曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 身代觀音
[やぶちゃん注:段落を成形した。発表者は輪池堂。]
○身代觀音
善光寺如來の、百姓幸助が身代にたゝせ給ひし事は、あまねく、しる所なり[やぶちゃん注:「百姓幸助身代り如來の事」。]。
享和年中[やぶちゃん注:文化の前。一八〇一年から一八〇四年まで。]、淺草觀音の影像、身代の事を、きけり。そのさま、幸助が事に、さも、にたり。
ある田舍人【名所はよく糺すべし。】、靈嚴寺の塔頭に逗留して、日每に江戶見物にいでけるが、七月中、淺草觀世音にまうで、還向[やぶちゃん注:「げかう」。神仏に参詣して帰ること。]して、新吉原の燈籠を見、かヘり、二更[やぶちゃん注:亥の刻。午後九時或いは午後十時からの二時間を指す。]過ぐる頃、歸路に趣きし所、土手にて、酒狂人、有り。白刃を振り、群集の人々、あわて、さわぎけるに、かの田舍人、あやまちて、刃にあたり、たふれふしたり。
かたへの人は、まさしく、
「殺害。」
と見たり。當人も、
『きられたり。』
と覺えつゝ、倒れて、氣絕しけり。
そのひまに、酒狂人は、行方しれず、人々、寄りて、是を見るに、刄傷の樣子にも、なし。
「いづ方の人にか。息たえたれば、尋ねとはんやうもなく、とやせん、かくや。」
と、いひあへる折から、一人がいふ、
「この者、晝のほど、觀音境内の何屋といふ茶店にて、見しものなり。」
と、いひければ、
「いでや。」
とて、駕籠にのせて、其家に、つれ行き、
「いづ方の人にか。」
と問ひけるに、茶店のあるじも、
「あからさまに立ちよりし人なれば、住所もしらず。」
といふ。
「こは、いかゞせん。」
と、當惑しける折から、ふと、いき出でたり。
よつて、其住所をたづねければ、
「そこそこ。」
と、こたふ。すなはち、深川の旅宿に、つれ行きたり。
宿坊にては、深更に及びてもかへらねば、
「いづこにか、やどりつらん。」
とて、戶かぎをしめて、ねたり。さるに、曉に及びて、音づるゝにより、さしつる戶をあけて、
「たぞ。」
とゝへば、
「某[やぶちゃん注:「なにがし」。]、歸りたり。」
と云ふ。
「いかにして、おそかりし。」
と、いへば、
「しかじか。」
と答ふ。
「『まさしく切られたり』とおもひしかども、身の内に、きず付きし痕も、なし。」
「さらば、尊き守りにても、かけたりや。」[やぶちゃん注:「守り」は「お守り」のこと。]
とゝへば、
「さる物もゝたず。懷中に有る者とては、淺草觀世音の御影のみなり。」
とて、取り出でゝ、ひらき見れば、不思議なるかな、紙にすりし御影、きれて、有り。
「さては。我が身がはりにたゝせ給ひしならん。」
とて、渴仰の淚、おきあへず、頓て[やぶちゃん注:「やがて」。]、上のくだり、ゑがゝせ、ゆゑよしを、しるして、觀音堂の内に揭げて有りしを、享和年中、檜山坦齋、まのあたり見たりといへり。「今はなし」とぞ。
[やぶちゃん注:「檜山坦齋」(ひやま たんさい 安永三(一七七四)年~天保一三(一八四二)年)は国学者。名は義愼(よしちか)。書画の知識が深く、鑑定に優れ、裏千家の千柄菊旦(ちがら きくたん)に学んで、茶人としても知られた。渡辺崋山とも親しかった。]