芥川龍之介書簡抄110 / 大正一一(一九二二)年(一) 五通
大正一一(一九二二)年一月十三日・田端発信・渡邊庫輔宛
冠省 先達は失禮しましたそれからカステラを難有う手紙も難有うその後小生は風を引いたり原稿を書くのに追はれたりしてつい御禮狀を出すのが遲くなりました尤も元來筆無精だから特別な事情がなくとも怠り勝ちなのですどうかなる可く怒らずに下さい 今日は御惠送の長崎新聞落手あなたの序文を拜見しましたあなたはわたくしと書きますね小生はあなたの說通り小說の中の一人稱はわたしとする事にきめてしまひました それからこの間新小說の編輯人が切支丹文明の事につき筆者の相談に來ましたから林若樹氏や何かと一しよにあなたを推しましたどうか暇があつたら何か書いてやつて下さい但し林氏なぞは個人的に知らないから煽動、あなたは知つてゐるから紹介した事になるのです 明星に觀潮樓主人の奈良五十首が出てゐるのを讀みましたか五十首とも大抵まづいですねこの春京都にしばらくゐた後長崎へ行きたいと思ひますそれまでに何かゆつくり小說を書きたい新年の小說は皆不出來です 蒲原君にもよろしく
一月十三日 我 鬼 生
渡邊與茂平樣
二伸 この歌わかりますかあらたまの中の歌です
あらはれむことは悲しもたまきはる命のうちに我はいふべし
[やぶちゃん注:「渡邊庫輔」(くらすけ 明治三十四(一九〇一)年~昭和三十八(一九六三)年)は作家・長崎郷土史家。芥川が嘱望し、最も目をかけた弟子の一人である。
「林若樹」(はやし わかき 明治八(一八七五)年~昭和一三(一九三八)年)は好古収集家。本名は若吉。東京府東京市麹町区生まれるが、早くに両親を失い、叔父の旧幕臣で外交官・政治家となった林董(ただす)に養われた。祖父の旧幕府奥医師であった林洞海から最初の教育を受けた。病弱であったため、旧制第一高等学校を中退するが、その頃から遠戚にあたる東京帝国大学教授坪井正五郎の研究所に出入りし、考古学を修めた。遺産があったため、定職に就かず、山本東次郎を師として大蔵流の狂言を稽古したり、狂歌・俳諧・書画を嗜み、かたわら古書に限らず、雑多な考古物品を蒐集した。明治二九(一八九六)年には、同好の有志と「集古会」を結成して幹事となり、雑誌『集古』の編纂を担当した。次いで、人形や玩具の知識を交換し合うために、明治四二(一九〇九)年には「大供会」をも結成し、「集古会」「大供会」「其角研究」などの定期的な自由な集まりを通じて、大槻文彦・山中共古・淡島寒月・坪井正五郎・三田村鳶魚・内田魯庵・寒川鼠骨・森銑三・柴田宵曲といった人々と交流を重ね、自らの収集品を展覧に任せた(当該ウィキに拠る)。但し、彼は切支丹研究家というわけではない。
「明星に觀潮樓主人の奈良五十首が出てゐるのを讀みましたか五十首とも大抵まづいですね」この大正十一年一月一日発行の『明星』に発表された。榛原守一氏のサイト「小さな資料室」のこちらで、全五十首が読める。実はこの歌群は森鷗外最後(彼はこの半年後の七月九日に委縮腎及び肺結核で満六十歳で没した)の創作作品であるが、今回、改めて所持する岩波書店の「鷗外選集」版で通読したが、芥川龍之介の言う通り、残念乍ら採るべきは一吟たりとも、ない。
「この春京都にしばらくゐた後長崎へ行きたいと思ひます」この三ヶ月後の四月一日に養母儔(とも)・伯母(実母フクから見て。養父道章を介すると叔母となる)フキを連れて京都・奈良方面の旅に出かけ、京都では「富士亭」に滞在し、「瓢亭」を訪れたり、花見や、都踊りの見物などし、京都からの書簡で『のんきなやうな忙しいやうな怪しげな日を送つて居ります』(四月六日附下島勳宛・採用しない)などと述べている。四月八日に帰宅している。而してこの帰宅した当日八日附の同じ渡邊宛(採用しない)で、長崎再訪の告知(『廿五日頃東京發二三日京都を低徊した上長崎にまゐるつもりです(宿はどちらでもよろしいあなたの選擇に一任します)』)をしている。事実、この四月二十五日の朝に長崎再訪の旅に発ち、京都に赴き、二十八日には盟友恒藤の家や、知人の日本画家小林雨郊の家を訪ねたり、祇園で遊んだりし、都合、十一日ほど過ごして、五月五日、六日頃に京を経ち、五月十日までには長崎に到着している。長崎滞在は十八日余りに及び、長崎を発ったのは、五月二十九日であった(新全集宮坂覺氏の年譜に拠る)。
