芥川龍之介書簡抄109 / 大正一〇(一九二一)年(四) 五通
大正一〇(一九二一)年十月三十一日・田端発信(推定)・空谷先生 侍史・十月卅一日 芥川龍之介
先程は結構な柿を澤山ありがたうございました
君がたぶ十あまり五つの甘し柿あな尊とぞこやりつゝ見る
君がたぶ十あまりの柿赤ければ赤きをめでき食(を)しがてぬかも
この柿のなり居るところ山川の水を淸しと人住むらんか
君がたぶ柿のこゝだく枕べに赤きを見ればものも思はず
柿の實を畫に描くべくは黃と赤と墨とを融きて描くべかりけり
そがひなるあるはもろむく柿の實のみながら赤く照りにけるかも
ひとり見ても嬉しき柿の甘柿のこゝだ赤きを母と二人見つ
柿の實の赤きにしるき山國の秋を懷しみくへど飽かぬかも
建御名方神の命も柿食ふと十握の劍捨てたまひけむ
思ふ事を皆に歌にしました 御笑ひさい[やぶちゃん注:ママ。]
それから神經が昂つてゐて睡りにくゝて困ります 睡られる御藥を少し頂けますまいか 熱も少々はあるやうです 頓首
十月卅一日 病 我 鬼
空 谷 先 生 梧右
[やぶちゃん注:「あな尊とぞ」「あなたふとぞ」。字余りで感動を示している。
「こやりつゝ」横になりながら。未だ体調がよくないことが判る。熱と言っているものの、過半は例の衝撃による心身症的なものであると私は考えている。
「こゝだく」「幾許」。副詞。指示代名詞「こ」の系統に属する上代語。かくも多く。たいそう。
「融きて」「ときて」。
「そがひなる」背を向けてひっくり返っているさまを言う。
「もろむく」「諸向く」。一定せず、あちらこちらと、てんでばらばらにいろんな方向を向いている。龍之介のデッサン的なイメージが非常に効果的に使われている一首である。私は好きな一首である。
「建御名方神の命」「たけみなかたのかみのみこと」「古事記」に登場する神。地上の支配者である大国主神の子。「たけ」は「勇壮」の、「みなかた」は「宗像」の転とも、「南方」の意ともされる。地上の支配権を譲り受けるために、建御雷(たけみかづち)が高天原からやってきたとき、大国主の子である八重言代主は、その交渉に応じたが、今一人の子である彼は、これに応じず、建御雷に力くらべを挑んだ。しかし、建御雷の力に圧倒されて、信濃の諏訪まで逃げ、国土を譲り渡すことに同意した後、その地に鎮座したと伝える。贈られた柿の産地が諏訪であったのであろう。
「十握の劍」「とつかのつるぎ」。]
大正一〇(一九二一)年十一月八日・田端発信・金子歌子宛
拜啓 栗をたくさん難有うございますあんな大きな栗は東京では滅多に見られません殊に私は胃酸過多の爲醫者に栗を食べる事をすゝめられてゐますそれだけ餘計難有かつたわけです右とりあへず御禮までにこの手紙を認めました次手ながら何時も頂戴物ばかりして恐縮に存じてゐる事も申し添へます 頓首
さごろものをつくば山の甘し栗ここだもたびし君はうれしも
ぬばたまの月をすがしみこのよひをひたちの山の栗落つらむか
十一月八日 芥川龍之介
金 子 歌 子 樣 粧次
[やぶちゃん注:金子歌子(明治二二(一八九九)年~昭和二四(一九四九)年:龍之介より三歳年上)は茨城生まれで、芥川龍之介の年下の友人中西秀男(既出既注)の実姉。新全集の「人名解説索引」によれば、『幼い頃からの文学少女で』、『弟の中西秀男との縁で芥川と手紙のやり取りを持ち』、『栗や初茸などを送った。茨城県石岡市の金子呉服店の女主人として店を切り盛りし』、『弟の秀男はよく遊びに出かけたという』。『最後まで文学を愛した女性であった』とある。新全集の彼女宛書簡は五通に及ぶ。
「さごろもの」「緖(を)」の枕詞。「おつくば山」で「お」は美称の接頭語と思われ、それを「を」に音通させたのであろう。
「ここだも」先の「こゝだく」と同じ。こんなに沢山も。係助詞「も」は「ここだ」によく付随する。]
大正一〇(一九二一)年十一月十日・消印十一日・速達印有り・田端発信・京橋區鍋町時事新報社内 佐々木茂索樣・十一月十日 市外田端四三五 芥川龍之介
