曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 好問質疑 好問堂
曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 好問質疑
○好問質疑
宋之愚人得二燕石一藏ㇾ之以爲ㇾ寶。周客聞而往觀掩ㇾ口、笑曰。此燕石也。主人大怒藏ㇾ之愈固。[やぶちゃん注:訓読してみる。『宋の愚人、燕石を得て、之れを藏して、以つて、寶と爲す。周の客、聞きて、往き、觀るに、口を掩ひて笑ひて曰はく、「此れ、燕石なり。」と。主人、大きに怒りて、之れを藏すること、愈(いよい)よ、固し。』か。]
美成、かつて、此故事の來處を搜索するに、「淵鑑類凾」に、「荀子」を引き、「佩文齋韻府」に、「韓非子」を引けり。故に、本書につきて檢するに、二書、ともに、載せず。また、「瑯琊代醉篇」に、「鬫子」といへるものを引きて、證とすれども、「鬫子」といふ書名、他書にも引用のものありやしらねど、「四庫全書總目」、又、古今の叢書に、名目だに見えざれば、其書いづれの世、誰の撰といふこと、さだかならず。また、此故事をのせて、「湘中記」、「書言故事」を引くといへども、古書にあらざれば、證とするに足らず。こゝに於いておもふに、隋珠和璧の如きは、古書に多く見えたり。此故事、古書に見えざれば、疑らくは、後世、類書、ひとたび、謬りて、しるしゝより、遂にその謬を襲ひ[やぶちゃん注:「ならひ」。「倣ひ」に同じ。]來りて、世人も亦、みだりに、その書名によると、のみ、おもひたれど、「文心雕龍」を閱するに、『魏氏以二夜光一爲二怪石一。宋客以二燕礫一爲二寶珠一。』[やぶちゃん注:「魏氏、夜光を以つて怪石と爲す。宗客、燕礫(えんれき)を以つて寶珠と爲す。」であろうが、後者は「鬫子」の誤読である。]の二事を引きてもて喩とす。此書は梁の劉勰[やぶちゃん注:「りゆうけふ(りゅうきょう)」。]が撰する所なれば、その來れるも、亦、ふるしと云ふべし。魏氏が故事は、「尹文子」にいでたり。されば、此故事も、梁よりあがれる世のものに載せたる事は、疑ふべからず。いまだ、何れの書に出づといふ事を、しらず。正月十四日。此「兎園會」をひらきし日、海棠庵にて、曲亭子、ものがたらふ事の次に、此故事をあげていへらく、「足下、燕石雜志の撰あり。おもふに、その來處を詳にし給ふべし。願くば、示し給へ。」といひしが、後廿一日、書牘の返しに、「山海經」を鈔出して贈らる【解、追て按ずるに、燕石の故事は、「後漢書」「應劯傳」[やぶちゃん注:「わうしよでん」。]に出でたり。「正字通」、「胡」字注にも、「應劯傳」を引きたるなり。多貪の學生、あまりに深く求めて、「後漢書」を忘れしは、いかにぞや。】[やぶちゃん注:頭書。]。實に、忠告の志、いと、うれしうなん。されど、宋人の寶とする故事には、あらず。おのれ、委しくも、物がたらず、勞し奉るの本意なさに、今、おもふよしを、右にしるし侍る。
[やぶちゃん注:冒頭のそれは、完全な一致を見るわけではないが、美成の言っているように「鬫子」(けんし)という書物に載るようである。その書誌は判らないが、宗の李昉(りごう)らによって編纂された類書(百科事典)「太平御覧」の「地部」に、
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「闕子」曰、「宋之愚人、得燕石於梧臺之東歸西、藏之以爲大寶。周客、聞而觀焉。主人端冕玄服、以發寳華匱十重縱巾十襲。客見之盧胡而笑曰、『此燕石也。與瓦甓不異。』。主人大怒、藏之愈心。」。