「それまでに何かゆつくり小說を書きたい」この一月から四月の長崎出発の間に執筆された(創作途中のものも含む)と思しい小説は(後で見る通り、中国紀行群の執筆がダブっていた。随筆は入れない)「トロツコ」・「報恩記」・「仙人 オトギバナシ」・「お富の貞操」そして、かの「河童」である。
「新年の小說は皆不出來です」新年号に発表されたものは既注。
「蒲原君」渡邊の友人で長崎出身の小説家蒲原春夫(かんばらはるお 明治三三(一九〇〇)年~昭和三五(一九六〇)年)。前回の長崎行で非常に親しくなり、龍之介に師事して、芥川龍之介編になる「近代日本文芸読本」の編集を始めとして、多くの仕事を手伝った。昭和二(一九二七)年に「南蛮船」を刊行、芥川の没後は長崎で古本屋を営んだ。
「あらたま」この前年一月に齋藤茂吉が刊行した第二歌集「あらたま」(春陽堂刊。作歌期間は大正二年から六年のもの)。
「あらはれむことは悲しもたまきはる命のうちに我はいふべし」大正六年作。「春光」の中の一首。国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該部を見られたいが、そこでは、
*
あらはれむことは悲(かな)しもたまきはるいのちのうちに我(われ)はいふべし
*
の表記である。
「渡邊與茂平」は短歌を齋藤茂吉に師事しており、茂吉から貰った雅号が、この「與茂平」であった。因みに、龍之介は彼に「風中」という号を与えている。而してここで茂吉の歌を彼に示すというのは、これ、かなり失礼だと思うかも知れぬが、実は、前で「この歌わかりますか」とあるのは、龍之介にはこの歌の意味が今一つ摑めないので、渡邊に教えを乞うているのである(次の書簡参照)。]
大正一一(一九二二)年一月十九日・田端発信・渡邊庫輔宛
冠省 新小說へ御執筆下されし由今日も編輯者まゐり大よろこび「戲作三昧」に關する高說拜承僕の馬琴は唯僕の心もちを描かむ爲に馬琴を假りたものと思はれたし西洋の小說にもこの類のもの少からずさう云ふ試みも惡しからずと思ふ但しそれでも事實を曲ぐるは不可となれば又辯ずべきものもあらむなほ現在の僕は短歌も俳句も男兒一生の事業とするに足らぬものとは思ひ居らず
爾來「わたし」御用ひのよし珍重、文章の道豈そんな事に遠慮の入るものならむや鷗外の「わたくし」非か與茂平の「わたし」是か棒喝の間に決する位な意氣ごみを持たれても然るべしと思ふ長崎へ參るは早くも四月中旬なり尤も大した御心配には及ばずやど屋住ひにても差支へなし唯俗客來らず骨董屋でもひやかす餘裕あれば結構なり
今日天陰閑庭所々殘雪擁爐閱書心意蕭索君も啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]身體と云はず君自身を大切になされたし大器を粗末にとり扱ふのは天に罪を得る所以なる可く候 頓首
一月十九日 我 鬼
渡 邊 先 生 蒲下
二伸茂吉の歌わかるのなら御敎示を乞ふ僕には曖昧模糊たるものなり(あらはれむ事は悲しも云々の歌)
[やぶちゃん注:「新小說へ御執筆下されし由今日も編輯者まゐり大よろこび」可能性としては、三月三十一日の渡邊宛書簡(採用しない)の一節に、
*
玉稿今日落手しました新小說ならば直に頂戴する事と思ひますがその前に中央公論へ見せる事にします あれは中々面白いですね唯あなたの文章の中には文章語法[やぶちゃん注:気になるそれを指す。]が時々あります「松飾り立ち並ぶ町々」とか「こもる霞の中」(コレハ直シテアリマスガ)とか云ふ類ですかう云ふ語法は永井荷風氏も使用しますがわたしはやはり「松飾の文ち並ぶ」とか「霞のこもる」とかしたいのですあなたは同感できませんか
*
とある(太字は底本では傍点「◦」)。これについて、筑摩全集類聚版脚注では、この「玉稿」は、結局、『大正十一年六月の中央公論にのった「絵踏」の原稿などであろう』として、大正十一年四月二十二日附の渡邊宛書簡(採用しない)を参照するように書かれてあり、そこで龍之介が仲介して、渡邊の作品「繪踏」を『中央公論』に、同「去來」を『新小説』に、同「双車樓」を『人間』に送った旨の記載があるから、これら、或いは、これらの内の孰れかの原案を指しているものと推定される。