拜啓 別封原稿、時事の文藝欄の一隅に御揭載下さるやう歎願します 著者及この文の作者に賴まれたのです どうかよろしく御取り計らひ下さい
自轉車にまたがる男ペダルふまずまむかに坂をひた下し來る
車ひき車ひきつつ自(し)が頸に古肩掛の毛布かけたり
頓首
十一月十日 芥川龍之介
笹 木 さ ま まゐる
[やぶちゃん注:「別封原稿、時事の文藝欄の一隅に御揭載下さるやう歎願します 著者及この文の作者に賴まれたのです」誰の何んという原稿か、不詳。掲載されたかどうかも、不明。]
大正一〇(一九二一)年十一月二十一日・田端発信(推定)・空谷先生・十一日 芥川龍之介
みすゞ刈る科野の國の大玉菜ふたつたびたる君はうれしも
みすず刈る科野の國に西洋の玉菜いつより作りそめけむ
十一月廿一日 了 中 庵 主
空 谷 仁 兄 侍史
[やぶちゃん注:「みすゞ刈る」「しなの」(「科野」=信濃)に掛かる枕詞。但し、近世の万葉研究による誤認識である。
「玉菜」キャベツ。]
大正一〇(一九二一)年十二月三日・消印五日・田端発信・長野縣中央線洗馬驛志村樣方 小穴隆一樣 十二月三日・東京市外田端四三五 芥川龍之介
啓
その後親戚のごたごた燃ひろごり新年號の原稿と共に愈小生を多忙になし居り候この頃睡眠は不足食慾は滅退、憐むべき狀態なり 井月の短尺目つかりしや否や井月は木曾へは少くも三度行つてゐるよし探がせばきつと何處かにあるべし
元日や手を洗ひ居る夕心
秋の日や榎の梢の片扉き
いづれ入谷尊老に叱られる句か今日中央公論の〆切なりこれにて擱筆、勉强し給ヘ
それから何か欲しいものあらば遠慮なしに申越されたし女房に命じ直ちに送らせる事とする故
河童の画に
橋の上ゆ胡瓜なぐれば水ひびきすなはち見ゆる禿(カブロ)のあたま
頓首
臘初二 了 中 庵 主
二伸 君の句「山鷄のかすみ」「木枯に山さへ」「手拭を腰にはさめる」三句うまいと思ふ
一遊亭先生 蒲下
[やぶちゃん注:「親戚のごたごた燃ひろごり」詳細は不詳だが、この前月十一月下旬頃に発生し、容易に片が付かなかったようである。
「新年號の原稿と共に……」翌大正十一年一日に発表されたのは、「藪の中」(『新潮』)・「二種の形式を執りたい」(『新潮』)・「草花、體操、習字、創作など」(『新潮』)・「俊寬」(『中央公論』)・「將軍」(『改造』)・「神々の微笑」(『新小説』)・「パステルの龍」(『人間』)・「LOS CAPRICHOS」(『人間』)・「本の事」(『明星』)・「いろいろのものに」(『主婦之友』)・「ほのぼのとさせる女」(『婦人公論』)・「英米文學上に現はれたる怪異」(『秀才文壇』)であった。
「入谷尊老」小澤碧童。
「今日中央公論の〆切なり」「俊寬」であるが、実際にはこの日には脱稿出来ていない。上記の内のめぼしいもの七篇ほどは、結局、十二月二十日の脱稿であった。恐らくは雑誌社は芥川龍之介以上にイライラしていたはずである。
「山鷄のかすみ」以下の句の初期形であろう。
*
山鷄(やまどり)の霞網(かすみ)に罹(かゝ)る寒さ哉(かな)
*
以上は後の「鄰の笛 (芥川龍之介・小穴隆一二人句集推定復元版)」に所収する。
「木枯に山さへ」同前で、
*
厠上
木枯(こがらし)に山さへ見えぬ尿(いばり)かな
*
であろう。小穴には、上記二人句集に、別に、
*
澄江堂主人送別の句に云ふ
霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉
卽ち留別の句を作す
木枯にゆくへを賴む菅笠(すげがさ)や
*
という、龍之介の名句に応じたそれがあるが、この留別吟は、翌年の大正十一年一月に右足に怪我をして細菌感染をこじらせ、同年十一月に伊香保に療養に立った際の送別吟であって、これではない。なお、小穴の症状は最悪となり、同年十一月二十七日に脱疽と診断され、翌年、右足を足首から切断し、以後、義足を使用するようになった。
「手拭を腰にはさめる」同前で、
*
手拭(てぬぐひ)を腰にはさめる爐邊(ろべり)哉
*
であろう。]
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