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とあるから、宋よりも前代にあった書であることは確かである。「中國哲學書電子化計劃」こちらの影印本画像の三行目から視認して活字に起こした(リンク先の右にあるのは機械判読したもので、誤りが多い)。小学館「日本国語大辞典」の「燕石(えんせき)」について、『燕山から出る、玉(ぎょく)に似て玉でない石。まがいもの』とし、転じて、『宋の愚人が燕石をたいせつにしたという』、この「太平御覧」の「鬫子」の故事から、『価値のない物を宝として誇ること。小才の者が慢心するたとえ』とし、さらに、『燕石を裹(つつ)み玄圃(げんぽ)を履(ふ)み魚目(ぎょもく)をおびて漲海(ちょうかい)に遊(あそ)ぶ』という故事成語を示し、上に示した「闕子」の抄録をした後、『「玄圃」は崑崙』『山上にあるという仙人の居所。「漲海」は南海のこと。すなわち』、『宝石や真珠の本場』で、何の価値もない『燕石や魚の目を宝と思いこんで、本物の宝石や珠玉が多い所へ持っていって自慢すること』で、転じて『自慢してかえって恥をかくことのたとえ』とある。
「淵鑑類凾」清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書。一七一〇年成立。
「佩文齋韻府」「佩文韻府」(はいぶんいんぷ)。清の蔡升元らが康熙帝の勅を奉じて編纂した韻書。百六巻。補遺である汪灝ら撰の「韻府拾遺」百六巻と合わせて用いられる。前者が一七一一年、後者が一七二〇年に成立した。「佩文」は康熙帝の書斎名(当該ウィキに拠った)。
「瑯琊代醉篇」「琅琊代醉篇」が正しい。明の張鼎思(ていし)が、さまざまな漢籍から文章を集めて編纂した類書。一五九七年序。全四十巻。延宝三(一六七五)年に和刻され、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」(文化一一(一八一四)年初編刊)を始め、複数の浮世草子等が素材として利用している。
「古書にあらざれば、證とするに足らず」などと美成はブイブイ言っているのだが、調べてみたところ、二宮俊博氏の論文「津坂東陽『社律詳解』訳注稿(十五)」(PDFでダウン・ロード可能)の中で、この故事について、注の中で『『文選』巻二十一、三国魏・応璩「百一詩」の李善注』『に引く』とある。李善(?~ 六九〇年)は初唐の学者であり、彼のそれは立派な古書である(大学一年の時、一年間、つき合わされた)。しかも、類似した誤読として示されているとしか思われない「文心雕龍」(後注参照)は、それよりもさらに前である。思うに、初めから美成は古い故事だと知っていたのであろう。実は写本・伝聞による後世の誤謬を論(あげつら)わんがための「ためにする」謂いであったように思われてならない。非常に厭な感じだ。【二〇二一年八月十五日改稿】後注で改稿した御指摘とともに、T氏から、『好問質疑の最初の条は「宋之愚人得二燕石一藏ㇾ之以爲ㇾ寶」の考証を書いているが、正月十四日以下は前段を書いた経緯を説明している。『足下、「燕石雜志」の撰あり。おもふに、その來處を詳にし給ふべし。願くば、示し給へ』に対して、「山海經」を回答してきたが、今回の好問堂の「前半部分程度は回答してもいいだろう」とのディスリである。応じた馬琴の頭書は、集めた会合の各位の本文または写しに、著作堂が好問堂の底意を察知し、『「後漢書」を出せばいいのに、出さないは手抜かり』と応じた、嫌味である。これは、翌月の「耽奇会」で始まる「けんどん争い」の前哨戦で、上方落語で云う「牛のおいど」[やぶちゃん注:牛の鳴き声「モウ」の「おいど」=「尻」で、「もうのしり」→「物知り」。]を誇る著作堂に対する、若い好問堂の「牛のおいど」競争である。この「好問質疑」の前半は、著作堂に対するもので、他の会合参加者には無縁なのである』と頂戴した。ここで既に山崎好問堂美成と瀧澤著作堂解(馬琴)の、「兎園會」会員そっちのけの論戦が開始されていたというわけなのであった。大いに納得。
「隋珠和璧」(ずいしゆくわへき(ずいしゅかへき))は「この世の中に二つとない宝玉」で「貴重な宝物」の意。春秋時代の隋侯に助けられた大蛇がお礼として持ってきた珠(たま)と、楚の卞和(べんか)が山で見つけた原石から作った璧(へき:宝玉)のこと。「随珠」とも書く。出典は「淮南子」の「覧冥」。
