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2021/08/10

芥川龍之介書簡抄115 / 大正一二(一九二三)年(一) 四通

芥川龍之介書簡抄115 / 大正一二(一九二三)年(一) 通

大正一二(一九二三)年一月六日・消印七日・田端発信・神田區お茶の水順天堂病院五十五號室 小穴隆一樣・六日 市外田端四三五 芥川龍之介 渡邊庫輔

 

その後經過よろしきよし重疊に存候僕齒はいたし風をひきて熱はあり、又又心よわり居り今夜庫輔伽をしてくれ候ままやや氣がろ[やぶちゃん注:ママ。]になり候

   山々を枕にしきぬみの蒲團

あとは庫輔こと双車樓先生にゆづり候

               我   鬼

[やぶちゃん注:以下、渡邊庫輔氏の書信部分は底本ではポイント落ちだが、同ポイントで示した。渡邊氏の文章はパブリック・ドメインである。]

あれから停車場へ行き人力車で田端へかへり申候車上太だ寒く手足もしびれ申候我鬼先生と句を鬪はすれど勝たず四戰四敗大童に相成候拙句一二お目にかけ申侯

 ○ありあけの布團はまろき旅ね哉

 ○月の宵水ふき上げよ花あやめ

 ○身ごころも切なき旅の芒かな

近日中に又出かけ可申候おからだ御大切になさるべく祈願仕候

               庫   輔

ゆうべ大彥まゐり君の事を話したところ大彥の出入の紺屋やはり足を切り候へども今は行步自在にて電車の飛乘りや二階を走り下りる早さ、とても大彥は及ばぬよしに候さうならねば駄目故せいぜい足の御敎育をなさる可く候又春服は僕の怠惰と本屋の春休みの爲まだ裝幀の仕事にかゝらぬのに候そんな事御心配なく御養生專一になさる可く候 頓首

    春王正月陸日     芥川龍之介

   小穴隆一樣侍史

[やぶちゃん注:この年の元旦、菊池寛が『文藝春秋』を創刊、その巻頭には盟友芥川龍之介が「侏儒の言葉」を寄せ、これ以降、大正一四(一九二五)年十一月発行の同誌まで三十回、ほぼ毎号の巻頭に配され続けた(大正十二年九月号・十月号(記載はないが、関東大震災による欠号か)と大正十四年十月号には不載で(但し、同号には「侏儒の言葉――病牀雜記――」を掲載している。リンク先は私の「侏儒の言葉(やぶちゃん合成完全版)」とは別立ての電子テクスト)、大正十三年五月号は休刊)。なお、私は別にブログ・カテゴリ「芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)」を完遂しており、その記念すべき第一回のそれは「星」で、こちらである。なお、この年で芥川龍之介は満三十一であった。

 小穴隆一は既に述べた通り、この二日前の一月四日に脱疽の再手術を受け、右足首を切断した。この時も前回(前年十二月十八日)同様、芥川龍之介が立ち会っている。以後、小穴は義足を附けることとなった。

「大彥」「だいひこ」と読む。筑摩全集類聚版の別な書簡の脚注によれば、『日本橋の』老舗の『呉服屋』で、主人は『野口切造で若主人である』とし、さらに『その弟真造は芥川と小学校以来の親友』であるとある。「東京国立博物館」公式サイト内の『呉服商「大彦」の小袖コレクション』に、『「大彦(だいひこ)」は、大黒屋・野口彦兵衛(のぐちひこべえ』弘化5・嘉永元(1848)年~大正一四(一九二五)年)が明治八(一八七五)年、東京日本橋橘町に創業した呉服商』とあり、先代の当主であった彼は、『ただ小袖を蒐集したのみにとどま』らず、』『現代のファッション雑誌ともいうべき江戸時代の「小袖模様雛形本(こそでもようひながたぼん)」や蒐集した江戸時代の小袖を元に、その模様の時代様式や染織技法に関する分類を試みていたことが、コレクションに付属する自筆の紙札から』窺え、『野口による小袖模様の研究は、明治期から大正期の呉服業界で取り上げられてきた「加賀染」「御殿模様」「御所模様」「御祝儀模様」といったデザイン様式をベースにした、独自のもので』あったと評価し、彼は『学者というよりも』、寧ろ、『呉服商として、江戸時代の小袖研究に独自の考証を試みた』人物であったとする。