「戲作三昧」は五年前の大正六(一九一七)年十月二十日から十一月四日まで『大阪毎日新聞』に連載され、後の大正八年一月刊の作品集「傀儡師」に収録された。渡邊は、或いは「傀儡師」を龍之介から贈呈され、そこで改めて通読し、感想を述べたものかとも思われる。
「現在の僕は短歌も俳句も男兒一生の事業とするに足らぬものとは思ひ居らず」この一節は重要な発言である。則ち、芥川龍之介は、ストーリー・テラー=物語作家=狭義の小説家を自任しているだけではなく、「詩歌・和歌・俳諧をものす確かな詩人でもある」という強い自負心の表明だからである。一部の研究家は、龍之介の詩や短歌や俳句は「余技であった」と述べているが、それはこれで完全否定されるからである。
「珍重」目出度い。まことに結構である。
『鷗外の「わたくし」非か』私なら――漱石の「わたくし」――としたいところ。芥川龍之介もそうだろうが、「非か」という時、師と慕う漱石を出したくはなかったのであろう。
「棒喝」「ばうかつ(ぼうかつ)」と読んでいよう。筑摩全集類聚版脚注に、『禅家の問答に、悟りを開かぬ者をどなりつけて棒で打つ修行』とある。
「今日天陰閑庭所々殘雪擁爐閱書心意蕭索」仮に訓読すると、
今日(こんにち) 天 陰(くら)く 閑庭 所々 雪を殘す 爐(ろ)を擁(よう)し 書を閱(けみ)して 心意(しんい) 蕭索(せうさく)
か。
「茂吉の歌わかるのなら御敎示を乞ふ僕には曖昧模糊たるものなり(あらはれむ事は悲しも云々の歌)」先に引用した三月三十一日の渡邊宛書簡の一節に、
*
何時ぞやの茂吉氏の歌わかるだらうと云はれゝばわかるやうな気もするのですしかし連作の場合でもあれは無理ではないですか
*
と述べている。確かに。禪の公案みたようで、私は短歌としてよく出来ているとは思わない。]
大正一一(一九二二)年一月二十一日・消印二十二日・田端発信(推定)・小石川區小日向水道町四十二 佐々木茂索樣・一月二十一日 芥川龍之介
拜啓 いきどほり消えしよし結構なり 平生心にさへなればどんな事をしても後悔少かる可く候 若冲の画評判よろしく我鬼先生大得意なり
けふ天眞堂主人の來駕を請ひ自笑軒主人雲泉一幅を購ひ候 鐡心先生は百三十円のよしもちろん買ふのを見合せた
紀行文を書く事面倒にて閉口、茶を喫し香を炷き[やぶちゃん注:「たき」。]、若冲のゑを見て溫然と消光したし
となりのいもじ秀眞にあたふる書
若冲の木兎のゑ見に來 久方の雪茶を煮つゝわが待つらくに
二十一日 芥川龍之介
大 芸 先 生
[やぶちゃん注:「いきどほり」不詳。
「若冲」私の大好きな江戸中期の画家伊藤若冲(正徳六(一七一六)年~寛政一二(一八〇〇)年)。京都錦小路の青物問屋桝屋源左衛門の長男。名は汝鈞、若冲は居士号で、彼が崇敬した相国寺の大典禅師が命名。生来、俗事には関心を示さず、四十歳の時、家業を次弟に譲り、生涯独身で画業に熱中、初め、大岡春卜に師事し、春教と号していたが、満足できず、後に相国寺を始め、京坂の名刹にある宋・元・明の名画を熱心に模写し、また、身近にある動植物を、日々、観察し、写生に努めた。「動植綵絵」三十幅は、「釈迦三尊像」三大幅とともに相国寺に寄進されたもので、若冲の悲願がこめられた生涯の傑作である。濃艶な彩色と、彼独自の形態感覚で大胆にデフォルメされた形が、美事に調和して、特異な超現実的とも言える世界を創出している。天明八(一七八八)年の大火で家を焼失、晩年は京都深草の石峰寺の傍らに居を構え、水墨略画を同寺のために多く描いた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。博物画としても群を抜いており、幻想的超現実的でさえある天才・鬼才である。龍之介が若冲を高く評価しているは、私にはとても嬉しいことである。二〇一三年九月には福島まで見に行った。
