかけて、当時の三十間川(堀)沿いに南東へ長く存在した。上記の町名も含め、「古地図 with MapFan」で見るのが、実は手っ取り早い。

「裏屋」裏長屋。

「丹後島の帶」「島」は「縞」。丹後国(現在の京都府北部)与謝(よざ)地方から産出した縞の紬(つむぎ)織物。丹後産のものは最高級品である。

「前埀」(まへだれ)はエプロン。

「縮緬」(ちりめん)生地の表面に細かな縮(ちじみ)じわ(=しぼ(皺))のある絹織物。やはり、丹後が随一とされた。

「おこそ頭巾」方形の布に耳掛けの紐輪をつけたずきん。主として冬季、防寒のために着装したもので、上等品は「浜ちりめん」(滋賀県長浜市を中心に生産される高級絹織物の総称。「丹後ちりめん」とともに「ちりめん」の二大産地の一つ)で作ったという。黒縮緬の子供用ともなると、これはどうみても、大変な高級品ということになろう。

「持参」「もちまゐり」。

「遣候趣申候」「つかはしさうらふおもむき、まうしさうらふ」。『「母から、『持って行って差しあげるように、と言われました。』というような内容のことを、この少女が、申しました』。

「自分と」「おのづと」と読みたい。「自分から・勝手に」の意である。

「かん」酒のお燗。

「たべ」これは持参した目刺しの鰯を肴にして、酒を飲んだことを指している。見た目が十一、二歳の少女では、これはやはり、当時としても相当に奇異なものに見えたことであろう。

「有合」「ありあはせし」。あり合わせの物。たまたまあったもの。おかずの余り、ほどの意であろう。

「是は何方」(いづかたにて)「にて何程」(いかほど)「に買ひ候哉」「哉」は「や」で疑問の終助詞。

補説㊁

直接話法の記載が臨場感があってよい。その様子がありありとよく想起出来る。さて、ここで、是非、着目して貰いたいのは「何程に」という表現である。これは「どれくらい」という意味である。単に、この「おこうこ」(漬物)が気に入ったのならば「何方にて」で十分なはずである。伝吉や記載者である名主弥五右衛門が、わざわざ、この部分を直接話法で書いたのは、まさに「何程に」と、少女が言ったことが、いかにも奇異に感じたからに相違あるまい。即ち、この少女は、実は当たり前の「おこうこ」が、いかなる形状をしているかを知らないからこそ、「何方にて」「何程に」という頓珍漢な質問をしたのでないだろうか。「おこうこ」を知らない庶民の子はいない。さて? この子は一体、何者か?

「又候、間も無之」「またぞろ、まもなく、これ」。「之」は少女。「またしても、その日のうちに、間もなく、すぐやってきまして」

「調ひ」「ととのひ」。「準備する・そろえる」。

「自分」先と同じで「おのづと」或いは、これで「おのづから」と読ませているかも知れない。

「一寸」約三センチメートル。「おこうこ」の切り方としては、大変な厚さである。やはり、彼女は「おこうこ」を知らないのだ。

「不作法」「なれなれ敷」に次いで出現する批判的な言辞である。確かに――一日に二度も来訪し、「おこうこ」をどでかく切って、それをバリバリと食べ、酒を飲む、十歳余りの少女――は、これ、強烈である。

「一向」(いつかう)は副詞で、下に打消を伴って「全く(~ない)」の意。

「再応」(さいおう)は「再度・再び」。

「共」(ども)は逆接の接続助詞。よく漢字表記をする。

「忰」伜(せがれ)。

「見届可申」『「見届け申すべし」と申し合はせ』。「見届けるのがよかろうと話し合い。「べし」は適当の用法。

「南橫町」現在の神田岩本町が、嘗ての紺屋町二丁目横町を明治二年に合併していることまでは突き止めた(教案作成当時、「神田ふれあい通り商店会」公式サイト内の「神田の土地、町名の移り変わり 其の三」を参照したが、現在、このページは存在しないようである)が、現行の岩本町では、ロケーションが北に飛び過ぎるから、違う。正式な町名ではなく、一般名詞の「南」にあった狭い「橫町(よこちやう)」を抜けて、の意でとるべきであろうか。或いは南紺屋町が、次注のリンク先の北に道を隔てて接しているから、「南」紺屋町の「橫町」(よこちょう)から「西紺屋町」に抜けたというのを略したものかも知れない。