「文心雕龍」(ぶんしんてうりよう(ぶんしんちょうりょう))は詩文評書。六朝の梁(五〇二年~五五七年)の劉勰(りゅうきょう)の撰で、中国における最初の体系的文章論とされる。前半は当時の文学各ジャンルの性格と発展を跡づけた各論で、後半は創造・鑑賞・修辞・批評などの論述から成る。冒頭に原理論、巻末に著作意図を示す序文をもつ。空海の「文鏡秘府論」に影響を与えたとされる。
「尹文子」(いんぶんし)は戦国時代の斉の学者尹文 (紀元前四世紀) の著と伝えられる思想書。人君は名分を正し、外物に煩わされず、戦争反対と寡欲とを旨とし、衆人の意見をいれるべきであると説く。道家・墨家・名家の思想が混在するが、現存本は後世の偽作と推定されている(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。
「燕石雜志」【二〇二一年八月十五日改稿】不詳としていたが、単に私の本文の表記の誤りで、いつも情報を戴くT氏より御指摘を戴いた。当該ウィキによれば、『滝沢解』(とく:曲亭馬琴の本名。『馬琴は複数の筆名を用途に応じて厳格に使い分けており、一般に知られる「曲亭馬琴」は戯作に用いた戯号で』、『本書は、本名である滝沢解(瑣吉)の名義で出版している』)『が著した随筆』。文化八(一八一一)年刊。全五巻六冊『古今の多岐にわたる事物を、和漢の書籍によって考証した作品で』、『「日の神」「鬼神余論」「古歌の訛」「俗呪方」など』五十九『編』『の考証を収める。とくに日本の伝承(桃太郎、舌切雀、猿蟹合戦など)や古風俗について、精緻な考証に基づいた馬琴独自の見解が示されている』とある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで原本を総て見ることが出来る。というか、私は吉川弘文館随筆大成版で本書を持っていた。而してその「序」を読むに、馬琴はこの書名の「燕石」を、ここで美成が問題にしている故事成句に引っ掛けて名づけているらしいことが判る。さればこそ、美成は「当然、ちゃんとすっきり判るように出典を御指摘して下さるものと思うておりましたが……ちょっと期待外れでした」と慇懃無礼に応じているわけであることも知れた。T氏に感謝申し上げる。
「書牘」(しよとく(しょとく))の「牘」は文字を記す木札で、転じて「手紙」の意。書簡・書状。
「山海經」(せんがいきやう(せんがいきょう))は中国古代の幻想地理書。戦国時代から秦・漢(紀元前四世紀~ 紀元後三世紀頃)にかけて、徐々に付加・執筆されて成立したものと考えられている現存最古の地理書とされる。巻三に、
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北百二十里、曰燕山。多嬰石【言石、似玉有符彩嬰帶、所謂燕石者。】燕水出焉、東流、注于河。
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とあるのを指す。
「後漢書」「應劯傳」「楊李翟應霍爰徐列傳」(名は「ようりたくおうかくえんじょ」(現代仮名遣)か)であろう。「中國哲學書電子化計劃」で検索すると、「宋愚夫亦寶燕石」が見出せる。]
徹書記のころは、こと外、亂世なりしに、たはふれ歌をよみ給ひしより、さすらひ給ふとなり。その歌に、
なかなかに見ぬもろこしの鳥はいでじ桐の葉落せ秋の夜の月
此うたの心は、いまの世の政事、あしきにより、世がみだれし、禁裡にうゑ置く桐は、鳳凰の來儀をまたん爲なるに、このやうなるまつりごとにては、鳳凰の來るねんは、なし。桐の葉を打ちおとして、秋のよの月をさはりなくながめたるが、よし。「見ぬもろこしの鳥」は鳳凰なり。此歌の底意は、君を、そしれる歌なるにより、さそらひし、となり。去る程に、書記の謫處へ、歌友達、見まひけるに、七月十四日の歌、とて、かたり給ひしうた、
なかなかになきたまならばふる鄕にかへらんものをけふの夕くれ
この歌の心は、命あるが、つれなし。死にたらば、しやうりやうになりて、この夕には、かへるべきものを、と、ふる里を戀ひしく思ひつる心ざし、いと、あはれ、ふかし。扨、この歌、禁裏へきこえしかば、あはれに思しめして、めしかへされけり、となり。
[やぶちゃん注:以下、「いへるにあはず。」まで、底本では全体が一字下げ。]