「春服」既出既注であるが、再掲すると、芥川龍之介の第六作品集。この大正一二(一九二三)年五月十八日になってやっと春陽堂から刊行された。小穴隆一の装幀である。

「春王正月」筑摩全集類聚版脚注に、『春正月というのに同じ。王の字は王者の天下の意をあらわす』とある。]

 

 

大正一二(一九二三)年一月二十二日・田端発信・松岡讓宛(写し)

 

冠省 手紙ありがたう年賀狀は出したのだよ 君の家の不幸には驚いた 僕もこの春は病院と警視廰と監獄との間を往來して暮した娑婆界にあり經るのは樂ぢやないネいつか遊びに來ないか 頓首

    正月廿二日      芥川龍之介

   松 岡 讓 樣 侍史

 

[やぶちゃん注:「君の家の不幸」不詳。但し、ウィキの「松岡譲」を見ると、「家族・近親者」の項に不審がある。まず、『長男は酒乱であったためか』、『情報が隠されている』とあり、また、長女の明子は大正八(一九一九)年生まれとしながら、没年が不明である。年齢的に後者の長女に関係があるのかも知れない。

「この春は病院と警視廰と監獄との間を往來して暮した」「病院」は既に述べた前年末からこの年初にかけての小穴の二度の足切断手術の立ち合い人と見舞いを指すが、「警視廰と監獄」というのは、実姉が再婚していた相手の弁護士で義兄となる西川豊(明治二八(一八九五)年生まれ:芥川龍之介より三つ年下)が偽証教唆罪で逮捕され、市ケ谷刑務所に収監されていた事件の対応・面会のためである。芥川龍之介「冬と手紙と」(昭和二(一九二七)年七月發行の『中央公論』に掲載。リンク先は私の電子化)の「一 冬」に刑務所での面会の様子が描かれている。因みに、この西川豊は龍之介が自死した昭和二(一九二七)年の年初の一月四日に西川の家が焼けたが、直前に多額の火災保険がかけられていたことから、西川自身に放火の嫌疑がかかって、取り調べられたが、その二日後の二月六日に西川豊は千葉県山部郡土気(とけ)トンネル付近で鉄道自殺を遂げている。遺書には自らの潔白を示すための自殺と記されてあったが、死後に高利の借金があることも判明し、芥川龍之介は当該事件疑惑・火災保険・生命保険などの事後処理に東奔西走せねばならなくなり、甚だしく精神をすり減らすこととなった。龍之介の自死の一因に数えてよい出来事である。

 なお、新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、この二月二十一日の条には、『渡辺庫輔、秀しげ子が来訪し、皆で午後』十『時頃まで談笑する』とある。秀しげ子はあくまで芥川龍之介から離れなかったのであることが、この記載で窺われよう。]

 

 

大正一二(一九二三)年三月五日・田端発信・杉浦翠子宛

 

ツイデ持チ話シ置キタレバ玉稿ハ波多野秋子ニ送リタブベシ

キミモ亦婦人公論ノ女記者波多野秋子ヲ知リタマフラン

アガ歌ヲヨシト見ルキミハ口ヒビクカミラモハシト食(ヲ)ハセザラメヤ

               澄江堂主人

 杉浦翠子樣粧次

二伸

 コノ次ニミ文タブペクハ三錢ノ切手ヲ中ニ入レタマヒソネ

               我   鬼

 杉 浦 樣

 