「西紺屋町」現在の中央区銀座二丁目二番・銀座三丁目二番・銀座四丁目二番にあった町の名。現在の有楽町駅の南東に北東から南西に、山下堀の堀沿いにあったことが、「古地図 with MapFan」で判る。

「河岸」(かし)は河川の舟から、人や荷物を上げ下ろしする場所。但し、「西紺屋町」は山下堀にしか面していないので、川ではない。ただ、北直近(南紺屋町)で京橋川と接続しているから、そこから舟は入ることが出来るので、西紺屋町の堀側には河岸があっても不自然ではない。

「哉(や)」前出の疑問の終助詞。

「近邊とも」「共」で、「右町内」だけでなく、その辺縁の近辺を何カ所も、という意であろう。或いは、「共に」の「に」の脱字で、『「いく」と兼次郎二人一緒に』の意味かもしれない。

「承り合」(うけたまはりあひ)は「謹んで(少女のことについて、二人で)聞き回って」。

「可有之哉」(これあるべきかな)の「哉」は「や」と読んで疑問の終助詞とも取れるが、風聞になっている内容を考えると、詠嘆の終助詞の方が、お上へのインパクトが強くてよいと思う。

「右體」(みぎてい)の「體」は名詞の接尾語的な用法で、「~のようなもの・~風な」。以上のような話が。

「此段申上候以上」「このだん、まうしあげ、さうらふ、いじやう」。地下文書の常套的な擱筆の措辞。

「名主」近世における村の長。「庄屋」「肝煎(きもいり)」等の称があり、一般的には東国では「名主」、西国では「庄屋」が多い。ここで「新肴町名主後見 西紺屋町名主」という名義になっているのは、新肴町名主が若いか、もしくは何らかの理由で不在・職務遂行不能なために、隣町の西紺屋町名主弥五右衛門が代理人となったということであろう。

補説㊂《狐狸妖怪か? はたまた、時空を越えたタイムトラベラーか? 少女の正体は?》

 この少女は何者であったのか?

 人々は狐狸の変化(へんげ)と捉え、その不可解さゆえに役所への上申さえ行っている。しかし、どうであろう、この少女は当時の法どころか、公序良俗に著しく反するような行為は何もしていないのである(敢えて言うなら、伝吉の家での飲酒や無作法・住所詐称していることを挙げることは出来ようが、それによって、誰かが大きな不利益を被っているわけでもない)。上申の意図は、まさに狐狸のような行い(あくまで「ような」である。人々は全部が全部、実際に「狐狸のしわざ」と思い込んでいたのではあるまい。何らかの悪党の大働きのための下調べのような人物(「引き込み」)として、彼女の行動を現実的に捉えてもいたのかも知れない)であるであるから、きっと、今に何かの悪事に繋がるであろうと考えて、何らかの探索や予防策を含めて、怪現象の終息を官憲に望んだのであろう。

 しかし、少なくともそれに繋がる異変は起こらなかったと見てよい。「兎園小説」成立の一八二五年まで、二十一年が経過している。もし、何らかの影響関係のありそうな事件が出来(しゅったい)しておれば、考証オタクの馬琴が黙っているはずがないからである。そんな、この怪しい話を面白くするような珍事件があれば、彼は真っ先に飛びついたはずだからである。