美成、按ずるに、この故事、人、常にいひ傳へ、「日本古今人物史」にも、「徹書記傳」に、『曾以二一首諷詠一、而左二遷洛外山科之地一。又因二一首之愁吟一、而逢二歸洛之喜一。』[やぶちゃん注:「曾つて一首の諷詠を以つて、而して洛外山科の地に左遷せり。又、一首の愁吟に因りて、而して歸洛の喜びに逢ふ。」か。]と、いへるも、この「なかなか」の歌を、さして、いヘるなり。又「和歌詞德抄」にも見えたり。「草根集」には、此歌、見えず。出處を考ふるに、「百物語」・「月苅藻集」などに載せたれど、この書の時代をおもふに、「百物語」に、烟草の禁ぜられしを、このころのやうに書きたれば、元和の撰といふべし。「月苅藻集」のはじめに、『于時寶永庚寅春書之。佚本寬永午春。』とあり、と、しるしたれば、寬永の比の記と、おもはれたり。再び、おもふに、「百物語」は、やゝふるし、と、いへども、俗書なり。「月苅藻集」は、世人、曾て、しるべきものに、あらず。いづれも、來處は定めがたし。又、「膽(ニギハヒ)草」に、この事を載せて、〽四の海をさまりがたきしるしにや雲の上までのぼる白波 招月内裏へ盜人の入りたる時、よめり。この類にて、左遷せらる。〽なかなかになき身なりせばふるさとへかへらんものをけふの夕ぐれ 流罪の内に、盂蘭盆によめり。叡聞ありて、あはれに思し召し、召し歸さるとわるは[やぶちゃん注:ママ。「あるは」の誤記であろう。]、異なる傳にて、初め、罪を得し歌、かはり、次の「なかなかに」の歌も異同あり。此書をあらはしたる佐野紹益は、本阿彌光悅が聟にて、縉紳家へまゐりしものなれば、傳へ來れるものありしや。これにては世にいへる「なかなか」の歌にて、罪を得、「なかなか」の歌にて、召しかへさる、といへるに、あはず。
[やぶちゃん注:「徹書記」室町中期の臨済宗の歌僧正徹(しょうてつ 永徳元(一三八一)年~長禄三(一四五九)年)のこと。備中(現在の岡山県)生まれ。俗名は正清。石清水八幡宮に仕えた祀官一族の出身。正徹は法号。京の東福寺栗棘庵(りっきょくあん)に入り、書記となったことから、徹書記とも称する。幼時より和歌を能くし、冷泉為秀に師事した。草庵の火災により、詠草二万数千首を焼失したが、歌集「草根集」に、なお、多くの歌を残している。著書に「なぐさめ草」「徹書記物語」などがある。
「なかなかに見ぬもろこしの鳥はいでじ桐の葉落せ秋の夜の月」不詳。
「なかなかになきたまならばふる鄕にかへらんものをけふの夕くれ」和泉屋楓氏のサイト「絵双紙屋」の「吾妻曲狂歌文庫」の翻刻の中の本歌に、『正徹 翁草』として、
なかなかになき魂ならばふる鄕に歸らんものをけふの夕暮れ
と載る。この一首は、いい。
「百物語」不詳。
「月苅藻集」(つきのかるもしふ)は江戸前期に成立した説話集。編者未詳。
「膽(ニギハヒ)草」江戸初期の豪商佐野紹益(じょうえき 慶長一二(一六〇七)年~元禄四(一六九一)年)著になる随筆。彼は灰屋紹益とも称し、京の上流層の町衆の代表的人物であった。名は重孝、通称は三郎兵衛、紹益は号。父は佐野紹由、一説に本阿弥光益とも。南北朝以来、藍染の触媒に用いる灰を扱う紺灰屋を家業とし、紺灰問屋を支配したことから、家号を灰屋という。但し、既に父紹由のころから、家業はやめており、家号だけが存していたともされる。和歌・俳諧を烏丸光広・松永貞徳に、蹴鞠を飛鳥井雅章に,書を本阿弥光悦に、茶の湯を千道安に学ぶなど、あらゆる芸能に精通し、光悦を中心とする文化人グループに加わり、後水尾上皇を始め、公卿・大名・武士・美術家・茶人・僧侶など、その交際範囲は極めて広かった(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。寛永八(一六三一)年に、六条柳町の遊里の名妓吉野太夫を公卿近衛信尋(のぶひろ)と争って身請けし、妻とした話は有名。
「招月」旧暦月の異名と思っていたが、不詳。
「本阿彌光悅が聟」不審。灰屋紹益は本阿弥光悦の甥光益の子ともされるから、「甥」を聞き間違えたものか? だとしたら、それこそ、美成よ、あんたが言ってるそばから、口の干ぬ間だぜ?