「天眞堂主人」佐々木忠一の屋号。佐々木茂索の実兄で、骨董屋「天眞堂」を営んでいた。芥川龍之介の古玩の助言者・相談役であった。
「自笑軒主人」田端の芥川家の近くにあった料亭「天然自笑軒」の主人宮崎直次郎。龍之介と文の披露宴が行われたのもここ。養父芥川道章の一中節仲間でもあり、田端への芥川家の転居も彼の紹介であった。田端文士村の拠点ともなった。
「雲泉」釧雲泉(くしろ うんぜん 宝暦九(一七五九)年~文化八(一八一一)年)は江戸後期の南画家。名は就。肥前島原の出身。幼年、父と長崎に遊び、来舶清人について中国語と画を学び、父を亡くした後、諸国遍歴の生活を始めた。江戸に出て、寛政年間(一七八九年~一八〇一年)の三十代には、備中・備前を中心に中国・四国地方を遊歴、大坂の木村蒹葭堂を訪ねることもあった。その後、江戸に居住し、海保青陵・大窪詩仏などの芸文界の人々と交流した。文化三(一八〇六)年以降は、しばしば越後に遊び、越後出雲崎で客死した。「座ニ俗客有レバ則チ睨視シテ言ヲ接セズ」、「畫人ヲ以テコレヲ呼ベバ白眼視シテ答ヘズ」と伝えられ、文人意識が強かったが、現実には画家として生計を立てていたものと思われる。作品には様式的な幅があるが、寛政年間の若描きのものが、清新な画風で推される。代表作は「風竹圖」・「秋深江閣圖屛風」がある。旅に生き、酒をこよなく愛した孤高の画人であった。号の雲泉は雲仙岳に因んだものである(以上の主文は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「鐡心先生」小原鉄心(おはらてっしん 文化一四(一八一七)年~明治五(一八七二)年)であろう(筑摩全集類聚版脚注に拠る)。名は忠寛。美濃大垣藩士。儒者斎藤拙堂に学び、天保一三(一八四二)年に城代となり、以後、三代の藩主に仕えた。「戊辰戦争」では、一時、幕府軍に従った藩を新政府に帰順させている。彼は詩文や書画も能くした。
「紀行文を書く事面倒にて閉口」優れたものであるが、中国紀行群の執筆は、龍之介には精神的にも物理的にも重荷であった。それは、中国特派をさせて呉れた大阪毎日新聞社への義理が大きくのしかかかっていたからである。
「百三十円」(「円」はママ)国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のこちらの大正十年の現在価値換算に従えば、六万八千九百九十一円。
「溫然と」穏やかなさま。落ち着いたさま。
「消光」光陰を自然に送ること。月日を過ごすこと。
「となりのいもじ秀眞」田端の隣家で友人に彫金師香取秀眞(かとりほつま)。「いもじ」は「鋳物師(いもじ)」で「いものじ」「いものし」。鋳造物を造る職人のこと。
「雪茶」筑摩全集類聚版脚注は『未詳』とするが、これは漢方茶の名前であろう。地衣類の一種とされる、子嚢菌門チャワンタケ亜門チャシブゴケ菌綱ピンタケ亜綱センニンゴケ科ムシゴケ属ムシゴケ(虫苔) Thamnolia vermicularis 。Shu Suehiro氏のサイト「ボタニックガーデン」の「むしごけ(虫苔)」に、『わが国の各地をはじめ、南北両半球に広く分布しています。高山帯の地上に生え、地衣体は直立または臥位して、高さは』十二センチメートル『までになります。地衣体は白色で管状、幅はふつう』一~二ミリメートルで、『多少』、『屈曲して回虫状となり、先端はとがります。中国の一部の地域では、「雪茶」という名前のお茶として一般的に使用されています。それは炎症を打ち消すと信じられており、長い期間にわたって伝統的な漢方薬として使用されてきました』とあり、漢方サイト「1 中屋彦十郎薬舗」にも載っている。そこには「ゆきちゃ」或いは「せっちゃ」とあるが、まあ、「ゆきちや」と読んでおきたい。]
大正一一(一九二二)年一月二十一日・市外世田ケ谷池尻三七二 大橋房子樣・一月二十一日 市外田端四三五 芥川龍之介
拜啓
おとぎばなしの本ありがたう もつと早く御禮を申上げる筈のところ風をひきのどを腫らした爲遲れましたごめんなさい
ベテレヘムの宿よみをれば大人われも心なごみ來るを君につげなむ
頓首
一月二十一日 芥川龍之介
大 橋 房 子 樣 粧次