 狐狸妖怪の類いでないとしたら、どのような解釈が可能であるか。そのヒントは、やはり原文の中に見いだし得ると思う。

 補説㊁で述べたように、この少女は極めて一般的な下層庶民伝吉の家にあった粗末な浅漬けの香の物の実物さえ知らないのである。これは庶民ではあり得ないし、当時、差別されていた非差別民であった穢多・非人層等でも、なおのこと、あり得ないことである(因みに、話は外れるが、当時の江戸の穢多・非人層が我々の想像とはかなり違って、相当な生活レベルを維持しており、弾左衛門らを統率者として、ある種の組織的民主的とも言える生活を営んでいたことは是非知っておいて貰いたい)。

 この少女、気前がいい。七歳の「かめ」にお菓子をやるどころか、芝居を見に連れて行くわ(当時、子どもから観劇料を取ったかどうかは分からないが、取ったとすれば、少女が払ったとしか思えない)、その帰りには伯父と称する者の家に行き、目ん玉が飛び出るような高価な品々をプレゼントしているのである。因みに、この「かめ」に、その伯父の「裏屋」なるものが何処であったかを尋ねていないのが、甚だ、悔やまれる。

 そもそも、これは、七歳の「かめ」が語った言葉であり、訳した如く、本当に「裏長屋」であったのかどうかでさえ、私は疑わしいと思っている。しがない大工の七歳の子どもである。武家屋敷に裏から入ったり、武士や豪商の別宅や別荘のひっそりとした場所に連れて行かれても、正確にその場を表現し得たとは思われないのである。

 しかし、豪商の娘ならば、それなりに正体は、ばれよう。隠す意図を、本人が、まずは、持たないと思われるし、町屋ならば、人が聞き回り、噂になれば、自ずと特定されるからである。

 さて、現代からタイムスリップした少女といった超常現象や都市伝説を排除するならば、而して、この少女は、間違いなく、武家の、それも、相当な上流階級の娘なのではあるまいかというのが私の推測である。

 そうなると、これはもう、テレビの時代劇にありそうなエピソードを想起させる。どこぞの、やんちゃで、お転婆なお姫様が、日に日に、お忍びで、町へ出て、遊興する。気弱な家臣達は彼女に振り回され、言われるがままに、プレゼントの品を取り揃えておいたりしては、ご機嫌を取るしか、これ、方法が、ないのである(しかし、そこに遠山の金さんや、水戸黄門が現れて話をもっと面白くするというのは、私の夢想の埒外である)。

 さて、しかし、「そんな話が、これ、本当にあったのか?」って? 私も、勿論、類する実話を聴いたことは、ない。しかし、そんな事実は、どう考えたって、武家の恥であり、記録に残りようがないものであろう。しかし、だからと言って、「なかった」とは断言出来ない。否定するのなら、君は、どんな真相をここに打ち立てるか? 是非、私をうならせてくれる見事な仮説立ててくれ給え!

 言っておくが、もし、これが正式な上申書であったとしたら、「いたずら」なんかでは決してあり得ないということに気づかねばならぬ。そもそも、実在する地名・屋号・人名でなかったら、この話は版行されるはずがないのである。というより、万一、上申書を偽造し、噓の話で世俗を騒がせたとなれば、「兎園会」の全員が芋蔓式にしょっ引かれて、大目玉を喰らうことは明らかである。さればこそ、すぐに分かるようなレベルの嘘を、少なくとも、天下の戯作者馬琴と、その一党が、つくはずもないのである。そんな嘘なら、戯作として、あり得ないことがはっきりと判るように、幾らでも書ける(大名や幕府批判をして手鎖になったり、処刑されたケースもあることはご存知の通りである)。本話に散見される細部に渡るリアリティ、これはまさに――事実としてあった――と、私は確信している。

 ともかく、真相があるにせよ、ないにせよ、この少女、リアルでありながら、同時に極めてファンタジックだ。何より、まずは――必ず――妹のような幼少の子の髪を結い――好きなことをして――好きなことを言って――そして――忽然と――消えてしまう。それでいて――正真正銘――人を傷つけずに――ふっと――消えてしまう……こんな純粋な子って、今時、珍しくはないか? 私はこの少女に是非とも逢って見たい気がずっとしている。そうして……一緒に……ふっと……この少女と一緒に……消えてしまいたいような気も、するのである…………

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