「縉紳家」「笏」(しゃく)を「紳」(おおおび:大帯)に搢(さしはさ)むの意から、「官位が高く身分のある人」を指す。]
附けて云、來處、誤まれるもの、世に多かり。鳥鵲橋の事、「淮南子」に出づ、とし、池魚の災といふ事、「風俗通」にあり、と記したれど、いづれも本書には見えず。又、世にあまねく用ひ來りて、本據なき文字あり。佛典每に「紫雲」の字、見ゆれど、大藏五千卷、如來金口の說、甞[やぶちゃん注:「かつて」。]いはざる所、大人、常に「紅楓」の字をつかふといへど、本唐三百年、名家詩聖の集、此字、あること、なし【解、追記。近世の詩に、「紅楓」の字をつかふは、近世の歌に、「もみぢ」を「紅葉」とかくに倣ひしなり。然れども「萬葉集」には、「紅葉」と書きたるもの、なく、ふるくは「黃葉」と書けり。】[やぶちゃん注:頭書。]。おもふに初學、前人の誤を襲ひ、是等の事、ゆるかせにすべからず。古人の文をかける、一字といへども、來處なきもの、あらず。『讀書看二確萬卷一。下ㇾ筆如ㇾ有ㇾ神。』[やぶちゃん注:「讀書せば、確かに萬卷を看る。筆を下さば、筆、神の有るがごとし。」か。]。けだし、虛語に、あらず。予、生來、問ふ事を好むによりて、「好問」をもて、堂に扁す。しかれども、あへて大舜の德を慕ふには、あらねど、切に問ひ、近く思ふは、學者の急にする所ならずや。故に一疑を得るごとに、これを人に質し、其得るにあたりては、手の舞、あしの踏を、しらず。猶、その本據を得ざるもの、大約、一百條、題して「好問質疑」とす。明の陸儼山が「傳疑錄」、吾邦の貝原益軒の「大疑錄」に似るべうもあらねど、しるして、博洽の君子に問はんとす。しかれども、いまだ、稿を脫することを得ず。今、こゝに、その一隅をあぐるのみ。
文政八年乙酉春二月八日 山崎美成識于好問堂北窓之下
[やぶちゃん注:「鳥鵲橋」「うじやくけう/うじやくのはし」言わずもがな、陰暦七月七日の夕、牽牛星と織女星が会うとき、カササギが翼を広げて天の川に渡すとされる橋。「烏」? 当然ですよ! 鵲(かささぎ)はスズメ目カラス科カササギ属カササギ亜種カササギ Pica pica sericea ですから! 博物誌は「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵲(かささぎ)」を参照されたい。「淮南子」には載らないと美成は言っているが、現行、多くの記載が「淮南子」にあるとし、「烏鵲、河を塡(うづ)めて橋を成し、織女を渡らしむ」とあるとする。ある記載では、『「淮南子」佚文には』とするので、古原形にはあったのかも知れない。
「池魚の災」「池魚(ちぎよ)の殃(わざはひ)」。災難の巻き添えをくうこと。特に類焼に遇うことを指す。池の中に落ちた珠(たま)を取るために宋王が池の水を搔き出させたところが、珠は見あたらず、池の魚はみな、死んでしまったという「呂氏春秋」の「孝行覧」の故事から。また、楚の国で城門の火事が起こった際、火を消そうとして、池の水を用いたために、魚が全部死んだ、という故事によるともされる。
「大舜」中国の理想の聖王舜のこと。
「手の舞、あしの踏を、しらず」歓喜雀躍、鼓腹撃壌するということ。
「陸儼山」(りくげんざん)は明の学者(祭酒)陸深(一四七七年~一五四四年)。科挙を優秀な成績で通過し、弘治年間(一四八八年~一五〇五年)に官に就き、要職を歴任した。文に優れ、収蔵にも富んだが、書を最も得意とした。強い筆力と緊張感のある書を残し、知られた諸家からも高い評価を受けるほどの書名を誇ったが、現存する作品は少ない。
「傳疑錄」現物の影印を中国サイトで見たが、何が書いてあるのか、さっぱり分からない。話の展開からは、諸疑問・不審点を掲げて、考証する内容なんだろう。
『貝原益軒の「大疑錄」』貝原益軒が最晩年に纏めた朱子学批判の書。正徳三(一七一三)年に成立した。青年期に朱子・陽明兼学を志した益軒は、福岡藩主黒田光之に仕え、約十年間、京都へ遊学させられた。在京中の三十六歳の時、明の陳清瀾の陽明学批判書である「學蔀通辨」(がくほうつうべん)を読み、朱子学一途に進む決意を表明した。しかし、その後、伊藤仁斎との出会いや、益軒自身の博物学的研究を介して、朱子学の持つ観念性への疑問を募らせ、明の修正朱子学派であった罹整庵の「困知記」、呉蘇原の「吉斎漫録」などによって、それを確かめ、本書を書き上げるに至った。益軒は「理気合一論」、さらに「気一元論」をとり、古学派に近い立場であった。本書は彼の没後、半世紀を経た明和四(一七六七)年、徂徠派によって出版されている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「博洽」(はくかふ(はっこう))は「遍く行き渡ること・広く種々の学問に通じていること・博学・博識」の意。]
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