[やぶちゃん注:「杉浦翠子」(すいこ 明治一八(一八八五)年~昭和三五(一九六〇)年:芥川龍之介より七つ年上)は歌人。埼玉県川越生まれ。旧姓は岩崎翠。日本のグラフィックデザインの礎を築いた多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)の初代学長となった杉浦非水の妻。参考にした当該ウィキによれば、結婚後、『翠子は北原白秋に入門、大正五(一九一六)年には』、『アララギ』に『入会、さらに斎藤茂吉に師事する。新進デザイナーと新鋭歌人という経済的に恵まれた夫婦は「モボ・モガ」としてマスコミで持て囃され時代の寵児となった。翠子は情熱的な作品を発表し続けた』が、『激情的な翠子はアララギの編集兼発行人・島木赤彦らに疎まれ、翠子は』、大正一二(一九二三)年に、『アララギを退会、社会性・批判精神を欠如したアララギの短歌を批判した』(まさにこの書簡の年であり、内容もそうした匂いが漂っているように思われる)。後の昭和八(一九三三)年には、歌誌『短歌至上主義』を『創刊(装幀は非水)、主宰者として主知的短歌を唱える歌風に転じた』とある。

「波多野秋子」(明治二七(一八九四)年~大正一二(一九二三)年六月九日)は中央公論社の『婦人公論』の記者で、有島武郎(妻安子は肺結核のために大正五(一九一六)年に没していた)の愛人(秋子は人妻)で、この四か月後に決行された心中の相手であった。軽井沢の別荘で縊死を遂げたが、七月七日に別荘の管理人によって発見されたが、梅雨の時期、一ヶ月の経過から、遺体は激しく腐乱が進んでおり、遺書の存在によって本人らであることが確認されたとされる。発見の翌日、その事実を知った芥川龍之介は「大いに憂鬱」となったと、宮坂年譜にある。

「口ヒビクカミラ」筑摩全集類聚版脚注に、『口が刺激されてひりひり痛む』ところの、『韮(ニラ)』とある。

「ハシト食(ヲ)ハセザラメヤ」筑摩全集類聚版脚注に、『おいしいといつて食べはしないだろうか。(反語)』とある。]

 

大正一二(一九二三)年四月十四日・湯河原発信・南部修太郞宛(絵葉書)

とつ國に「四月の莫迦」と云ふならひありてふことを君は知らずや

かぎろひの春の四月のついたちにわが書きし文まことと思ひそ

谷川に佐佐木も落ちず我も亦佐佐木を負ひてかへりしことなし

 十四日           龍 之 介

 

[やぶちゃん注:この書簡は、先立つこの四月一日、エイプリル・フールとして、「佐佐木茂索が怪我をした」という嘘の手紙を南部に書き送って、南部がそれを真に受けて、見舞いの手紙を送ってきたことから、エイプリル・フールの嘘であることを短歌形式で認めた書簡。龍之介の過ぎた茶目っ気が窺われる。

 なお、宮坂年譜では、この翌五月十一日の条にも、『秀しげ子が来訪する。夜、下島勲も加わり、皆で談笑する』とある。

 また、六月八日、夜になって、次男多加志(丁度、生後五ヶ月後)が消化不良を起こし、下島が往診、翌九日になっても病状が良くならず、下島はこの日、三度も往診した。十日の午前、多加志を宇津野病院に入院させ、日曜で龍之介の定めた面会日であったため、室生・成瀬・渡邊の他、四、五人の面会者と応対し、午後九時頃に、多加志の見舞いに行っている。「澄江堂日錄 芥川龍之介 附やぶちゃんマニアック注」によれば、その翌十一日の条に、

   *

 早朝、多加志の容體稍よろしとの電話あり。薄暮、病院に至る。又一游亭を訪ふ。座に古原草君あり、話熟、深更に及ぶ。再び病院に至れば門既に閉ぢたり。唯多加志の病室の燈火を見しのみ。

   *

とある。多加志はこの六月中旬に退院出来た。芥川龍之介は、この多加志の病気騒ぎの顚末を「子供の病氣――一游亭に――」として一気に書き上げ、七月三日に脱稿、大正一二(一九二三)年八月発行の『局外』に載せた。同作は私の詳細注附きのサイト・テクストを読まれたい。]

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