二伸 日曜でもおあそびにおいで下されたく候
[やぶちゃん注:大橋房子(明治三〇(一八九七)年~昭和二四(一九四九)年)は東京市公園課の造園技師長岡安平の娘として生まれ、十一歳で実姉である大橋繁の養女となり、青山女学院卒業後、「婦人矯風会」のガントレット恒子の秘書を経て、作家となった。断髪洋装で、渡欧経験もあるモダン・ガールで、大正一二(一九二三)年には欧州に遊学し、結婚前には山田耕筰との恋仲が噂された。というより、先に言っておくべきだったか、彼女はこの三年後の大正一四(一九二五)年に芥川龍之介の媒酌で佐々木茂索と結婚している(以上はウィキの「佐佐木茂索」に拠った)。なお、ウィキの表記が「佐佐木」となっているのは、龍之介が「々」は日本の記号であって漢字ではないから、中国では通用しないと脅されて(事実。現在は「々」の記号を中国でも日本の繰り返し記号として認知はしているものの、一般には使用されないし、書籍では使用されることはないそうである)、改字したものであろう。底本の岩波旧全集でも中国旅行から帰った後の書簡では、わざわざ『佐佐木』と記している。
「おとぎばなしの本」大橋の物語集と考えて、「ベテレヘムの宿」やベツレヘムを組み合わせて書誌情報がないか調べてみたが、未詳。
「ベテレヘムの宿よみをれば」「ベテレヘム」はキリストが誕生したとされるユダヤの町ベツレヘム。ウィキの「キリストの降誕」によれば、『イエスの降誕は』、「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」『のみに書かれている。それによれば、イエスは、ユダヤの町ベツレヘムで、処女マリアのもとに生まれたという』。前者「マタイ」では、『ヨセフとマリアがベツレヘムに居た経緯の詳細は記述されていないが』、「ルカ」の『場合は、住民登録のためにマリアとともに先祖の町ベツレヘムへ赴き、そこでイエスが生まれたとある。ベツレヘムは古代イスラエルの王ダヴィデの町であり、メシアはそこから生まれるという預言』(「ミカ書』五・一)『があった』。後者「ルカ」では、『ベツレヘムの宿が混んでいたため』、『泊まれず、イエスを飼い葉桶に寝かせる。そのとき、天使が羊飼いに救い主の降誕を告げたため、彼らは幼子イエスを訪れる』とある。なお、筑摩全集類聚版脚注でも、これを『大橋著のおとぎ話の一つであろう』と推理している。]
大正一一(一九二二)年一月二十一日・消印二十二日・本鄕區東片町亙二十四 小穴隆一樣・一月二十一日 東京市外田端四三五 芥川龍之介
拜啓
足の傷よりバイキンはひりし由僕の先見明かなるに感服いたされ候事と存候但し無理に雪中我鬼窟まで御出での祟りならばお氣の毒にたへず候夜半亭の屛風望みかなはざるよしせんなき事なり屛風などはどうでもよろしければ足の傷の手當て肝要になさる可く候屛風もいろいろお骨折りは難有く存じ奉り候若冲眞物まぎれあらざるよし秀眞空谷兩老人いづれも耳木兎に敬礼いたされ候君にもらひし墨臺 秀眞老人に見せし所、面の龍は蠟型にとりしもの、壊れしやうなるは鑄し時の失敗、支那の模倣にてはなく日本人の工夫、時代は德川末期のよし判明さすがに専問家[やぶちゃん注:ママ。]は詳しきものと存じ候くれぐれも足の手あて怠るべからず怠ると跛[やぶちゃん注:「びつこ」。]になる 頓首
一月廿一日 澄江堂主人
一 游 亭 先 生 侍史
[やぶちゃん注:この小穴の怪我と、その後の悪化による、後の右足首切断については、前回の最後の部分で既出既注。厳密に言うと、この年末に右足の薬指を切除したが、既に脱疽がそれ以上に進行していたため、翌年一月に右足首総てを切断した。龍之介はその手術にも付き添っている。
「夜半亭」与謝蕪村の号の一つ。
「墨臺」(ぼくだい)は「墨床(ぼくしょう)」とも言い、摺りかけた墨を載せる小さな台のこと。
「澄江堂主人」この龍之介が晩年に偏愛した号(書斎名も「我鬼窟」から「澄江堂」に変えている)は、現存するものでは、この書簡で初めて使用されたものである。]
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